日記特別編その4

母走る

「誓いの休暇」の一場面

 大学の講義でときに映画を学生に見せることがある。旧ソ連映画の「誓いの休暇」もその一つだ。大学生の時にテレビで見て感動し、そのとき友人にビデオに録画してもらったものをいまだにもっているほどだ。市販のものを買おうとしたが長いことレーザーディスクのものしかなかった。最近やっとDVDが出たらしいので、これは購入するつもりでいるが。

 とてもわかりやすい作品で映画の楽しみがいっぱいにつまっている。反戦映画、ラブロマンス、家族を描いたもの、ロードムービーなどとにかくいろんな要素があり、何度見てもあきない。列車の中の乗客たちや道路で働く民間人、せこい下士官など、トルストイ、ゴーリキー、チェホフなどの作品に出てくるような人物の雰囲気をもち、重厚さ、リアリティ、諧謔などが感じられ、画面的にはクールベ、ドーミエといった画家たちのできのよい絵画を見ているような気持ちになれる。

 出会いと別れの場面には必ず水がモチーフとなり、日本人の深層にも響くものをもっている。車窓から見える針葉樹林も印象的だ。ロシアの大地は水と緑を豊かにもっているのだろう。

 この映画でもっとも感動的な場面は、主人公の母がつかの間帰ってきた息子に会うために畑から必死で走るシーンだ。映画評論家の山田宏一氏は「かつてスクリーンで見ることのできた最も美しい母のイメージ」とまで形容している(朝日新聞日曜版1992年3月1日)。私も初めて見たときは涙をこらえることができず、深い感動におそわれたことを覚えている。

 母が走る。おそらく母が必死で走るなんて場面はあまりよいときではなく、子どもに何か異変が起きたときだろう。子どもの頃、近所の犬がうちに遊びに来て、自分の子犬が何か異変があって鳴いたとき、猛烈にダッシュして戻っていた場面を見た記憶があるが、そのときも犬でも母子の絆は変わらないんだと感じ入ったものだ。最も原初的な感情だからこそ感動するのかもしれない。

 うちの母が走る姿を私も見たことがある。小学校4年生のときだったか、朝学校へいく支度をしていると、二歳年下の弟がストーブにぶつかり、ヤカンの熱湯を足にかけて大やけどをした。母はすぐにズボンを脱がそうとしたが、皮膚とくっついてしまっているので、やむなく引き裂いた。そのときすぐに水で洗い流しておけばまだましだったと思うのだが、昔の民間治療の間違ったやり方でカタイシ油をつけてしまったため、実はよけいに悪化してしまった。苦痛に七転八倒する息子の姿に動転した母は、弟をせなかにおんぶをして病院へ走り出した。

 1965年(昭和40年)当時だからマイカーなどは少ないし、田舎だから救急車もなかった。それでも近所の商店は軽トラックなどをもっていたから頼めば送ってもらえるはずだった。私が大けがをしたときにはそうしてもらった記憶がある。しかし、動揺したためかそこまで思いつかなかった母はとにかく息子をおぶって走り出した。私ももちろん伴走した。

 病弱だった母はやせていて(30キロ後半だったろう)、しかるに弟は発育がよかった。1キロ半ほどの道のりを母は白い息を吐きながら、重い息子をおぶって必死で病院まで走った。走るたびに弟が揺れてバランスを崩しそうになり、そばで走る私から見ても母はつらそうだった。それでも一度も休むことなく前を向いて冬の朝の田舎道を走るのだった。私も同じく苦しむ弟にもうすぐだなどと声をかけながらランドセルをしょって走っていった。

 この光景は今でも印象深く残っている。子どもだったから漠然としてはいるが、それでも母のすごさというか一所懸命さに心うたれるものがあった。親あるいは養育者なら当然のことをしたまでかもしれない。それでもこのことだけでもわが母は尊敬に値すると思うのである。その母も亡くなりすでに6年が経つ。

 母が走るときは異変のときと上に書いた。今日でも戦場あるいは医療困難、食糧難の地域で子どものために必死で走っている母親がいるのだろう。悲しくて不幸なことだ。しかし人の生きることの崇高さをそこに見てとることができる。それがなにほどかの救いと希望になると思うのは私だけだろうか。

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