日記特別編その2

あの頃僕は若かった・・・

当時の対馬高校
今はもうこの旧制中学時代からの校舎はない

 木々や葉の色が茶色や暗色系になってくるといよいよ秋の落ち着きを深く感じてくる。しんみりとした映画や美術館で泰西名画でも見たい気持ちになるのが常だ。芸術の秋とはよくいったものだと思う。

 そういえばこの季節には学校でも文化祭なる行事があった。演劇やコンサートあるいはクラスや部活の展示などが思い起こされる。この時期に何か思い出をもつ人も少なくないはずだ。もちろん私もその一人。

  あれは高校三年生の秋だったか。赤い夕日が校舎を染めて〜♪(どっかで聞いたフレーズ)暗くなる頃まで私は教室で大きな模造紙に絵を描いていた。文芸部が演劇をするのだが、その背景に使う絵を頼まれたのだ。少しばかり絵心があるという理由で私にそのお鉢が周り、何人かの手伝いを得て放課後かなり遅くまで絵を描いていたことを思い出す。

 そのうち一人去り二人去りしていつのまにか私だけになる。私とて早く帰ろうとは思うのだが、描きだすとある程度納得がいくまでは粘って残ってしまう。結局私が最後になるのだ。場面ごとにバックの絵が変わるので数枚書かなくてはならず、それだけ時間もよけいにかかる。多分一週間くらいかかったのではないかと思う。

  書き始めて数日すると不思議なことが起こった。夕方6時を過ぎたころ、教室の廊下側の窓のレール上に弁当らしきものが置いてあるのだ。私はきっと文芸部の女子生徒が気を利かしてつくってくれたと思い、何気なしに食べた。翌日礼をいうと「あれ〜そんなことはしてないよ〜。気が利かなくてごめんね〜」という。どうも彼女らには心当たりがないようだ。では、いったい誰が?

 その日の放課後も前日と同じく遅くまで絵を描いていた。今度は少しばかり窓の方に気を向けていたつもりだったが、いつの間にか熱中してしまい、ふと気がついたらハンカチにサンドイッチを包んだものが置いてあった。

  「う〜む、いったい誰が何のために?」と一人いぶかしがった。ひょっとして誰か私を毒殺しようと考えたりあるいは下剤でも入れていたずらをしようとしているのではないか?(そんなアホな)。そこで、この日は幸い手伝いの男子生徒がまだ残っていたので、彼にまず食べさせてみた(おいおい、友人を犠牲にするのか!)。彼は「うまい、うまい」と一つ平らげその後何も変化がなかったので(当たり前だ)、私も食べてみた。たしかにうまかった。だけど謎はますます深まるばかりだった。

 翌日いよいよ最後の準備の日、今日こそは現場を目撃するぞ!とばかり私は絵を描くふりをしながら神経は窓の方へと向けていた。猫の子一匹たりとも見逃すまいぞ。だけどホントに猫が届けに来たらどうしようなんて思ったりもした(ウソウソ)。しかし6時を過ぎてもその気配がない。今日は来ないのかなと注意が緩んだ6時半頃、小さな物音がした。はっと振り向いたとき、制服姿の小柄な女生徒の走り去る後ろ姿が見えた。誰と断定できるほどははっきりわからない。ともかくも猫や猿やタヌキではなかったことはたしかだ(良かった〜)。もちろん男子生徒でもなかった(もしそうだったら当時としては対応に困ったことだろう)。

 さて文化祭が始まり、私はお役ゴメンと思っていたら、今度は照明係のようなことをさせられる。終ったあと控室にいると別のクラスのスケバンタイプの女生徒が私を呼びに来た。今から商経部の展示をしている教室に行ってくれという。何の用だと聞いても「行けばわかる、行かないとあとがひどいよ」という。別に彼女が怖いわけではなかったが、しぶしぶ従っていわれた通り商経部の教室に向かった。

 商経部の展示は商業科の校舎の二階にあった。文字通り経済データのグラフや簿記、あるいは中古のレジスター計算機や英文、和文のタイプライターなどを展示していた。普通科の私には縁があるはずもない場所だ。何でこんなところに来ないといけないのかなと不思議に思って入室すると、なぜか見学者がほとんどいない。教室の中央にある英文タイプライターに見覚えのある女生徒が一人座って何かタイプを打っていた。

(む、まずいな)と私はとっさに思った。というのも彼女、M子は高一から高二の半ばまで交際していたかつてのガールフレンドだったからだ。ちょうど一年前私の気まぐれから交際を断念していた。廊下ですれ違う度にこちらは自然に振る舞おうとしていたが、彼女は下を向いて通り過ぎるものだから私を嫌っているものとばかり思っていた。よりによってなぜこんなところで彼女と二人きりにならないといけないんだ〜と私はたいへん弱ってしまった。

 仕方なく壁の展示を見るふりをしながら、もう一方のドアへ移動しようと思った。さりげなく、自然にと心がけてゆっくり歩くと、机の配置の関係でどうしても彼女のすぐ傍を通らなくてはならない。やむなくそこにさしかかるとタイプの文面に、Dear Mitsuru とあり、英語とローマ字交じりで私へのメッセージを打っていたのだ。

 文面は正確には憶えてはいないが、もう私のことを忘れたのですか、忘れていないのなら、また私のところに来てくれませんか、といったような内容だったと思う。当時はそんな叙情的な四畳半フォークの流行っていた頃なので、その中の一フレーズだったかも知れない。

 う〜、クサすぎるよ〜!と今ならいいたくなるだろうが、若いということはこんなことが平気でできる年ごろなのだろうか。私は柄にもなくしんみりとなり、そのまま黙ってそこを立ち去った。

 さて、彼女が打っていたメッセージは実はそれだけではない。ときどき彼女と待ち合わせしていた神社の境内で何日に待っているから来て欲しいという約束の言葉もあった。私はそれを知ってはいたが、その日そこへいくことはしなかった。なぜだかはもう憶えてはいない。ただそのままきれいないい思い出として終らせようという気分だったのかもしれない。

 そしたら教室に彼女の友だちの例のスケバン風な女生徒がやってきて「清水君、あんた何で女心をわかってあげないの!」とすごい剣幕で文句をいう。別に彼女が怖いわけではなかったが(おいおいホントか)、しぶしぶ彼女に従って、約束の場に連れられていった。

 結局私は彼女と再びつきあうことになった。ここまで思われれば断るわけにもいかない。彼女の情にほだされたということはたしかにあった。あの夕暮れどきの手づくりの弁当はもちろん彼女によるものだったのだ。

 ジェンダフリーが叫ばれる今と違い、女らしさとか男らしさというものが強調された時代だった。今どきは手づくりのお弁当で男の気持ちを曳こうなんてアホくさ〜と思う若い女性も多いことだろう。男がつくったっていいじゃないかというフェミニストもいて当然だ。だが当時はそういう時代ではなかった。

 人前でベタベタすることも恥とされた頃だ。それでも男女が手をつなぐ程度はその当時もあったが、人一倍硬派を気取っていた私は、手をつなごうとする彼女を振りきり、「数メートル離れてオレの後ろを歩け」と命じるようなマッチョだった。今の女性には嫌われて当然だろうし、今でもときどき田舎のそういう粗暴な育ちの一部が出て都会の女性にひんしゅくを買うこともないわけではない。

 若いときは羞恥心が強くて何事にも人一倍の恥ずかしさがあるものだが、他面でこのようなクサイことを堂々とできるときでもある。当時の四畳半フォークの叙情の世界に誰もが自分が主人公となって酔っていた。赤い手ぬぐいをマフラーにして銭湯へ行ったり、赤ちょうちんに通ったり、岬めぐりの傷心バス旅行に行くかと思えば、精霊流しにあなたの大事なものを入れて、君のところに行きたいのに傘がないと叫んだり、サルビアの花を窓から投げ入れ、飲んで飲まれて眠るまで飲んでみたりする。だからこその青春だったのだ。

 そしてそれはまた私の秋の日々でもあった。ほのかな羞恥と甘酸っぱい懐かしさとをもって、秋が深まるとふと思い出したりする。私もいつの間にかそこまで老い、年をとってしまったのか。

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