日記特別編

「日の丸旅館譚」

 この時期には南国宮崎や鹿児島へ行くとよい。寒さにこごえて固まっていた身体が、暖かさにほぐれて、何か解放されたような安らぎを覚えるから。

 私が鹿児島大学を受験したときもそうだった。試験が終わって電停までの帰り道、のどかで優しげな日常の風景に、ここへ来れるならば何かしあわせになれそうだな〜という気がした。だが、それ以前に、私は気持ちのよい経験をしていたのだった。

 受験前のこと、私は当時電電公社(現NTT)に勤める兄に、会社の共済組合指定の宿を取ってもらった。それなら安くで泊まれるだろうという理由からだった。もらった紙には「日の丸旅館」と書いてある。(こりゃ右翼の旅館か!)と思わずつぶやいたが、共済が勧める指定旅館なら悪いことはないだろうと思って気にも留めなかった。

 当日タクシーで駅から行く。タクシーの運転手に名を告げると知らないという。彼は無線で事務所に聞いて、「ああ、あそこか。旅館とは思わなかったな〜」とつぶやいた。ふといやな予感がした。

 10分ほど走り、さびれた通りの前の廃虚のような病院じみた暗い建物の前に降ろされた。まるでつげ義春の描いた「ゲンセンカン夫人」の宿のような雰囲気。これが日の丸旅館だった。旅館というよりも、廃虚の病院を旅館に改造したような建物に見えた。

 引き戸を開けて「ごめん下さい」と何度も叫んだが誰も出てこない。あきらめかけたころ、痩せて小さな、耳の遠い、砂かけババアみたいな老婆が暗い奥から出てきた。年は80は越えているだろう。眼がギロリとこちらをにらむ。(おお、ここは妖怪旅館かよ〜!ちょっとこわいぜ〜)

 「予約していた清水ですけど・・・」
 「ああ、ちょっとお待ち下さいね」

 といって帳場に行き、確認してから、

 「お待ちしておりました」といった。
 (何が「お待ちしておりました」だ〜。誰も待ってないやんか〜!)

 二階の部屋に上げられると、表の雰囲気からきれいさは期待してはいなかったものの、予想を超える事態にまず驚いた。いまどきエアコンのない旅館はないと思うが、ここにはエアコンどころか、こたつもなく、あったのは丸火鉢だけだった。(おいおいここは民俗生活博物館かよ〜)。

 炭をもってきてもらい手をかざすが、風流とはいえ、部屋は暖まるほどでもない。おまけにこの日は寒かったので、足を火鉢の上に載せ、毛布をかぶって寒さをしのいだ。

 そういうあられもない格好をしていたら、「お風呂に入りますか」と仲居さんがいってきた。「はい」と返事して、風呂場まで案内される。風呂は離れの小屋になっており、鹿児島だから当然天然温泉である。しかし、今風のおしゃれな温泉と違って、壁はトタンぶきで、浴槽は赤土をもったような感じで、入るときさわるとボロボロと土が崩れた。湯につかりながら(とんでもない旅館に来たな〜)という不安と寂しさがわいてきた。兄は何でこんな旅館にしたのだろう。みなが「いいところだ」といっていたからというが。

 風呂から上がって戻るとき、玄関を通る。何かサラリーマン姿の人が数人いた。

 「この度鹿児島に転勤になりましたので、挨拶に来ました」

 と口々にいっていたが、転勤になったNTT社員の人が何でこんな汚い旅館にまで挨拶に来るのだろうと不思議に思えた。ここの主人はNTTに何か影の力でももっているのか?

 挨拶を受けていた老人がここの主人だった。やはり80歳はとうに越えて90に近いという雰囲気で、片目が見えないらしく、貧相でとても「影の実力者」には見えなかった。私に気がつくと、

 「ああ、あなたが鹿大(鹿児島大学)の受験生さんですね。受験生を泊めるのは初めてです。どうぞ足りないところがあったら、遠慮なくいって下さい」

 (って足りないところだらけじゃんか〜!)と内心叫んだが、気の弱い私は黙って「どうも」とボソッとつぶやいて部屋に戻った。

 夕方になり、仲居さんが食事を運んできた。大きな盆にたくさんの種類のおかずがのり、安い宿泊費にしてはこれだけでも元が取れそうないい食事だった。(はは〜ん、この宿が評判いいというのはこの食事のせいだな〜)と思い、ちょっとだけ機嫌がよくなった。味もよかった。

 食事が終わり、下の帳場の近くの公衆電話に電話をかけに行く。ふすまが開いていて、ここの主人と妻の老婆がいっしょに夕食を摂っていた。その食卓を見ると、汁とつけものの類いしかない。客にはあれほどのたくさんのごちそうを出したのだから、その残りでもありつけそうなものを、と正直思った。あまりの質素さにこちらも思わずしんみりとなるほどだった。(客には豪勢なおかずを出すが、自分たちは質素な食事で我慢することでこの安さを維持しているのだろうか)と考えざるをえなかった。

 その後は寒い部屋で何をしたかは覚えてはいない。ただとにかく寒いので早く布団をしいて寝たことはたしかだ。ここにはテレビもなかったのだ。

 翌朝起きて、朝食を一階の大広間で摂る。支度に来た仲居さんが新聞を差し出しながら「夕べはよく勉強できましたか?」と聞く。「はぁ〜、まぁまぁ」とお茶を濁すと

 「そうでしょう。ここの主人が回りに静かにしてもらうよう頼んでいましたからね」という。

 (なに?いったいどういうことだ?)と思ってたら、彼女がとうとうと説明してくれた。

 この旅館は繁華街の離れで甲突町というところ(NTTが近い)にあるが、それでも周りは数件の飲み屋があった。ここの主人は「せっかく受験生が泊まっているのだから、カラオケや酔客の騒ぎでうるさくて勉強ができないと困る。どれ、みなに静かにしてもらうようお願いしてこよう」といって、夜の10時頃一軒一軒スナックや居酒屋を回ったそうだ。

 昔からの地域のなじみであるから、もちろんお店の人もこの老人には好意的である。スナックのママも居酒屋のおっちゃんも、このおじいちゃんの頼みなら聞かないわけにはいかないと快く受け入れ、カラオケや音楽のボリュームをいつもよりは絞ったという。

 私は早くに寝たからよくわからなかったが、南国鹿児島でも珍しく厳しく冷えた昨夜、この齢80を越える老人は外に出て私のために一軒ずつ店を回ってくれたのだ。また地域のお店の人たちも暖かくそれに応えてくれた。

 私の箸は止まった。がぁ〜んと頭を打たれた気がした。この旅館が汚くて古いのに評判がよく、ここを出張で利用したNTT社員が転勤の際、わざわざ挨拶によるというのも、すべて得心がいった。ここにはこんな心優しき人たちがいたのだ。

 受験生だから飲み屋に静かにしてもらおうというそのお願い がどこまで意味があるかは疑わしい。別にしてもしなくてもいいことだろう。しかし、中味はどうあれ、客の一人ひとりに気配りをもって接するここの旅館の主人たちと仲居さんの気持ちに素直に感動した。受験生というのは、それほど世間の人から大事にされてもいるのだ。

 受験自体は勉強したことのない数学で予想通 り零点をとったが、他の科目でカバーして無事入った(金がないので科目の多い国立しか行けなかったのだ)。入学して慣れるのに必死で時間があっという間に過ぎたが、ある日、そうだあそこの旅館に挨拶にいって見ようと思って、甲突町に寄った。しかし、どうも場所がよくわからない。そのときは結局探せずに、それからまたしばらくしてついでがあるとき寄ってみた。

 だが、そこにはもはや誰もいなかった。建物は閉ざされて、ホントの廃虚になっていた。かなりの高齢の主人とその妻だったから、亡くなるか病院に入ったとしてもおかしくはない。あれはひょっとして幻だったのか?私はさびれた旅館で古きよき時代の幽霊たちに会っていたのだろうか?キツネにだまされたような面 持ちで私はそこにたたずむのだった。

 しかしこの話は幻想でも何でもなかった。鹿児島には彼らだけではなくて、私の住んだアパートの家主さんなどを始めとして、かぎりなく親切で優しい人々がたくさんいた。あのおじいさん、おばあさん、仲居さんたちに匹敵するような人々はちゃんと生きていた。若気の至りか、自分のことに精一杯で、そうした人々に充分な感謝の気持ちをあらわせなかったことが今になって悔やまれる。

 南国の厚い人情と桜島に代表されるおおらかな風土に囲まれて、私の青春は豊かに花開いたと思う。その後の人生でおのれを支えるに足るものはみなここで学んで得たことだ。

 「君よ知るや、南の国を」とゲーテはミニヨンに歌わせたが、みなさん、つらくなったり、冬が長いと思えば、南国に行くといい。寒さにこごえて固まっていた身体が、暖かさにほぐれて、何か解放されたような安らぎを覚えるから。

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