日記特別編その3

あの日バードゴーデスベルクで

Gisela Ramacher(ライン川畔にて)

 今、大分県の日出生台で米軍が実弾による演習を行っている。12日の市民による抗議行動に参加したいのだが、翌日以降の仕事の準備で急ぐものがあり、残念ながら見合わせることになった。最近はこうした直接行動に行くことも少なくなったとはいえ、今回は知人、友人も多いので久々出てみようと思っていたのだ。

 小難しいことがきらいなので、軍事基地などへの反対運動にはさほど参加したことはない。大学時代に原子力船「むつ」が佐世保へ来たときと原子力空母エンタープライズやカールビンソンが佐世保に寄港したときの大きな抗議行動に出たくらいだ。

 これは一万人以上参加した大規模なもので労組が中心だったが、私たち市民や学生は労組と行動をともにすることはなく、独自に動いて船を出したりデモをした。機動隊に挑発されてかなり足を蹴られたことを思い出す。こちらが反撃すると「公務執行妨害」での逮捕を狙っているのだ。若かったせいか、平和的な私でも頭に来てデモに紛れての肘打ちくらいはお見舞いしたけれど。

 米軍への抗議行動というと思い出すのがドイツ留学時代のことだ。1989年の4月、アメリカがネバダで地下核実験を行った。当時ヨーロッパは80年代中期を飾った「核の冬」の反対運動の熱気がまだ少し残っていて、反戦・平和運動の市民団体の力が強かった。NATOの本部があったブリュッセルで数万人の抗議行動が行われ、またドイツの当時の首都ボンでも広場で大きな集会があった。

 私はその頃「ホピの予言」(宮田雪監督)という反核映画のドイツ語版作製とインディアン(ネイティヴ・アメリカン)によるヨーロッパ横断反核ランニング「平和のためのラン」のオーガナイズを行なっていた。各地の平和団体に協力をお願いすることもあって、そのつきあいでボンにも行く必要があった。

 いっしょにこの企画をやっていた仲間のドイツ人女性ギゼラ(当時26歳)が集会のあった4月9日から大使館前でハンストに入った。私がかけつけた12日には、協力していたドイツの市民団体はすでに去り、彼女と日本山妙法寺の僧侶と尼の三人でハンストを続けていた。日本山妙法寺の僧侶たちは世界各地に住み、反戦・反核運動にはよく参加してヨーロッパではおなじみである。

 集会も終わり大デモ隊も去ったあとなので、大使館前は静かだった。警察のパトカーが一台ずっと警戒をしているが、相手が宗教者で平和的ということもあってあまり緊張感はない。それでも抗議行動の日には機動隊が並び、妙法寺の僧侶たちのうちわ太鼓が騒音条例違反だということでとりあげられ、支援の市民団体と警察とで返せ返さないで相当に揉めたらしい。

 私は来た理由にギゼラの監視役というのもあった。このとき彼女は半年前のアメリカと日本の反核ランニングでかなり体力を消耗し、それ以来若い女性だというのに髪の毛が抜けるほどに疲れていた。もう4日目になるハンストはかなり無謀な試みだったのだ。

 昼間は大使館前で抗議行動をし、その後はボンの市民運動グループといっしょに街頭で宣伝活動などをする。夜は彼らがあてがってくれた宿泊所で休んだ。

 朝になるとギゼラはパンにチーズや野菜を挟んだ軽食をつくる。え、ハンスト中なのに?と思うが、何とこれは私用の昼食なのだ。大使館付近には食事をとるような場所もないので困るだろうという配慮からだそうだ。空腹感で一杯なときに食べ物を見るのもつらいだろうと思うのに、私のために用意をしてくれる。その気持ちがうれしい。アクティヴなドイツ女性でもこういう(古くさい言葉でいえば「女らしい」)面がときおりあって、すごく印象的だった。

 私は座り込みはしても断食はせず、ギゼラたちの傍でそのパンを食べた。日本人の感覚からすると「悪いな〜」という感じだが、そこではみなすべて自然に流れ、私も悪びれずパクパクとたいらげた。だって彼女がつくってくれたんだもんね〜(なんちゃって)。

 5日目となるとハンストもいよいよ退屈である。その週末にブリュッセルで十万人集会が予定されているので、その日まで一週間やる予定だったと思う。妙法寺の僧侶たちはそちらへ参加するためにこの日に発ち、私たち二人だけの大使館前での座り込みになった。

 午後には休憩と称して二人でライン川沿いを散歩した。各国の大使館や政府の機関などが並ぶバードゴーデスベルク地区は高級住宅街なので、景観は抜群なのだ。4月に入り、木々の花は芽吹き、色とりどりになる。小雨とともに花びらが散り、ライン川の対岸の崖にはかすみでけぶる古城が見える。

 出窓のあるカフェに入り、熱いホットチョコレートを飲んだ。「ハンスト中でもこれはいいの」とギゼラがウィンクしながらいう。そうさ、君の一途さは誰よりも僕が知っている、ここでココアを飲んだってそれでハンストの価値が下がるわけじゃない、と心で答えた。

 翌日の土曜日の午後は市の繁華街のマルクト広場で市民グループの情宣活動に参加する。スタンドを立ててパンフを売ったり、マイクでスピーチしたりである。酔っ払いの中年男がマイクで語る若者に「核は必要だ」といちゃもんをつける。どこの国でも似たような人はいるものだ。

 人出は多いのだが、こちらのスタンドには人があまり来ず、パンフも売れないし、チラシもはけない。よしひとつ客寄せでもやるかと石畳に座って折り鶴をおり始めた。その前に模造紙にドイツ語で「平和への願いを込めて鶴を折って下さい。広島には平和の祈りを込めて千羽鶴の像が建っています」とか何とかそれらしいことを書いて張り出しておく。ギゼラも「あ、それ日本にいったときしたことがあるわ」と見様見まねで折り始める。仲間の市民グループの若者は「いったい何をするんだ」といぶかしくこちらを見ていた。

 すると買い物客が立ち止まってこちらをのぞき込む。どうぞいっしょにと誘っても「私にはそんな器用なことはできないわ」と遠慮して見守るだけになるが、そのうち子どもが「僕もする!」といって折り始める。集まった人から「Oh〜オリガミ!」という声が上がる。ふと顔を上げるとスタンドにも人が集まりパンフやバッジなどのグッズを購入している。さきほど「何をするんだ」と疑った若者は販売と説明に忙しそうにしていた。

 しばらく人だかりがして十数羽程度折ったときに、ヒゲのドイツ人の三十代の男が加わり器用に折り始めた。話を聞くと、家に千羽鶴の束があり、広島でもらったという。彼は街頭芸術家で世界のあちこちを放浪しているのだった。うちに来ないかという誘いにギゼラが興味を示して、彼のアパートにお茶を飲みにいくことにする。広場を離れるとき市民グループの連中が「今日はありがとう。おかげで人がいっぱい集まったよ」といってくれた。

 彼の部屋で何を話したかはもう覚えてはいない。いろんな変わった作品が所狭しと並ぶ部屋でたしか私は緑茶を飲んだと思う。東洋的なものへの関心が表された彼の部屋でギゼラは似たような人物にあったという楽しさからか快活に彼と話していた。

 ほかにもユーリッヒのNATOの地下基地建設反対運動で、深夜獰猛なシェパードの警備犬や警備兵、警官の裏をつき、キリスト教団体の平和運動グループと抗議の十字架を敷地内に立てたけっこうハードな行動も思い出に残るが、それはまたいつか語ることもあるだろう。

 根が快楽主義者なので、日本も含めて禁欲的で根性が必要なこうした反対・抵抗運動には(かかわりはしたものの)いま一つ納得がいかなかった面もあった。ガマン大会をして気持ちを盛り上げるという側面も必要なことは理解できるが、個人的にはあまり好きではないししたくない。上に書いたことが思い出として印象深く残るのも、そこには自然体の楽しさ、ゆったりした人間的な雰囲気があったからだろうと思う。

 またライン川を散策しながらゆったりしたカフェでお茶をのみつつ、それでいてグローバルに世界の仲間と反核の思いを共有しあい行動に参加できるというような、ちょっと毛色の変わった関与の仕方はないかな〜と思う今日この頃である。

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