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2015年12月31日

旧門司税関

 2015年も今日で最後になった。27日は、隔週木曜日にやっているホイスコーレ型ゼミ「政治思想カフェ」の特別企画兼忘年会をした。14名ほど参加があり、映画「イル・ポスティーノ」を見て、その後、詩の朗読や歌唱もあり、手づくりの料理と飲み物で楽しく過ごした。「イル・ポスティーノ」には、パブロ・ネルーダが出てきて、詩がテーマにもなっているので、詩の朗読とリコーダー・コンサートを私がした。グルントヴィ協会の会合や、他団体に呼ばれたときにときどきやるものだ。

 ドイツに留学したとき、住んでいたエッセンにあるフォルクヴァング芸術大学での詩の朗読コンサート」に友人フランクに誘われていったのが、こうしたパフォーマンスに接した最初の機会だ。その後、デンマークでも何度か詩の朗読会、朗読コンサートを経験して、自分でも仲間と始めたのである。

カンツォーネを披露

 今回は、映画の主人公の一人、ネルーダの詩ももちろん読む。年配者の女性が多いので、私の一番好きな詩人、永瀬清子の詩も読んだ。朗読の合間にヘンデルのリコーダー・ソナタなどを演奏した。他の参加者も、カンツォーネを披露したり、ギターでプロテスト・ソングを歌ったり、アカペラで歌うなど大いに盛り上がった。やはりこうした余興があると、その後の歓談の盛り上がりがハンパではない。すでに何回かこの催しをやってきたが、今回が一番よい雰囲気だった。

 30日には、年末恒例のイルミネーション見物に妻といく。小倉にまず寄り、その後は門司港である。寒くなかったのが好都合だった。去年よりは規模が縮小されているのは、不景気で節約をしたからか。しかし、それなりに工夫もあり、十分に楽しめた。とくに門司港は歩くだけでも雰囲気がある。

小倉のイルミネーション

井筒屋デパートのイルミネーション

旧大阪商船

 今年一年はどうだったかとふり返ると、還暦を迎えた年のせいもあるのか、健康面で無理ができなくなったのを痛感した年だった。3月終わり、オランダのハーグで風邪を引いて、帰国してからもなかなか治らず、ようやく治ったと思った4月上旬にはまた神奈川の茅ヶ崎に行くなどすると風邪がぶり返した。8月初めのラダックへの旅では、肺炎をもらい、帰国して8日間入院し、二週間ほど休養した。その後は、無理をしなかったせいもあり、とくに問題なく過ごせたが、少しずつ体力が衰えているのだと自覚した一年だった。

 去年から今年は、翻訳書の仕事が続いたときでもあった。6月には、マイヤーのカール・シュミット研究書『政治神学か政治哲学か』(風行社)を中道先生との共訳で出し、来年の1月には畏友オヴェの『政治思想家としてのグルントヴィ』(新評論)が出る。Amazonにはすでに情報が出ていた。前者はドイツ語、後者は英語とデンマーク語からの訳になる。後者の本は11月に出したかったのだが、いろいろな事情で年明けになった。来年はフリースクールにかんする共著の本も出るかもしれない。

 こういう本は文化には貢献しても、売れるものではないから、お金にもならない。それゆえ生活するためには、身過ぎ世過ぎの仕事をしなければならない。前は、仕事の合間にちょいちょいとできたのに、この数年は仕事をするだけで手一杯で、精神的にゆとりがなくなっている。それだけ体力、集中力がなくなってきたのか、それとも若い頃はいい加減にやっていた仕事を、長じて大人になり、手抜きしないようになっただけか、いずれが真実かはわからない。

 来年はとりあえず仲間との活動(裁判支援、行政との交渉、福祉分野でも新しい動きなど)をもう少し充実させたいと思う。『フィヒテの社会哲学』に続く著書も再び準備し始めている。仕事をしながら、研究・執筆、そして市民活動と三つの分野での活動がまた来年も続くかと思うとうんざりしないでもないが、これらのバランスが自分の売りでもあるから、怠らずやっていきたいと思う。

 

2015年12月11日

住吉神社で力士の稽古

 いよいよ今年もあと20日になった。毎年のように書いているが、一年の経つのは早いものだ。

 11月23日は家族で二年ぶりに長府へ紅葉を見にいったが、今年は暖かいせいでまだ色づいていなかった。おまけに台風が直撃したせいで塩水をかぶり、葉が縮み、色もきれいではない。一週間後に来ればもう少し見栄えがしただろう。

長府庭園

 帰りは誘いを受けていた「ニッコリ・パレード」に参加した。賛同人にもなっている。下関市は戦前から大陸との関係があり、現在も関釜フェリーが就航して、韓国と交流がある。在日韓国・朝鮮人の方も多く、彼らの住む通りもある。友人のKさんが主宰する「日本とコリアを結ぶ会」などが実行委となって、在日外国人、障碍者、性的少数者など、あらゆる差別に反対して、相互交流を訴える集会とパレードである。

ニッコリ・パレード

 韓国・朝鮮の民俗舞踊であるサムルノリの実演もあり、たいへん意義深い集会とパレードだった。歩くと手を振ってくれる市民もいる。さすが在日のみなさんが暮らす下関だと感心した。私の出身地対馬も昔から朝鮮通信使パレードなどやってきた交流がある。

 24日は筑紫女学園大でドイツ語を教えた後、希望する学生といっしょに光明寺に寄ってみたが、やはり紅葉はまだだった。しかたなく、松屋で梅ヶ枝餅とコーヒー、小倉アイスなどを食して帰った。一週間後にもまた寄ってみると今度は少し色づいて、ようやく秋らしい光景になっていた。

光明寺

天満宮の紅葉

 駅までの通勤に使っているスクーターの調子が悪くなった。バッテリーが劣化してエンジンの始動ができないときがある。バイク店にもっていって交換を頼もうとも思ったが、これだと1万2千円くらい取られるので、バッテリーだけ購入して自分で交換した。2300円ほどですんだ。 この過程でいろいろネットで調べると、エアクリーナーや点火プラグも6000キロくらいで交換するとわかった。すでに愛車は1万8千キロ走っているのに、これまでほとんど支障がなかったので気づかなかった。さっそくエアクリーナーも購入して換える。古いのは真っ黒になっていた。プラグはレンチを注文したのでそれが来てからになる。
 購入して10年になるが、これまでは多忙もあって、バイク屋まかせだった。あまり故障もせず、バッテリー、タイヤ、マフラーを交換したくらいだ。もともとメカには強いタイプでパソコンも組み立て、修理はしてきたが、バイクをいじるのは若い頃以来である。業者に頼むと合計数万円するのが、自分でやると4千円ほどですむ。忘れていたメカいじりの楽しみを思い出した。プロ用のドライバーを注文するなど、しばらくははまるかもしれない。

 12月9日は、いつも政治思想カフェで使っている「暖」でマリから来ているシャカさんとパートナーの方によるジャンベ演奏会に出てみた。マリ共和国はイスラム武装勢力が北部を支配し、紛争が起きている。先日もホテルへの襲撃事件があった。そうした厳しいマリの現状を聞きつつも、それとは好対照の暖かい民俗楽器やジャンベの演奏を楽しんだ。

シャカさんのジャンベ演奏

2015年11月15日

 11月も半分をすぎた。今年の11月はあまり寒くなく、日によっては汗が出るくらいのときもある。しかし、朝夕は冷えるので、服の着方がむずかしい。

 10月25日は、高校時代の友人と福岡オクトバーフェストにいった。大学のドイツ語の授業で、ちょうどやっているからいってみろと学生にいった手前、自分でもみておかねばならなかったからである。業者のイベントではあるが、ビールも料理もドイツのもので、また中央のテントではドイツのバンドを呼んで、ミュンヘンのオクトバーフェスト風に乾杯のかけ声と歌まである。本場でも使われるメリーゴーランドまであった。

ヴァイス・ビアを買う

メリーゴーランド

 屋台でソーセージを焼いているドイツ人が二人いたので、ドイツ語で話しかけてみた。ハンブルクから来て、二ヶ月ほど日本を回るそうだ。次は大阪といっていた。「桜の季節はいつか」というので、「それは春だ。11月には紅葉が見頃になるからそれを見るといいよ」と答えた。

ソーセージを焼くドイツ人

ムール貝のワイン蒸し

 ビールは久々にヴァイツェン・ビア、料理はムール貝のワイン蒸しを食べた。これはドイツというよりもベルギーが本場だが、ベルギーのブルージュでよく食べたもので、非常に懐かしかった。

 その後は、福岡古楽音楽祭のカルミニョーラとヴェニス・バロック・オーケストラのコンサートに行く。三月のコペンハーゲンでヘンデルのオペラ「アルチーナ(Alcina)」を観て以来のバロック・バイオリンの音である。清澄なその響きが心に染みわたる。しかし、全部がヴィヴァルディのコンチェルトではさすがに少し飽きが来る。もう少しプログラムの工夫がほしかった。ヴェニス・バロック・オーケストラは、3月に立ち寄ったヴェネツィアの教会のコンサートで弾いていたのを聴いたので、興味があった。

カルミニョーラとヴェニス・バロック・オーケストラ

 31日は、北九州国際音楽祭のメインコンサート、ベルリン・ドイツ交響楽団とユリアンナ・アヴデーエワのコンサートにいった。メンデルスゾーンとベートーヴェンのオールドイツ音楽のプログラムだ。

 お目当ては、ユリアンナ・アヴデーエワのピアノで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲3番は満足できる内容だった。4番や5番にくらべて地味な曲であるが、彼女の濃厚な演奏ぶりで聴き応え十分だった。前回のショパン・コンクールで彼女が第一位となり、2011年の1月に福岡でコンクール入賞者による凱旋公演があったときに、初めて彼女の演奏を聴いた。ショパンのピアノ・ソナタ2番を弾いたと記憶するが、そこで鮮烈な印象を受けて、また聴いてみたいと思っていた。

ユリアンナ・アヴデーエヴァとベルリン・ドイツ響

 メインの「英雄」は後半はよかったが、いまいち感銘を受けなかった。会場の響きの悪さもあったかもしれない。指揮者のソヒエフは2月に聴いて今年は二度聴いたことになる。若手では将来が嘱望される人だと思う。

 29日もチェコフィルのコンサートに行く予定であったが、仕事がつまっている中でさすがに一週間に三回も行くのはきつかった。人にチケットを譲ってこれはパスした。チェコフィルなら、またプラハで聴く機会があるだろう。

 11月1日は、若松の障害者福祉施設「ぴのきお」の秋祭りの案内を受けていたので、それに参加した。ここは健常者と障害者がわけ隔てなく暮らす施設で、所長の河野修三さんのノーマライゼーションの理念を実行している場所だ。今回は、さらにここにカフェやゼミ室を併設して、ホイスコーレ的な学びの場、芸術や文化の拠点としたいという河野さんの構想が述べられているので、これはぜひともいかねばらない催しだった。私の考えとも一致する。

 支援の音楽グループやバンドが演奏や歌を歌い、施設の障害者たちも歌ったり踊ったりする。今回は、アラブのダンスまで披露された。あいにく雨模様で、しかもこの日に限って寒い日となった。厚着で準備したのに、風邪をもらい、この一週間は体調が悪くなってしまった。しかし、この日の出会いと今後の展開の楽しみは、風邪とひき換えにしてもはるかにまさる価値があった。

ぴのきお秋祭りのラスト

参加者たち

 10日は、里親裁判支援の会の会議で下関へ行く。原告の廣岡さんの報告では高裁の審理がすでにあり、判決が来年一月と決まったそうだ。新たな証拠、証人採用などは認められず、判決の方向も見当がつく。私はそういうものだと知っており、裁判に期待はしていなかったが、原告の廣岡さんの落胆はあまりある。今後は対県庁の直接行動がメインになるので、その準備などをしていくことを決めた。

 

2015年10月23日

鎮国寺のコスモス

 10月は秋晴れが続き、不純だった9月と好対照だ。初旬に少し寒い日があったが、その後は残暑がぶりかえしたという暑さが続いた。昼間は25度を超えるときもある。

 ちょうどその寒いときの11日、2011年以来、4年ぶりに対馬へ帰った。中学の同窓会に出るためである。20歳のときに一度あり、それから40年ぶりの還暦同窓会である。同窓会に出る前に、父母の眠る墓に参り、解体を決めた家にも寄る。ここは小学校三年から住んだ家で、最近の10年ほどは人に貸していた。前の借り手の夫婦がきちんとした人だったらしく、大事に使ったようで、予想に反してあまり傷んでいなかった。

私の育った家

 家のある集落は高浜という漁師の住む地区だ。漁船は変わったとはいえ、雰囲気は昔と変わらない。自然に恵まれた場所であることを改めて感じた。時間があったので、90歳を超える叔母を訪ね、いろいろと話をする。元気で暮らしていることを確認できたのはうれしかった。

高浜の入江

繋船場(高浜港)

 その後、叔母の家に近い会場の対馬グランドホテルに歩いていった。ここは前は町営の国民宿舎であった。サニックスに買い取られ、民間ホテルに改装されたが、国民宿舎時代から支配人は従兄弟の一郎さんで、今回も温泉をタダにしてもらうなど、親切にしてもらった。

 同窓会の受付にいくと、昔の面影の残る顔とすっかり変わって誰かわからない顔といろいろだった。かつてはかわいい少年の顔をしていた者が、いかついおっさん顔になっていた。私も人から見れば似たようなものだったかもしれない。乾杯の音頭役をいわれていたので、「育ててくれた故郷の風土に感謝を!」などと適当にいって乾杯する。その後は各自歓談に入り、昔話に花が咲く。こちらが覚えていることを相手は忘れ、「こういうことがあったろう」と相手の話したことは逆にこちらが全然覚えていない。知らない自分の過去を知る思いである。

中学の同窓会

 酒が飲めないので一次会だけの参加にして、姉の嫁ぎ先である義兄の家に泊まり、翌日の飛行機で戻った。わずか一泊の短い旅だが、時間の密度は濃く、長い時間がたった気がした。

 戻った12日の午後は、宗像市のミアーレ音楽祭で、九響のコンサートに妻といった。今年は仕事の日程と重なるので、九響の定期にもほとんど行けてない。9月にオペレッタはいったものの、純粋なオケのコンサートは5月以来になる。横山幸雄さんのショパンのピアノ協奏曲1番はさすがに上手ではあるが、いつもの彼のさらっと流す流儀が気になった。この曲はもっと濃厚な方がいい。2番ならこのスタイルがよいと思うが。「運命」はあまりにも定番すぎてコンサートでは避ける曲であるものの、第3、第4楽章はベートーヴェンの交響曲の中でも聴き応えがある箇所である。そこそこに満足できる演奏だった。

 ミアーレ音楽祭は鳥栖で3年だけ行われた「ラ・フォル・ジュルネ」と似たコンセプトで、市民参加の演奏会も多い。アマチュアの人々にとってはよい発表の機会で、市民に愛される音楽祭になってほしいものだ。

横山さんのカーテンコール

市民演奏会の一つ

 8日は隔週でやっている「政治思想カフェ」で、シリア難民問題にあわせてウィンターボトムの「イン・ディス・ワールド」をみなで見た。私はよい映画と思うが、ドキュメンタリータッチが今ひとつ参加者には受けなかったようだ。その後、アフガニスタン、シリア難民について少しスライドを使って解説。よいひとときを過ごせた。

 休日も本の原稿の校正、論文の執筆、授業の準備など日々が続くが、季節がよいので、海や港にいくのはよい気晴らしになる。こういう場所に住む利点でもある。

波津の海岸

 

2015年9月21日

刈り取りが近い稲田

 今年は秋の訪れが早く、雨は多いものの、過ごしやすい日々が続いた。地方によっては水害もあり、また私の故郷の対馬でも、水害と海難事故があった。人に貸している実家も床上浸水で住めなくなり、今後のことを考えて、義兄や姉と相談し、解体することにした。何十年住んでも川から水があふれることはなかったが、十年以上前から上流地域を造成し、山を削り林を伐採したために、雨水を貯めることができず、川から水が氾濫するようになった。人災である。しかし、行政は開発には何もいわない。10月に中学の40年ぶりの同窓会があるので、そのときに家の写真を撮ってくるつもりだ。

 9月6日は、福岡市で安保法案反対の市民集会とデモがあり、協会のメンバーといっしょに参加した。すでに参院を通過して可決されてしまったが、次回の選挙で政権はかなりの打撃を受けるのではないだろうか。対外的には政策の継続性が要求されるので、すぐに廃案というのはむずかしいかもしれない。しかし、関連法を個別的自衛権での施行という形式に変えることは可能だろう。

協会の旗のもとに

県弁護士会の主催

デモのサウンドカー

 8日は妻といっしょにメルビッシュ・オペラの「こうもり」にいった。「こうもり」は欧米では大晦日の定番のオペレッタである。仕事の関係で、大晦日にヨーロッパには行けなかったのでこれはDVD以外の実演を見たことがなかった。オケや歌手はオーストリアのメルビッシュ音楽祭のメンバーだということだが、ウィーンのフォルクス・オーパとダブる人たちのようだ。途中でこのオペラ座だけの演出で、バレエ団が「美しき青きドナウ」をバックにワルツを踊る。バレエもたくさん見ることができ、妻も大喜びだった。

カーテンコールのメルビッシュ音楽祭歌劇団

 「こうもり」で一番笑いをとるのは、第三幕に出る看守である。福岡の舞台では、焼酎や博多弁も出て、観客は大盛り上がり。彼が観客に向かってアドリブで話しかけるので、前の席にいた私も思わず「Wie geht's ?(元気でやってる?)」と声を挙げると「Gut!(もちろん)」と答えてくれた。思わぬかたちで舞台に参加することになり、あとで恥ずかしかったが、まわりの観客も好意的に受けとってくれて、いい雰囲気のオペラになった。オケのみなさんにもねぎらいの言葉をかけて、彼らも「Vielen Dank(どうもありがとう)」と答えてくれた。

 19日は田端信廣先生(同志社大学教授)より、『ラインホルト哲学研究序説』(萌書房)が送られてきた(書店に出る前なので、リンクもまだできない)。690頁の大著である。私のフィヒテの本も500頁近いが、それを上回る。日本で最初の本格的なラインホルト哲学の書物であり、ドイツ観念論研究には非常に有益な本で、いただけてとてもありがたかった。田端先生は十年ほど副学長をお務めになり、その間のさまざまな改革、改組、それに文科省の要求への対応など超多忙であられた。ようやくその任も終え、これまでのエネルギーが発散されたかのような分量であるが、内容的にもすばらしい出来で、拝読していて楽しい。じっくり勉強させていただくことにしよう。

 20日には、博多在住の中学の同窓生が集まる会があり、一年ぶりに参加した。話は大いに弾み、笑いが絶えなかったが、それでも過疎が進む対馬の行く末を何とかしたいという思いはみなに共通していた。

 9月はまだ大学の講義が始まらないので、少し楽である。みなが働きに出ている日に一人残り、冷蔵庫にあった残り物を使って昼食をつくる。以下は、ある日の昼食である。10月になるとこういう余裕もなくなる。

タラのみりん焼きの昼食

 

2015年8月30日

さつき松原(宗像市

 だいぶ更新が空いてしまった。
 7月も忙しく仕事に追われた。予備校は初旬でおしまいだが、その後は大学の講義で不規則分がつまり、試験、成績評価もあって、忙しさは変わらなかった。最終週、あるいは試験期間の7月26日〜8月3日にインド領チベットのラダックに行かねばならないので、その分の補講などが前倒しになったのである。

 7月18日の夕方は、宗像市でも安保法案に反対する集会とデモがあった。市民有志が実行委員会をつくって行う純粋に市民発の企画である。200人ほどが集まり、赤間駅前で集会をしたあと、ショッピングエリアのサンリブまでデモをする。宗像にはこれといった繁華街がなく、強いて挙げればこの辺になる。この集会とデモの第二弾は、8月29日にもあり、あいにく雨で参加者の少なさが予想されたが、それでも7月の集会に負けない人数が集まった。

8月29日の安保法案反対集会

7月18日の安保法案反対デモ

 ラダック行きは、飛行機は26日であったが、台風が近づき、26日午前の福岡、羽田便が出るかどうか不明であったので、前日の25日夕方に変更して東京へ向かった。前に、デンマークツアーをしたときに、同じく台風が近づき、SAS(スカンジナビア航空)から電話がかかって、一日早めに行けといわれたことがある。台風時は国際便は時間をずらすか、別の近くの空港にするなど、必ず出るので、とにかく国内便で乗れるときにいくということをこのとき学んだ。

 26日に全日空でデリーへ向かう。搭乗率は半分くらいで、後ろの席は二人がけ、三人がけの席が空き、横になって寝ることができた。デリーには深夜1時近くに着いて、ラダックの関係者に頼んでいたホテルに迎えの車で行く。朝の8時にデリーからラダックの州都レーへの便がある。空港で休んでも疲れそうだったので、ホテルでゆっくり休むことにした。ホテルから国内航空までの車に乗ると、運転手の弟が日本語を学んでいるといって、運転手が電話をして、弟と日本語でしゃべる。来年、神戸に来るそうだ。上手な日本語で支障なく会話できた。

 9時過ぎにレーに到着すると、迎えにきているはずのオッツアルさんがいない。しばらく待つとあらわれた。ダライ・ラマが特別便で同じ時刻に着くので、混雑してくるのが遅れたという。白い絹の布をもらい、ダライ・ラマが出てくるのを待つ。儀式があり、ダライ・ラマが車で出てくると、住民のみなが白い布を差し出し、歓迎の意を示す。私の目の前を彼が通っていった。

 宿は、オッツアルさんの知人のZeeJeep パレスという民宿になる。トゥプシタンという男性が主人で、気さくにいろいろと助けてくれた。一日目は高山病からできるだけ回復するために、休養にあてた。去年よりはひどくなく、慣れもあるのだろうかと思った。二日目は、デンマークからヨーンがやってきて、彼もまた休養しないといけないので、とくに何もしなかったが、二人で宿の見晴らしのよいテラスで昼食を摂り、観光気分を満喫した。この日の夕方に打合せをして、裕美子さんという日本人の方と知り合いになった。

宿の前の景色

 三日目は、私たちを呼んだ主催者のNGO、SEBoL(行動する仏教者たち)のメンバーが、100キロほど離れたアイチー寺院という名所に連れていってくれた。ここはラダック最古の寺院だそうだ。去年も有名寺院は訪れたが、ここはいっていなかったので都合がよかった。行く途中に風光明媚な谷や山にも寄った。しかし、私はラダックで一番美しいのはその途上にある何の変哲もない村だと思う。砂と岩だらけのラダックは、人が住む場所には水と緑(木々、畑)があり、オアシスのように心安らぐのである。

アイチー寺院

 この日の夜には、SEBoLのリーダー、オッツアルさんの自宅にヨーンと呼ばれて、家庭料理のもてなしを受けた。オッツアルさんの父も同席し、いろいろと話した。

 四日目は、ダライ・ラマ法王の講和がある日なので、それを聴きに行く。3万人ほど住民が集まる大きな集会だが、外国人は席がダライラマのすぐ横になり、住民よりも近くで見ることができるのだ。チベット語を英語に同時通訳するが、機器の調子も悪く、通訳もあまりちゃんとしていない。何をいっているのかわかりにくかったが、あとで聞くと、「仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒と、自己の宗教を絶対化してはならない」など、原理主義的な傾向に警鐘を鳴らすなどしたようだ。

ダライ・ラマの法話

ダライ・ラマ法王

 五日目は、SECMOL(Student's Educational and Cultural Movement of Ladakh)というNGO形式の学校に行く。これは裕美子さんと友人のカナダ人レベッカがワークショップを行うというので、ヨーンと私が同行した。SECMOLは、ラダック人の建築家の男性とその妻のアメリカ人、ベッキーが主催している独立学校である。既成の学校ではなく、私立の自由学校になるが、いちおう中学扱いになる。全寮制の学校で子どもたちは住み込みで、生活と学びをともにする。

SECMOLの校舎

ベッキーと大学生たち

 ここのユニークさは、教員は世界から来る大学生たちがするという点だ。私が来たときも、イギリス人の大学生をリーダーとした、インド、スリランカ、スペイン人らの大学生(主には建築関係)の一行が到着し、私とヨーンは彼らといっしょにベッキーに学校のガイド、レクチュアーをしてもらった。このように、世界から様々な学生がやってきて、授業、ワークショップや、農業、学校つくり、太陽光パネルの設置などを行う。中心テーマは、有機農業、再生可能エネルギー、パッシブソーラーの校舎など、環境に置いている。中学生の子どもたちにとっては大学生くらいの若者が一番親しみやすく、大学生たちも貴重な経験をすることができるという双方の利点を生かしたプログラムになっている。人件費もかからない。大学生たちは自費でやってくる。滞在の部屋と食事を確保すればいいだけである。

 ラダックにもこういう面白い学校があったかと感心したが、行政には受けが悪いようで、かつて中国人学生が混ざっていたとき、スパイだという嫌疑を受け、警察が来たこともあるという。インドと中国は仲が悪いので、中国人というだけで差別的な対応になるのだろうが、行政もこの学校をあまり認めたくないようだ。

 宿では、フランス人のシルヴェーヌと知り合いになった。彼女は本職は教員だが、なぜか夏の休暇はラダックに来て、旅行社のアルバイトをして、フランス人観光客をガイドしている。仏教などに興味があるようだ。人柄のよい親しみやすい人で、次回、ヨーロッパへ行くときは彼女のところに寄ることを約束した。カーレースで有名なルマンに住んでいる。フランスは知り合いがいないので、ずっと敬遠していたが、これで気軽に行けるようになった。ようやくパリのルーブルにも行けるだろう。

 六日目の8月1日はいよいよメインのGAEF(グローバル・オルタナティヴ・教育フォーラム)である。本来来るはずであったあと二人のデンマーク人のゲスト、リシー(エフタースクール校長)、カール・ペーター(フリースクール校長)が来ない。何でもインドとデンマークの間でインドで逮捕されたデンマーク人過激派の扱いをめぐり、対立があり、その腹いせでデンマーク人には、わずか一週間しか滞在期間がないビザしか発行しないそうである。リシー、カール・ペーターは抗議の意味を込めて、ビザを拒否した。そのために、デンマークの関係者はヨーンとジャクリーンだけになった。しかし、ジャクリーンはデンマークのオルタナティブ学校の関係者ではない。

GAEFで講演する私

GAEFの参加者

ヨーンといっしょに質問に答える

 仕方ないので、私が最初にグルントヴィの思想とフリースクール、エフタースクールを紹介し、二番目にヨーンがホイスコーレについて語ることにした。しかし、プロジェクターにつなぐケーブルが足りず、Macでは使えない。やむをえずWindows用のファイルをつくるが、これまた互換性に問題がある。結局、ムービーファイルにしたスライドを苦労しながら上映した。英語で講演したが、わかりやすかったということだ。会場からの質問は、中学校校長など、試験をしないデンマークの学校に対して否定的で、試験は必要だという頑迷な意見もあったが、彼らを納得させる答えはできたと思う。フォトアルバムはこちら

 翌日は、デリーに戻り、行きに休んだホテルによって、夜の1時の帰国便を待った。途中、食事などで近くの繁華街に行くと、靴磨きの少年(15歳)が寄ってきて、磨かせろという。去年は、50を超えたおじさんに磨いてもらい、楽しい経験をしたので、値段をきいて磨いてもらう。値段は10ルピー(20円くらい)というので、50ルピー(100円)はやってもいいなと思っていたら、頼んでもない修理を始め、靴紐まで変えた。そして、修理をしたので、1300ルピー(2600円)だという。しまった、あくどい商売にひっかかったなと思いつつも、修理は頼んでいない、10ルピーといったのだから、10ルピーしか払わないと強くいうと、少年の目にすまないという感じがあらわれつつも、それでも1300ルピーと口ではいう。予定の50ルピーを渡し、これだけしか払えないとそこを立ち去った。

デリーの繁華街

靴磨きの少年

 磨いているあいだ少年と話したが、両親はおらず、学校にもいっていないという。親方に使われて、こういうあくどい商売をさせられているのだろう。少年のことがかわいそうに思え、もう少し払ってもよかったかなと反省する。そしたら、次は9歳の少年が、「僕ならもっときれいに磨くよ」といって近寄ってきた。尋ねるとやはり学校は行っていないそうだ。ホテルに戻るときに、住宅街を通るとスクーターを修理している父親の隣で姉妹が遊んでいた。写真を撮らせてというと恥ずかしそうにするが、父親がよい写真をとってもらいなさいという。両親がおれば、子どもたちは路上生活をせず、子どもらしい時間を過ごせることができる。何かインドの生活の一端を見た気がした。

住宅街の姉妹(左が父)

 日本に帰国して、最初は調子よくすごし、里親裁判支援の会の会議に出るなどしたが、8月8日から高熱が出始めた。しかし、この日は、政治思想カフェの夏の懇親会の日で、映画を上映してパーティがある。映画だけを上映して、パーティは欠席した。翌日の9日も熱が下がらず、しかし、北九州地域FMの番組に出演しないといけないので、解熱剤を飲んで無理に小倉まで行った。ラダックの会議のことなどを話したが、あとでUstreamなどを見るとまったくやつれた感じだ。

 10日にかかりつけの医院に行き、医師会病院を紹介されて診断を受けると肺炎ということで即入院した。最初の三日は熱が下がらず、苦しい思いをしたが、四日目からようやく熱が下がり、症状が治まった。そして、退屈な日々を過ごして、18日午前に退院した。入院は1999年12月に扁桃腺で入院して以来だが、4月からラダックまでの疲れのせいかなと思い、5日に60歳になったことを考えると、あまり無理をするなという身体からの警告だろうかと考えた。今後は、少し自分をいたわる必要があるなと反省した。

 入院で予備校の夏期講習もキャンセルせざるをえず、稼ぎもなくなったが、自宅療養の休みを利用して、畏友オヴェの『政治思想家としてのグルントヴィ』の最終稿の訳のチェックと人名索引、訳注づくりなどをした。けっこう仕事もはかどり、秋には出せそうだ。前の訳書、マイアーの『政治神学か、政治哲学か、カール・シュミットの通奏低音』(風行社)は、時間不足で納得いく仕事ができなかったので、今回はそれを反省して十分な時間をかけて、納得のいくまで検討をすることができた。あとは解説を書けば、終了だ。そういう意味ではいい夏休みだったのかもしれない。

 インドのデリーで帰国便に乗る前に、カレー屋さんでカメラを落とし、レンズを壊してしまった。このレンズの画像には不満があったので、上位クラスのZUIKO ED 12-40を購入した。届いてから試し撮りに海へいくと、前のレンズよりはいい画像になっている。これでしばらくは満足できそうだ。

2015年6月28日

山田(宗像市

 6月は一年で一番忙しい月で、おまけに季節は悪いので、うんざりする月である。始まりの1日は、下関で里親裁判支援の会の会議があり、メンバーのみなさんとコーヒーを飲みながら話して、これはいい雰囲気だった。

 9日は、福岡市のストップ再稼働集会とデモに行く。4月以降は、博多に仕事に出る日の時間がうまく合わず、九電前テントにもあまり行けないので、手伝いができないが、最低集会だけは出ないと義理が立たない。1万5千人ほどが集まり、川内原発の再稼働阻止に向けて気勢を上げた。水俣の友人Nさんや東郷さんなどといっしょに行動し、会員のKさんの手製のグルントヴィ協会の旗も誇らしくひるがえった。

再稼働阻止集会

壇上から

首都圏反原発連合も来ていた

九電前で抗議集会

 22日には、中道先生との共訳書であるマイアーの『政治神学か政治哲学か』(風行社)が届く。これは二年前に手がけたもので、訳稿は一年前に出来ていたが、本になるまでにまた一年かかった。中道先生が遠慮されたのか、訳語の統一などができておらず、出来上がりとしてはいまいちである。原文が密度の濃いドイツ語で、日本語にするのに苦労したが、大きな誤訳のないことを祈るばかりである。

訳書

 今年は、なぜか四冊も本が出る。4月には、陸前高田市の高田高校支援のワークショップをした予備校の同僚といいずな書店との協同作業で、高校生向けの英語読本「Your Own Future」を作製し、私は「デンマークの民主主義」という記事を書いた。

 マイヤーの訳書のあとは、世織書房から『世界のオルタナティヴ教育』が出るはずだ。これは共著で、私は「コルの教育思想」とコラム「自由教育大学」を担当した。いつになるか不明だが、今年中には出るだろう。あと、畏友オヴェの訳書『政治思想家グルントヴィ』も新評論から出る。訳はすでに終わり、解説を夏に書けば、その後に刊行される予定だ。自分の著書ではなく、訳や共著ばかりだが、そういうめぐりあわせの年だったのだろう。

 仕事の合間に8月のラダック(インド領チベット)での「グローバル・オルタナティブ教育フォーラム」の準備を進める。エフタースクール協会のヤコブの努力にもかかわらず、ラダックへのデンマークからのスタディツアーは4人だけで、予定よりは少なくなったが、一日の会議としては十分なゲストだ。

 旅行社にインドのビザ申請代行を頼むと1万2千円といわれ、あまりの高さに自分で取ることにした。そしたら、何と1890円プラス郵送料(往復で1120円くらい)で取れた。何ごともチャレンジである。

山田

風にゆれる花

山田に咲くアジサイ

 21日と28日の休日は幸いに梅雨の晴れ間であったので、近くの山田に行って、さわやかな風に吹かれた。白い小さな花が咲く草原を、モーツァルトのピアノ協奏曲21番第二楽章アンダンテを聴きながら歩く。これはこの曲を有名にしたスウェーデン映画『短くも美しく燃え』に同じような場面があるからだが、山田の景色も映画に劣らずよい感じで、ホタルの出る小川からの風が心地よく、日々の疲れが癒される気がした。

 

2015年5月27日

光明寺の緑陰

 この一週間よい天気が続く。日差しはすっかり夏である。五月の前半は雨と晴れの繰り返しだった。晴天が続くなら半月前であってほしかった。それならもっとさわやかな気候だったろう。

 この時期の恒例行事として、太宰府での大学の講義の帰りに、光明寺松屋に寄った。緑濃い庵の庭園と小倉アイスを楽しむ。松屋の小倉アイスは必ず小さな生花を添えてくれるのがうれしい。

光明寺の庭

松屋と小倉アイス

 24日は、福岡市のNPOもやいバンクの総会でいまをときめく坂口恭平さんとジョイントの講演会に出た。坂口さんは多芸多才の楽しい人で、思いが言葉に追いつかないという感じの人だった。共感するところも多々あり、二人の話がそれなりにハーモニーをもち、参加者の感想でもいいコンビで楽しかったという声を聴いた。

講演する坂口さん

 26日はフェドセーエフとモスクワ放送響のコンサートにいった。フェドセーエフとこのオケは、2012年の北九州国際音楽祭で一度聴いた。とてもすばらしかったので、今回も期待をして行ったが、その期待を裏切らないよい演奏だった。

フェドセーエフとモスクワ放送響(カーテンコール)

 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、レーピンとの組み合わせで、レーピンも当代一流のヴァイオリニストであり、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は彼とゲルギエフの演奏が一番のお気に入りである。しかし、日本ツアーの初日目ということもあってか、アンサンブルがいまひとつだった。

 それ以外のイタリア奇想曲、交響曲5番は熱烈で大満足の出来だった。フェドセーエフは、今年83歳というのに、年齢を感じさせない指揮ぶりである。年老いてもこういうさっそうたる活躍ができるという見本なので、大いに見習いたいものだ。

 

2015年5月17日

八所宮の藤

 だいぶあいだが空いてしまった。三月は2日から26日まで、ドイツ、デンマーク、イタリア、オランダに滞在していた。会議や研究、旅行であるが、これはまた旅日記でも書くことにする。いろんなことが起こり、たいへんではあったが、楽しくもあった。

 4月4日〜6日は、8年ぶりくらいに東京へ行った。5日に茅ヶ崎でのワークショップに呼ばれたからであるが、この機会にということで、4日には協会の談話会を中野で開いた。さすがにこの8年、談話会も開いていないので集まりは悪く、5人しか来なかったが、それでも久しぶりにお会いして互いの近況を知り、よい時間がもてた。問題は私も含めてみなさん年齢が増していることで、若い人の参加が今後は必要になってくる。

協会の談話会(東京)

 5日は茅ヶ崎へ移動する。久しぶりの東京、神奈川に来てみて、人の多さを改めて感じた。ずっと九州の片田舎にいたので、よけいにそれがわかる。川崎、横浜ならまだわかるが、茅ヶ崎でさえ、私の住む宗像などよりもはるかに混雑しているのだ。

茅ヶ崎のワークショップ

 ゆきさんの主催する教育のワークショップで、イドラット・フォルスクや表現遊びをして、その後はデンマークの教育についてスライドを交えて話す。あいにくの雨模様で外での運動ができなかったが、何とか体裁は保てただろう。ゆきさんの自宅に宿泊し、夜は高松からのKさんも交えて、遅くまで語り合った。Kさんは島育ちで私の姉に似た雰囲気があり、島育ちのせいかなと思える親近感があった。

 うれしかったのは、この日のワークショップに協会会員でもあるさおりちゃんと先輩の手島さんが来てくれたことだ。さおりちゃんは前回の談話会で会っているが、手島さんは相当に久しぶりになる。大学時代からの長い交友それ自体が財産になると思わせてくれた。

 12日には、下関で「社会的養護を考える講演会」をした。廣岡綾子さんのやっている里親裁判の判決が23日に出るので、そのための情報宣伝と景気づけを兼ねての会合である。東京から、里親問題、施設内虐待の専門家である竹中勝美さんを呼んで、ヒューマンライツ・ウォッチが制作したドキュメント映像を交えて、山口県の児童養護施設の問題などを話してもらった。うまく整理されてたいへんわかりやすいものだったが、参加者が30名ほどだったのが、残念。

竹中さんの講演


 李陽雨さんには最初に歌をうたってもらい、久しぶりに聞くしみじみとした歌声とその歌詞に味わい深い感銘を受けた。こういうシンガーこそずっと残ってもらいたいのだが、しかし、李さんもいい年なので今後が少し心配だ。

李陽雨さんの歌

 その裁判であるが、23日午後に判決が出た。行政相手の裁判の典型で、全面敗訴だった。児童相談所の手続きに違法性はないので、原告敗訴というのはまったく形式論である。彼らが書面で問題を書いていないのであれば、その書面で判断すると何の問題もない。だからこそ、証人尋問などして夫の廣岡さんや原告本人にその経緯、背景を聞いたのに、全然考慮されていない。期待はしていなかったにしても、目の前でこういう判決をされると腹立たしい。裁判官になるような人間は上昇志向が強く、体制への疑問をもたない保守的な人間であることは受験生や大学生を教えているとわかることだが、世間知らずにもほどがある。米国のように、裁判官は弁護士体験や社会経験を積んだ人間がなるべきだと改めて思う。廣岡夫妻の怒りと落ち込みもよくわかる。

判決に抗議

 21日は、兵庫の高砂から、児島さんと高須さんが来るということで、彼の友人たちが宗像でも会合を設定した。私も呼ばれ、会場はいつも「政治思想カフェ」で使っている「暖」にした。中村隆市さんも参加した。児島さんと中村さんは協会を通じて前から知り合っていたそうで、まったく気づかなかった。忙しい時期だったので長居はできなかったが、これもまたいい会合であった。

宗像でのトークライブ

 五月になっても、予備校は連休も休みはないのでゆっくりはできなかったが、毎年恒例の藤の花見にはいった。しかし、休みがとれる日があまりなく、早めだったのでまだ三分ほどの開花だった。今年は冬が長く、三月のヨーロッパも寒くて灰色に覆われていたので、青葉と花々の色がよけいに美しく感じられる。

山田地蔵尊寺の桜の葉

 寒い春のせいで、風邪を引き、微熱が二週間以上も続き、その後はちょっとした刺激物で腹を壊すなど、体調がなかなか戻らなかった。還暦もあって、いよいよ体力が落ちているのだろうか。健康が戻るとそのありがたみをつくづく感じた。ようやく初夏の気候になり、日差しも強く、緑陰も濃くなると、何ともいえない幸福感を感じる。今年出る書物が共著を入れると四冊にもなり(一冊はすでに刊行)、授業以外にも忙しかった。仕事もとりあえず順調に運び、毎日の充実を感じられるのがうれしい。

九響のコンサート(カーテンコール)

赤煉瓦館

 10日は、九州交響楽団の「天神でクラシック」コンサートに行く。途中、赤煉瓦館前を通る。博多も盛岡に負けてはいない。
 今年は定演は金曜日が多いので、仕事で行けない。それでやむなく定期の会員ではなく、「天神でクラシック」会員になった。三月にドイツで聴いて以来のオーケストラの響きだ。コンマスの近藤さんは、東京フィルのコンマスになったので、今年は九響では客員コンマスになっていた。前に読んだ新聞記事では彼は九響にやり甲斐を感じていたと書いてあったが、祖父、父と続く東京フィルのコンマスの地位ならば、一種の世襲の仕事みたいなものだから、断ることもむずかしい。でも、これまでの仕事ぶりを見るかぎり、福岡にも熱意をもって来てくれるだろう。

 

2015年2月20日

鎮国寺の梅

 久しぶりの更新になる。
 最近のことから書いてみよう。16日は、廣岡さんの里親裁判の最終弁論が山口地裁であり、宗像在住のグルントヴィ協会会員Kさんといっしょに出かけた。今回も傍聴人は20名ほど来ており、さまざまな支援の心強さを感じた。原告の廣岡夫妻はもっと勇気づけられる思いだろう。

 ふつうは最終準備書面を双方の弁護士が交換して終わりだが、それでは傍聴に来た人ががっかりするので、弁護士を通じて書面の朗読を原告の綾子さんがするようにした。一言一言噛みしめるように読み上げると、その思いがよく伝わる。新聞記者も一所懸命にメモをとっていた。

 終わって裁判所前で集会をしたあと、繁華街にビラまきに行く。8人で配り、また山口市の人は素直に受けとってくれる人が多いので、20分ほどでぜんぶはけた。最後は予定の場所でみなで集まり、食事をしながら、いろいろと話す。少しずつ支援の輪が拡がっていることが実感でき、事務局長としては手応えを感じた。

裁判所前で

 2月10日は、仕事帰りの道でいつも気になっていた洋菓子店に入り、ケーキを買った。福島菓子舗といい、かなりの老舗でカステラが売りのようである。繁華街にあるおしゃれなケーキ屋の上滑りの雰囲気はまったくなく、くたびれた老夫婦でも出てくるのかなと思ったら、イケメンのパテシェのお兄ちゃんが出てきた。どうも跡継ぎの息子らしい。客が私のようなくたびれたじいさんで申し訳なかったが、若い女性なら瞳にハートマークがでそうな格好いい若者だった。そこそこははやっているようで、この暖かさがいつまでも続いてほしいと思った。

 2月7日は、九響の定期の今年度最後の演奏会へいった。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」である。九響の定期では必ず、年末の第九以外に一回、定期の中に合唱団を使うものを入れるが、今回はめずらしく二月の定期最後になった。生で聴くと、benedictusのヴァイオリンのソロがすばらしいことに気づかされた。iTuneで聴いている音源では出せない音だ。久しぶりに大満足のコンサートになった。

九響と合唱団カーテンコール

 2月6日は毎年恒例の長崎北高での小論文講演で長崎へ行き、兄と一年ぶりに会った。去年は新地のランタン・フェスティヴァルを見たが、今年はまだ先なので、グラバー園を三年ぶりに歩いた。晴れ間も差して、春の訪れを感じさせるのどかな天気の日はここがふさわしい。よく見れば、コロニアル建築の建物ばかりで、長崎が米英国人にとっては植民地でもあったことに改めて気づく。若い女性たちが幕末の西洋人女性のコスプレをして、楽しそうに歩いているのがほほえましかった。

グラバー園

自由軒

自由軒の中

グラバー邸

 1月31日は、熊本の子ども劇場連絡会に呼ばれ、原発についての講演をした。これは県の各劇場が福島の被災者が主人公になる演劇「空の村号」をこれから上演していくので、その前に原発のことを勉強しようということで、私が講師で呼ばれたのである。

 原発のメカニズム、放射能の子どもにとっての危険性、あれだけの事故のあとでもなぜなくならないのかを説明する利権構造などを話す。すでにマスメディアでさんざん流された情報でもあるが、やはり関心がないと受けとめていなかったのか、初めて聞いてそのずさんさ、危険性、経済のしくみのひどさに驚いたという感想が多かった。しかし、関東からの避難者が三組いて、彼女たちの反応はもちろんよく、すでに熊本での反原発の市民運動にも参加しているということだった。

 翌日の2月1日は少し時間があったので、熊本市の古い民家が残るところを歩いたが、他の町に比べると規模も小さく、熊本が戦火や再開発のために魅力のない街並みになっていることを改めて知った。

西唐人町の古民家

西唐人町の洋風建築

 1月は仕事に追われてあっという間にすぎたので、特筆すべきこともない。

 九電のテント村の青柳さんが、ドイツ在住の日本人女性に招待されて、福島の被災者などを招いてのドイツでの原発とエネルギーシフトの会議に参加するという。青柳さんの誘いもあり、ちょうどドイツにいる期間だったので、3月4日と5日に参加することになった。

 主催はエキュメニカル運動で、宗教関係者も多く来る。ずいぶんと山の中の会議場になるが、バート・ホンブルクの近くでもあり、帰りにはホンブルクに少し寄ってみようかとも思う。ここはドイツの温泉地の一つである。しかし、私にとっては、ヘルダーリンやシンクレアがいた場所で、ドイツ観念論の一つの結節点でもあるのが大きな理由だ。

 長いこと見たいと思っていたのに、見る機会を逸していたアイスランド映画「春にして君を想う」をようやく宅配レンタルを使って見た。DVDがレンタルショップにもなく、アマゾンでは製造中止で中古品が万を超えるぼったくり価格になっているので、なかなか見ることができなかった。この映画のことは日本での上映年である1994年に知ったので、それからすると21年たったことになる。内容はすでに様々の情報で知ってはいた。実際に見てみるとだいたいはイメージ通りで期待を裏切らなかった。

「春にして君を想う」の一場面

 スウェーデンの傑作映画「歓びを歌にのせて」と同じく、北欧のテイストだ。北欧をよく知る人間としては、一つ一つの荒涼たるシーンがたまらない。日本人からすると冷たい印象を受けるだろうが、人々の風土性を強烈に感じられる。あの気候も、精霊も、そして賛美歌も北欧そのものである。アイスランドという小さな島国はそれ自体完結した世界であり、その小さき土地に人間の普遍性が宿っている。離島育ちにはよくわかる。名作のイタリア映画「木靴の樹」と同じで、この映画の中には人類の生きてきた歴史と本質が凝縮されているといってよい。

 今日は、久しぶりに晴れたので、梅の花を見に鎮国寺へ行く。毎年のことながら、観梅に来た老人ホームやデイセンターのお年寄りたちが若い職員に車椅子を押されながら、青空を背景にした紅梅を見上げる。彼女たちがあと何年見られるかはわからないが、つかの間でも永遠に続くかのような一日になってほしいと切に願う。

鎮国寺の梅

鎮国寺

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