2002年4月12日

 デンマークのあと、留学時代を過ごしたドイツのエッセンに行ったことは下に述べたが、かつての思い出の残る場所を今回は久しぶりに訪ねてみた。

 エッセン自体は第二次世界大戦の戦災のために古い建物は残ってはおらず、空襲を受けずに昔の建物が残るコペンハーゲンやロンドンを訪ねたあとにここにくると気が滅入るほどの味気ない街である。留学時代ときとして気持ちが沈んだのもこの街のせいだと今回わかったような気がした。

 それでも郊外に戦災を逃れた地区があり、Kettwig(ケットヴィッヒ)という名で、休日には散歩に来る人でにぎわう。私もときおり散策にいくことがあり、お気に入りの場所だった。

Kettwig(クリックすると大きくなります)

Kettwig

 エッセン大学にも久々寄ってみた。今はかつて習った教授も秘書さんもおらず、縁遠くなってしまったが、今回は図書館の資料で調べるものがあって数日そこに通った。部外者でも閲覧やコピーができるので便利である。お昼はメンザ(学生食堂)で食べたが、たまたまなのか昔の方が味がよかったような気がした。

 私のいた88年-89年はアラブ人の学生が目立ったけれど、今はほとんどおらず、代わりに在独トルコ人の子弟が増えていた。彼らはドイツ国籍をもつれっきとしたドイツ人であり、留学生ではない。

遠方から見たエッセン大学

エッセン大学哲学、歴史、宗教科学、社会科学部の
建物(右側五階に私の使った研究室があった)

 エッセンでお気に入りの場所の代表的なものがFolkwang(フォルクヴァング)美術館だ。特別有名な美術館ではないので観光客で一杯ということはなく、ゆったりと静かな雰囲気で好きなだけ見て回ることができるというのがいいのである。

Folkwang美術館

 有名ではないといっても、日本のレベルからすれば垂涎ものの絵がたくさんある。とくにドイツの表現主義前後の絵に有名なものがあり、また人気の印象派もルノアールやゴッホの中期の佳作もそろえている。ドイツロマン派の代表であるフリードリヒの二枚の絵もここの売り物だ。

フリードリヒの「虹のかかる風景」

 私が好きな絵はファイニンガーの絵である。ファイニンガーはバウハウスの最初の美術教師の一人でもあり、バウハウスの宣言の表紙絵でも知られる。彼の絵はネオロマン主義のゴシック様式のモダン化とでもいう独特の形をもっており、その硬質さが好きなのである。

ファイニンガーの絵

 惜しむらくはこういう場所がすぐ近くにあり、いつでも気が向いたらいける環境にあればいいのだが、と思う。

 

2002年4月7日

研究室で語るOve

 桜も散り、春たけなわの季節を迎えた。学校の新学期も始まり、忙しい日々が待っている。もうデンマークのあの記憶がだいぶ薄れてきた感じだ。

 今回の滞在では、Oveにたくさん世話になった。90年に彼のところを訪問して以来のつきあいで、いい友人だ。当時は彼はGerlevホイスコーレの校長で、デンマークホイスコーレ協会の会長もつとめていた。その後自由教育大学校長、ロイヤル・アカデミー研究員を経て、今はデンマーク教育大学の教員をしている。

 今回はOveの自宅に寄ったときに、新著の原稿を見せてくれたのが印象的だった。彼は『Kampen om lyset(光を求めての闘い』(邦訳は『光を求めてーデンマークの成人教育500年の歴史』東海大出版会)で評判をとり、デンマークでも有数の著作家と目されるようになった。

 新著は「Kampen om Folket(民族をめぐる闘い)」で、デンマークで今日問題となっている外国人排撃の風潮を機に、民族問題をデンマークの思想史、政治史の中であつかっている大著だ。原稿はほぼ完成しており、あとは写真を集めるだけだが、それでも今年中の刊行はむずかしいかもしれないといっていた。

 時間をかけて章ごとに説明をしてくれて、彼の熱意がよくわかった。この本も刊行されればデンマークでは高い評価を得ることはまちがいないとVartovにいたデンマーク人たちが語っていたが、まだ誰も見ていない原稿をほかならぬこの私が見ることができたというのは光栄だったし、私への信頼が感じられてうれしかった。

 怠惰な私ゆえだらだらとむだな時間だけが過ぎ去るこの数年だった。Oveの仕事ぶりを見ると少しは何かいい仕事をせねばという気になる。切磋琢磨できる友人をもつことのありがたさである。

 

2002年3月30日

 日本に戻って一週間がたつ。初めは長い滞在と旅のせいか疲れもたまり体調が悪く、少し持ち直したとおもったら不在の間たまった雑用、仕事などに追われている。それでも思ったよりははかどった。

 いい季節を迎えた。いつもよりも一週間以上桜の散るのが早い。家族で恒例の裏山への花見にいった。すぐ近くに小さな桜の名所がある。天気もよく、さわやかな一日を過ごせた。ささやかな至福のひとときである。

(クリックすると大きくなります)

家族で桜並木の下を歩く

2002年3月20日

 順風満帆で来たデンマーク滞在だったが、実は滞在最後の15日に思わぬアクシデントがあった。

 友人のOveたちといっしょにサウナなどにいき、 その後レストランでゆったりした食事を楽しむなど、実に楽しい夕べを過ごしたのだが、好事魔多し。サウナで 蒸気で全く前が見えずに転びおち、左肘を強くうってけがしたのだ。

 そのときはたいしたことないと思っていたら、夜になって痛み出しはれて、 動かせなくなり、脱臼の疑いも出てきた。痛みでよく眠れないまま、タクシーで空港へ。デンマークは医療費がただなので、コペンハーゲン空港に医務室などないか尋ねるがないという。

 不安をかかえてドイツのデュッセルドルフに到着。こちらはホームドクター制など日本と制度が違うので面倒だな〜と思っていたが、エッセンにつくと友人のAminがさっそく評判のいいKrupp病院の急患センターへつれていってくれた。

親友のAmin(右)とMohammed

 病院側は順番を飛ばして診てくれるなど、迅速な対応をしてくれた。レントゲンをとって調べてみると、骨折や脱臼ではなく打撲だった。異国での旅の途上での病気や怪我ほど不安なものはなく、いちおうの手当ても受けてひとまずは安心した。

 このときに医者が肘の骨がほんの少しかけたようなあとがあるが、破片が見当たらないといっていた。そのまま戻ると2日後に電話があり、破片が見つかったのでギプスをするという。結局今は左腕にけっこう大きなギプスをしている。

 骨折でも脱臼でもないのに大げさだなと思うが、これがドイツ的徹底性かもしれない。デンマークの人がデンマークの医者は頼りないので(けっこう医療ミスが 多いと聞いた)病気をしたらドイツに行くというのもわかる気がする。

  今回はとてもいい滞在で親切にしてもらい、怪我をして運も尽きたかと 思ったが、友人たちが助けてくれるという流れはドイツでも変わらなかった。今回の滞在のキーワードはほんとに友人、暖かい友情だったと思う。それがあったから怪我をして不安になってもすぐに解決できた。

 職場などでつるむことがいやなので日本では孤高の人、非社交的な人と思われていることが多い私である。しかしいろんな活動ではいい友人、長いつきあいの友人をたくさんもっているし、ドイツやデンマークにも助けてくれる友人は数多くいる。彼らに対しては誠意をもってつきあってきた。

 ともすれば同化、同調を強いる日本社会で、その狷介さが原因ですごく損をしているのではないかとときどき思わぬこともないではなかったが、自分の生き方はまちがいではないと改めて確信できる今回の旅だった。

 

2002年3月13日

 早いもので2月19日からのデンマーク滞在もあっというまに過ぎ、ドイツへ向かう3月16日が間近になった。いろいろな人に世話になり全体的に楽しく心地よく過ごせたのは幸いでみなに感謝したい。

 下の続きだが、イギリスでは列車の遅れに閉口した。イギリスの国鉄の民営化は日本と少し違い、いろんな鉄道会社が同じ地区を走っており、旅人にはまことにわかりにくい。しかも遅れや運休があたりまえという感じで、私が利用したときも、ふだんは最短50分でつくブライトンーロンドン(ヴィクトリア)間がなんと2時間半くらいかかった。

 ロンドンも旅人には地下鉄が一番わかりやすいのでこれを利用するのだが、狭い上に人が多く気分的にはかなり疲れてしまう。東京などでラッシュに慣れている人ならまだ違うのかも知れないが、地下道や通路は日本よりも狭いのだ。そういえばイギリスは列車も地下鉄も大陸と違って日本と同じ狭軌でゆったりしてはいない。

 イギリスで一番気持ちがよかったのはルイス(Lewes)という街に行ったときだった。サセックス州の州都ということだが、小さな町で、普段着のイギリスらしいおちついた美しい街だった。

Lewesの駅前通り

 ヨーロッパの醍醐味はロンドンやパリ、ローマといった大都市ではない。そういう街には喧噪と治安の悪さと商業主義あるいは不親切な人などがはびこり、不快な目にあうことも多いはずだ。田舎の小さな町にこそヨーロッパのよさがあると思う。これは日本も同じだろう。

 私自身、ドイツやデンマークでは田舎の小さな町でいい体験をたくさんもっている。イタリアでは喧噪とホコリだらけのフィレンツェよりも隣のアレッツォの方が閑静で美しかった。前にも書いたが、ここは映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の舞台にもなっている。ただイタリアではヴェネツィアだけは、大都市で超有名な観光地であるにもかかわらず、水の上に芸術作品のように建てられた妙もあって、どんなに人が多くても混雑しないようになっており、また車がないこともあって、世界でも最も美しい都市といわざるをえない。

 ルイスでは昔の教え子のMさんに案内されて歩き、地元のレストランで食事をするなど、短い時間ながらも充分にそのよさを堪能できた。天気もよく、また春の訪れの早いこの地方、公園の花も咲き誇っており、デンマークにはまだ来ていない春を味わえたのもよかった。

公園には花が一杯

落ち着いた雰囲気の老舗のレストランにて

 

2002年3月7日

 3月1日から5日まで、イギリスはブライトンとロンドンにいた。もともとはロンドンのある民衆教育の研究所を訪ねる予定でイギリス行きを入れたのだが、ここにメールや手紙を送ってもなしのつぶてで全然アポイントメントがとれずに、訪問を断念した。結果ただの観光になってしまったが、ナショナル・ギャラリーテート・ギャラリーには再度行きたいと思っていたので、それはそれでよかっただろう。

 テート・ギャラリーは前回もゆっくり見たが、ナショナル・ギャラリーは当時絵にあまり興味がない人と訪ねたので自分のペースで回ることができなかった。今回二日間かけてじっくり見て回るとたしかにすごい作品の質と量に改めて驚き、感心した。

 ここはレオナルドの「岩窟の聖母」と「聖母子と聖アンナと洗礼者聖ヨハネ」があることでも知られる。後者のマリアの顔はレオナルドが描いた女性でもっとも優美なものなので、私の一番のお気に入りの絵なのである。有名なモナリザの顔は男性の骨格に女性の格好をさせたアンドロジナス(両性具有)なので、私にはいま一つアピールしない。

「聖母子と聖アンナと洗礼者聖ヨハネ」

 だがこれ以外にも有名な画家のそれでなくてもいい絵がたくさんあり、立ち去るのが惜しい気がした。

 今回いいと思った絵の中にドガの「浴後、身体を拭う女」という裸婦像があった。私は裸婦像全般がこれまで好きではなかったのに、どういう変化だろうとふと考えた。美術館のショップで買った分厚いガイドブックを読むとドガもルノアールも40代から50代に集中してたくさん裸婦像を描いたとある。私も彼らと同じ年齢になり、裸婦像を美しいと思えるようになったのか。おそらくそれは自分が失ったものの価値を対象化できる年齢ということなのかもしれない。

浴後、身体を拭う女

 とはいえ、この日は学校の美術教育で来たという生徒たちが多く(ほとんどが制服だった!)、女子中学生はこの絵とベラスケスの裸婦像「ビーナスの化粧」を好んでスケッチしていた。きっと彼女たちにも気に入る何かがあったのだろう。

 

2002年2月28日

 しばらく間が空いたが、19日よりデンマークのコペンハーゲンに来ている。詳しくはグルントヴィ協会のWebに報告「Vartov便り」を随時載せているのでそちらを見られたい。

 春の訪れの日本をあとにして再び厳寒にもどった感のある滞在の最初だったが、ここ数日はデンマークも寒気が緩み春の兆しを感じるようになった。野の花々はすでに咲いているものも多く、もうすぐいい季節が始まる予感を感じさせる。

 先週の週末は友人のいるRyへ遊びにいき、ゆったりした日々を過ごした。親友のクリスチャンはRyの教会で歌を歌うアルバイトをしていた。よくは事情がわからないが、賛美歌のリードをとる役目だそうだ。最近は賛美歌もよくわからない層も増えているからとのこと。

 夜にはリーネも来ていろいろ語り合う。彼女はRyの教員で陶芸を教えている。1999年、2000年と2年続けて熊本県の清和村でのRyホイスコーレ日本ツアーに引率教師として参加した。とてもおだやかで優しい人柄で、私の親しい友人の一人となった。

談笑するクリスチャンとリーネ

 デンマークへ来て、気持ちのよい人たちとの出会いが続き、心和む日々に恵まれている。かつてはそうでもなかったのに、年をとって外国へ来るのは正直おっくうな気持ちもあったが、心配も不要で暖かいもてなしを受けている。誰ともなく感謝したい気がするし、「人間(じんかん)至るところ青山あり」を実感する毎日だ。

 

2002年2月6日

 いつもの年よりも多忙な日が続くが、今日は久々の休日で近所の散歩ができた。さいわい散歩する場所には恵まれており、季節を感じることができるし、幼いころの住環境を思い出せるところにいる。

 暖かい日で、気持ちもいい。気づかぬうちにすっかり春の兆しだ。以下に写真を載せた(クリックすると大きくなります)。

紅梅の木

梅の花

菜の花

菜の花のアップ

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