清水 満プロフィール

1955年8月5日生(68歳)

  この日はフリードリヒ・エンゲルスが逝去して60年目の同じ日で、エンゲルスの人柄が好きなだけに、これを知ってうれしかった気がする。獅子座である。情熱的な面 があるというのは当たっているとは思う。

2出身地 対馬(美津島町)

  離島で漁師の子どもとして生まれ育ったことはとにかく大きな影響を与えている。今でも農村(漁村)出身の人とは気があう。デンマークのフォルケホイスコーレ運動(詳しくはグルントヴィ協会のページを参照のこと)の人々と話があうのも、中心的なメンバーはたいていホイスコーレ運動らしく親が農民だったというのを聞いてやっぱりと思ったことがある。

3遍歴

 対馬で育ち、町の公務員を一年したあと、鹿児島大学で倫理学を学ぶ。本来大学へ行く境遇ではなかったが、仕事で縛られるのがいやで逃避先として入った。遊びとアルバイトと単位 取りしか頭にない周りの多数派学生の中にいても退屈だったので、大学には出ずに、反原発や公害反対の住民闘争に飛び込む。

 これらは今のゴミ処理場反対などの住民運動とは性格が異なり(これらの問題が深刻ではないという意味ではない)、もっと根源的な問いかけをしていた。水俣の患者達とそれを支える人々の運動をイメージするといい。石牟礼道子さんの作品はその成果 の一つである。ここで橋爪健郎さん(鹿児島大助手)や松下竜一さん(中津在住の作家)などと知りあう。出会った人々の真摯な生き様に大きな影響を受け、充実した大学生生活となる。

 こうした人々は当時「九州住民闘争合宿運動」というネットワーク組織を展開していた。九州、沖縄、山口の100以上の反公害住民闘争団体がこれに参加していたのだ。語る言葉には当時まだ色濃く残っていた新左翼的な言辞が多かったが、みなで合宿し、寝食を共にしながら討論し、行動するというそのスタイルが、参加者に何ともいえない連帯感、人間的な交流をつくりだすことが印象に残っていた。のちにこれがデンマークのフォルケホイスコーレ運動に共感する伏線となる。

 しかし大学に行かないので単位がとれず、大学は中退かな〜と思っていたが、学部で学んだ先生たちの人柄がよく、彼らに支援や理解をいただき、だいぶゲタを履かせてもらった。いい先生だとゼミにも出る気になる。私にしてはめずらしく毎回出席して、多くのことを学ばせてもらった。学部ではよい学生だったと思う。

 それやこれやで 6年(教養部4年専門2年)で卒業。佐世保市で県職の公務員をするが、やはりサラリーマン生活に耐えきれず一年で辞職。九州大学の大学院(倫理学)へ行く。

 ここはかつて滝沢克己さん(教授)で全国的に名を知られたところで、鹿児島大の吉川健郎先生のようなラディカルな問いかけをするのかな〜と期待して入ったが、滝沢先生が大学法案に抗議の退職をされて以来、ごく普通 のアカデミズムしかなかった。そこで仕方なく適当にお茶を濁して終える。ここではあまりいい学生ではなかったし、いい思い出はない。ただ学外にいた滝沢シューレ(学派)の人たちと一部知己になり、また滝沢先生ご本人にも二度お会いして、私が滝沢シューレの最後の学生といわれるようになる。

 アカデミックな業績を挙げることに疑問があり、また私よりも前の世代の問題提起である「自己否定」に一部とらわれていたので、学問的にはたいした業績もない。個人的に花崎皐平さんや高木仁三郎さん、あるいは北御門二郎さんといった方々とも知り合ったので、そういう人たちの生き方に影響を受けた面もある。

 環境倫理や生命倫理、ポストモダンといった流行を追うこともせず、また社会との直接の関連も求めなかったので、時流にも遅れたままであるが、学びが楽しみになるようなところを歩いてきたと思う。そういう意味ではブルクハルトや下村寅太郎のスタイルが一番好きで、ひそかに自分の範としてきたところがある。

 さて、滝沢さんに学んだというドイツ人がエッセン大学に教員として勤務し、その人の縁で、エッセン大学に留学することになる。しかし所属のエッセン大学よりも隣のヴッパタール大学のWolfgang Janke教授(フィヒテ哲学およびドイツ観念論の世界的権威)のゼミにもっぱら通う。その圧倒的な学識、見識に驚き、ここで初めてProfessorとはこういう人をいうのだと知る。日本で学んだ先生たちは教育者として人間的に尊敬できる人が多かった。しかし学問的にこちらをひれ伏させるような迫力をもった人はあとにも先にもJanke教授(現在名誉教授)ただ一人である。

 一人寂しく研究室で勉強しても面白くないので、もっぱらドイツの反原発運動にかかわる。監督の宮田さんに頼まれて 反核映画「ホピの予言」(アメリカのネヴァダでのウラン採掘による被曝を告発し、同時にホピ族の叡知を伝える)のドイツ語版制作を、ベルリンの有名な UFA(もとはドイツ表現主義の名作映画のスタジオ、これを占拠してできたコミューン)といっしょにやり、反核被爆者(原爆、水爆、原発、ウラン採掘などによる) 全国会議のメンバーなどをした。

 ここでUFAやエッセンのZeche Karlなど、オルタナティヴ・カルチャーセンターの人々と知りあったのは大きな励ましとなった。彼らは工場跡や廃坑を占拠して、カフェや劇場、ホール、自然食品店などを自分たちでつくり、社会に一つの文化施設、若者が集まる施設として認知させ、そこで多くの市民運動を支援する企画を行っていた。また政治亡命者の就職先としても機能した。みながそこで暮らし、活動するコミューンであったが、新しい組織形態として、オルタナティヴなNPOの模範的な姿と思えた。こうしたものが日本にできれば、それは風通 しがいい空間になるだろうと思った。

 帰国してのち、予備校や大学の非常勤講師をして糊口をしのぐ。ある自治体と学校法人が外国の学校誘致の計画を始めたので、それに呼ばれたことがきっかけとなり、デンマークのホイスコーレ運動と交流を始める。

 ホイスコーレについては、Tvind Schoolのことを77年ころ橋爪さんを通じて知っていたが、その本来の姿と全貌をこのとき初めて知る。基本的に脱原発のオルタナティヴな方法としての風力発電運動からホイスコーレに関係し、また過去の農民解放運動の歴史に共鳴したのが主な理由であって、生涯教育という関心から入ったのではない。

 全寮制で共同で暮らし、学ぶうちに、人間的交流や連帯感が育まれ、過去においては社会変革の大きな原動力になったというその内容が、かつての「九州住民闘争合宿運動」や「自主講座」運動がめざしていたあり方の一つのヴァリエーションではないかという気がした。市民運動と教育をリンクさせたスタイルのモデルとして有効かもしれないと思い、その後は日本グルントヴィ協会などを主宰し、今に至る。

 社会人になるとかつてのようにあちこち飛び回っていろいろな活動もできず、刺激も受けなくなり、毎日の変化に乏しくなる。この10年は現在は、哲学、倫理学の分野ではなく、教育(とくに社会教育)の関係者と人に思われて、教育関係の講演をすることが多い。内心はちょっと恥ずかしい。

 しかし、デンマークのフリースクール運動やエフタースクール運動などを取材するにつれて、表現やファンタジーを重視しているのではないかと思い始める。ちょうど自分の学んできたドイツ思想から、表現的な人間学が誕生するのだが、その関連性に気づいて、現在は、表現の哲学・表現的人間学に関心が移ってきた。また60年代後半から70年代にかけてのオルタナティヴな社会運動とデンマークのホイスコーレ運動に見られる人間的な交流、イワン・イリイチのいうところの「コンヴィヴィアリティ(生き生きとした状態、自立共生的とも意訳される)」を基軸に、幸福の倫理学が構成できるのではないかとも思っている。

 こう書いてくると、われながら堅苦しくせわしないやつだなという気がしてくるが、実物はその反対で、きわめて柔軟、快楽主義者である。美しいものが好きで、美しい景色を見、森や寺社の散策をし、美しい絵画があり、美しい音楽があれば幸せという人間(^^;)。他者の評価としては、「しなやか、のびのび、ヒョウキン、マイペース」というのが多い。面倒くさがりなので、ふだんは社交的なタイプではないが、時と場合によってはその逆に変身する。

4、著書 ・訳書

5、ルックス

 以上のプロフィールを見ると堅物になるが、予備校、大学の学生が私を指していうには、基本的に「お笑い系」だそうだ。今まで似ているといわれたタレントでは、

 

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