日記特別編その14

2014年二人旅その3

夜のプラハ城とヴァルタヴァ川(モルダウ川)

 その後はプラハ行きの支度をして、アミンとモハメドにデュッセルドルフまで車で送ってもらい、見送りを受ける。ここはチェコ航空でプラハまで行くのだが、夜遅い便のためか乗客が少ないので小さなプロペラ機だった。

 一時間ほどのフライトで、夜の9時40分頃に到着した。到着ロビーに出ると、あてにしていた乗合タクシーがない。どうも9時半までの営業でタッチの差だったようだ。市内までの直通バスの売り場もあったが、ホテルの位置が市の中心部からやや遠く、そこまでのアクセスが不明だったので、やむなくタクシーに乗った。距離があり、5,000円以上とられてプラハで一番お金を使った機会になった。

 実際に行ってみると、ホテルはたしかに中心部から離れているとはいえ交通の便のよい場所にあり、トラムで夜遅くまで行き来できた。だから、帰りはトラムと地下鉄とバスで空港まで行き、三日乗車券の時間内のために無料だった。

 ホテルに一番近い電停は、Otakarova(オタカローヴァ) という名前であったが、妻はこれが「お宝場」に聞こえるらしく、覚えやすいと喜んでいた。たぶん中世ボヘミア王国のオタカル王(一世、二世)に由来する地名だろう。

 プラハはこれまでペンションに泊まっていたが、ホテルは初めてである。しかし、宿泊したホテルはペンションなみの価格だった。

 翌朝、最初に三日間の乗車券を買い、トラムと地下鉄でルドルフィンダムに行く。この夜にプラハ放送交響楽団の定期演奏会があるが、これだけはインターネットの販売がなく、直接会場のチケット売り場でしか買えないものだった。一番いい席でも250コルナ(約1250円)という格安なので、もう売り切れかなと思って期待せず、近くの三番窓口に訊くとまだある、一番窓口が売り場だと教えてくれた。

 さすがに中央部のいい場所は一人席がちらばってあるだけで、二人がけは前方しかなく、やむなくそこの席にした。公共放送のオケということで、業者に販売を頼むことなく、直接に購入するシステムにして、しかも採算は考える必要がないので格安にしているのだろう。NHK交響楽団にもこの姿勢は見習ってほしいものだ。

 その後は、これまでプラハで訪れていなかったユダヤ人街ユダヤ博物館、シナゴーグなどを回った。ずっとドイツ思想やスピノザを研究すれば、東欧ユダヤ人の影響に触れないわけにはいかない。またカフカ理解にも欠かせない。時間不足で結局スペイン・シナゴーグとテレジン収容所の記録くらいしか見ることができなかった。スペイン・シナゴーグは装飾がすばらしく、スピノザの先祖はこういうシナゴーグに出入りしていたのかと思いを馳せた。

プラハの路地

 午後はアネシュカ修道院に行くが、あいにく月曜日で閉館だった。宿に戻り一休みして、夜はプラハ放送交響楽団のコンサートに行く。プラハ放送交響楽団は何といっても「のだめカンタービレ」のヨーロッパ編で登場するオケで、日本では有名である。さすがに8年も経つとメンバーの出入りがあり、ドラマで演じたフルートの若い感じのよい女性、ホルンのおじさんはいなかった。

ルドルフィヌム

プラハ放送交響楽団

 演奏はシューマンの「春」はいまいちと思ったが、メインの「春の祭典」は統率がとれた素晴らしい出来で、オケの実力がわかる気がした。演目は「春」をテーマにしているということか。

 翌日はプラハ城とカフカ博物館を訪れた。プラハ城はもう何度も来たので、私にはいまさらの場所だが、妻は初めてなので、彼女に見せるのが目的だった。

プラハ城へ到る階段

カレル橋から見たカフカ博物館

 帰りにカフカ博物館に行く。2008年には古い小さな博物館しかなかったが、その後移転して規模を大きくした。入ると入口の係員の品のよいおばあちゃんが日本語版のパンフレットを買えという。とりあえずもっていても悪くないかと買うとチケットは一人分でいいということで、結局二人で入るのとあまり変わらなかった。人のよさそうなおばあさんでいろいろチェコ語で話しかけてくる。日本人もよく来るのだろう。

 展示はパンフレットの案内と同じで、パンフレットが日本語だけに読みやすくて助かった。実は出発前にちょうどカフカの伝記を読みかけで置いてきたままだった。読み終えていれば、もっとじっくり見ることができたろう。住んでいた家にあった古い小さな博物館は2008年に見たけれど、そのときよりはいろいろな展示をしていた。とはいえ、手紙などは前と同じものだったと思う。

 夜には、スタヴォフスケー劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を見た。2008年に「ドン・ジョヴァンニ」を見たときは、その演出のあまりの素晴らしさに感銘した場所だ。今回も期待していったが、あまりひねりもなく、淡々とした演出だった。歌や演奏の出来はもちろんあいかわらず素晴らしい。

スタヴォフスケー劇場

劇場の中

「コジ・ファン・トゥッテ」のカーテンコール

市民会館のカフェ

 気になったのは、観客の少なさで、たしかにここはモーツァルトのオペラしかしないので、どちらかというと観光客向けなのだが、それにしても少ない。「コジ・ファン・トゥッテ」自体があまり盛り上がらないオペラで人気がないということもある。地下鉄の駅も廃止されていた。この劇場は由緒ある場所なのでまだオペラを続けるとは思うが、どうかこのままであってほしいと思った。

 翌日は、空港にバスでいき、チェックインをすませたあとにいったん戻り、買い物をしたり昼食を食べる。市民会館のカフェで昼食を摂るとウェイターのおじさんがひょうきんで、楽しく過ごすことができた。

 エッセンにもどって次の日の20日は、コペンハーゲン行きの便が早く朝の5時半には出ないといけないので、早く寝て4時に起きる。6時台の列車は人が少ないだろうとたかをくくっていたら、何と昼間と変わらないかそれよりも多い。こちらは8時が仕事の始業時間なので、遠距離通勤の者は6時台に移動しなければならないのだろう。

 コペンハーゲンに着くと市内中心部まで出て、クリスチャンと合流する。宿泊先の彼の住まい、議員会館に荷物を置いて、その後は国会を案内して国会のカフェテリアで昼食を食べた。私はすでに二年前に国会に二日間もいたのでよく知っているが、妻は初めてなので喜んでいた。

デンマーク国会(クリスチャンボー)から中庭をのぞむ

クリスチャンとストロイエ中心部のカフェで

 彼は午後にはフュンのオーデンセに会議で議員のチューラを連れていかなければならない。市の中心部であるコンゲンス・ニュトフのカフェでお茶を飲んで別れる。

 私と妻は、ヘルシンオアのサダコ・ニールセンさんと会う約束をしていた。ヘルシンオアは2003年以来で、11年ぶりになる。駅についてこんなだったかなと記憶と違う風景に戸惑う。

ヘルシンオア駅

 サダコさんのところはいま車を修理に出しているそうで、彼女が自転車で来てバス路線を指示されていく。しかし、運転手が勘違いをしたか、この路線はいかないと降ろされ、仕方なく別の路線で行くが、行き方がわからず困っていたら、デンマーク人の若者がとても親切にいろいろ教えてくれた。

 そういえばプラハでもトラムの行き先を交通図で確認していたら、若い女性が「何かわからないことがあればお助けしましょうか」と声をかけてきた。ヨーロッパあちこち旅する私だが、男の一人旅ではそんなに他者が声をかけてくることはない。

 今回はこれまでになく、ヨーロッパの人々の小さな親切を受ける機会が多く、やはり夫婦二人連れはいかにも旅人という感じで、声をかけやすいのかもしれないと思った。あとたぶん若い女性の一人旅もそうだろう。しかし、これは声をかけてくる相手に注意しないといけないが、夫婦連れだと相手に悪意がないこともわかりやすい。

ニールセン宅での晩さん

 サダコさんのところで夕食をいただきながらいろいろと話す。サダコさんは久しぶりに日本語を話せるのもうれしいのだろう。夫のヨーンとも前からの知り合いであるが、彼は退職後の現在は、国際紛争問題研究所というNGOをつくり、これが折からのクリミア問題などあって、加入者が増えて、講演会なども盛況でたいへん忙しいらしい。教員時代よりもはるかに脚光を浴びているようだ。夏にサダコさんに依頼をした協会会員の個別ツアーの相談などをして、辞した。

 翌日は、妻にコペンハーゲンの名所を何カ所か見せる。ニュハウン、アマリーエンボー宮殿、ローゼンボー城、ティコ・ブラーエの天文塔など。

コペンハーゲンの街並み(大学近く)

 午後はVartovに寄って、キアステンやリセ=ロッテを訪ねる。すでにハンスは去年定年退職していたことは知っていた。キアステンもあいかわらず親切で、変わりなく対応してくれる。2007年3月にコルの本の翻訳でここに滞在して以後は、二年前にほんの少しあいさつによっただけで、ずいぶんとご無沙汰しているが、それでも親しみは変わらない。その後は、グルントヴィ図書館司書のリセ=ロッテにもあいさつに行く。彼女は日本人好みの小柄な美人なのだが、髪に白いものが増え、染めることなど全然しない人なので、少し老けて見えた。しかし、雰囲気は変わらず、笑顔でしばらく話した。

左がキアステン

 翌日は再びエッセンに戻り、夜はオペラハウスでのエッセン・バレエの「真夏の夜の夢」に行く。アメリカでバランシン振付の作品が知られるが、今回のものはエッセン・バレエの独自の振付、演出である。モダン・バレエ中心で、劇団員による劇中劇もあり、たいへんに楽しめるバレエだった。妻はモダン・バレエの振付、演出が初めての経験だったこともあり、新鮮な感動を覚えたようだ。今度の旅で訪れたコンサート、オペラも含めて、これが一番よかったという。

エッセン・バレエ(カーテンコール)

 このバレエに行く前に、世話になったアミンにお礼を兼ねて遅い昼食をおごる。リュッテンシャイトにあるスペイン・レストランに行き、豪華なランチを三人で食べる。トルコ人二世のウェイターが愛想がよく、うっかり注文を聞き違えて一品が無料のサービスになった。

 パエリアや日本のキビナゴのような小魚のフライ、イカのリングフライなど、地球海沿岸の料理は日本料理に少し通じるところがある。

 今回、私だけではなく妻の相手もアミンはしたわけだが、側から見ていると彼はほんとうに女性を相手にするのがうまい。男相手では硬派な側面を見せることが多いが、女性が相手だと穏やかな雰囲気で、気遣いを見せ、適度にジョークを入れる。人間的に魅力があるので、女性にももてるだろうなと思った。出る場所さえ違えば、彼は社会のリーダーとして著名人になっていた能力があったと思うが、あえてそうしたエグゼクティヴな道には進まなかった。好漢アミンと最後の時間を過ごし、別れを告げて、翌日朝、日本への帰路についた。

フォトアルバム・プラハ


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