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2024年4月13日

旧県公会堂

 つい先日更新したが、たまらないうちにまた日記を書くことにした。
 11日にコンビニのATMでお金を3万円おろした。そのあと一時間くらいして、支払いのときに財布を開くと、おろしたお金がないことに気づいた。ATMから取り忘れたのだ。

 何年も前に一回こういうことがあった。そのときはすぐに気づいて、数分後取りに戻ったので、ことなきを得た。

 年度がわりで、仕事も始まり、何かと現金も必要かと思い、引き出したのだが、別の商品に気を取られて「これ買ってもいいな」と関心がそちらに向いたとき、一連の動作が途切れて、取り忘れてしまった。高齢になるとよくあるミスだ。

 気づいてのち、すぐにコンビニに戻り、店員に聞くが、届け出はないという。あとからATMを使った人が親切に店員に届けてくれればという淡い期待もあったが、福岡市の繁華街天神はインバウンドも含め、九州では一番いろんな人がたくさん来る場所だ。期待した自分が甘かったとへこんでしまった。

 貧乏人には3万円は大きすぎる。がっかりしたまま一日が過ぎた。翌日、銀行アプリで3万円の出金を確認しようとすると、いくら探してもその項目がない。ハッと思い当たり、ネットで確認したら、やはりATMにある一定時間お金を取らないとふたが閉じ、自動キャンセルする機能が働いたようだ。世の中、自動制御技術がこれだけ進んでいるのだから、ATMがこのくらいしても当然といえば当然だ。

 このことはどこかで読んで記憶の片隅にあったが、実体験がないので、そのときには全然頭になかった。幸い、そのあとにATMを使った人がいなかったようだ。もちろん、使った人がいたら、店員に届けてくれた可能性もあるだろう。いずれにせよ、新年度の最初の大きな失敗がリカバリーされてほっとした。

 12日は、九響の新年度最初の定演に行った。今年から首席指揮者になった太田弦くんのデビュー公演である。まだ若く経験も少ない彼なら、ヴェテランの楽団員が操りやすいから選ばれたのではないかという気持ちもないではなかった。

 しかし、実際の演奏を聴くとそれはまちがいとよくわかった。メインはショスタコーヴィチの5番「革命」であるが、すばらしい演奏で、私がもっているヤンソンスのCDの演奏よりもはるかによかった。今回の演奏もまた九響のCDになるらしい。購入必須で愛聴盤になりそうだ。

太田君と九響

 3月の小泉さんの「英雄の生涯」でもそうだったが、九響はすばらしくいい演奏をしても、途中少し乱れたり粗くなったりするときがある。しかし、今回はそれがほとんどなく、全体を通じてほどよい緊張が持続した。彼の指揮は前にも聞いたことがあり、そのときは若々しい元気のよい指揮ぶりとしか思わなかった。太田くんには今後も期待できそうだ。

 しかし、聴衆がスタンディング・オベーションを送ったのは、その前の亀井聖矢くんのピアノコンチェルトだった。とくにいいわけではなく、硬い平凡な演奏だった。それなのに数十人のおばさんたちが立ち上がって拍手していた。席も真ん前に集まっている。いつものアクロスではあまり見ない光景だ。

 テレビを見ないから知らなかったが、彼はよくテレビに出る人らしい。若くてそこそこイケメンということで、女性ファンが多いようだ。ちょうどフィギュアスケートの羽生くんなどのおっかけと同じ感じだ。今回の定期演奏会は、テレQも共催でテレビCMをよくやったらしい。日頃の定演に来ないタイプの人が多かった。

 ついでにいえば、福岡では九響定演の会員が一番レベルが高く、マナーもよい。指揮者が腕をおろして一呼吸する間もちゃんと与え、聴衆を振り向いたときに拍手やブラーヴォをする。ウィーンフィルとかパリ管とか欧米のメジャーオケが来たときに集まるミーハーがいない。指揮者がまだ手を挙げているのに、音が止むとわれ先にブラボーを争うフラブラ族はいない。連日の公演続きで、福岡のような田舎では手抜き演奏をしても、ブラボー喝采をするような連中とは明らかに違う。

 亀井くんは、クラシック界では清塚信也くんの路線になるのか。彼もメディア登場が多く、女性人気があるが、ラフマニノフ2番を福岡でやったとき、全然下手なのに喝采が多かったのは違和感があった。

 太田くんは亀井くんの何倍ものいい演奏をしたというのに、さきほどのおばさん、おばあさんは立ち上がらず、たった一人おばあさんがスタンディング・オベーションをしていた。亀井君だけが目的で、終わると休憩時間に帰った女性も目撃した。余韻を楽しむ余地を与えないフライング・ブラボー連中も、マーラーやベートーヴェンのときほど声をあげず、ショスタコーヴィチというせいもあるのか。

恒例の団員見送り。大山佳織さんはいなかった。

 まぁ中味はなくても、高齢化が厳しく、数十年後にはクラシックの聴衆が絶滅するといわれているので、アイドル路線で、若い女性、クラシックをこれまで聞かなかった人たちを集めてくれるのは、それなりの貢献ではあろう。

公会堂前

 初夏の日差しで、さわやかな天気だったので、アクロスの帰り道、旧県公会堂前を歩くなどした。この季節になるとここは気持ちがいい。ときどき寄るキッチングローリーに寄って夕食を食べて戻った。こことトマト畑はいつまでも続いてほしい。

 

2024年4月8日

 24年が明けて3ヶ月がすぎた。もう桜の時期も終わり、日が照れば初夏という感じになってきた。4歳の孫が「花見に行こう」という。世間の動向を理解するようになってきたのか。

田久桜公園

孫と花見

 今年の桜は近年では遅く、4月になって花開いた。桜の記憶では、小学校の入学式に、ブランコに乗ると桜吹雪が舞い、子ども心にきれいだなと感じたものが一番印象深い。入学式は4月8日頃と相場が決まっているから、昔は4月に咲いていたのだ。

 さて、3ヶ月ぶりの日記の更新をしよう。
 1月と2月は三回も風邪をひいた。これまであまりこういうことはなかった。三度目は一晩で熱が下がる程度だったが、それでも38度5分くらい発熱した。風邪のあとが年齢のせいか治りが悪く、体のうちからの元気が出てこない。それが一番きつかった。

 1月は、「子ども寺子屋カフェ」の新年会、中学の同窓会などあって、幸いこのときは風邪が治っていたので、参加して交歓できた。

 1月から2月は例年、大学でもっている授業の試験、採点、成績評価に追われる。しかし、それが終わると自由な時間ができるので、日頃ごぶさたしている場所や人々に会いにいける時期である。

 2月13日は、久しぶりに「宅老所第二よりあい」へ行き、代表の村瀬孝生さんと話した。3月の「よりあいの森」へのエクスカージョンと彼を招いての講演会の打ち合わせが主だが、村瀬さんと話すときはいつももりあがるので、1時間の予定が3時間になるまで話し込んだ。

第二よりあい

 ここで決めた3月のエクスカージョンは28日になり、7人の参加で実施した。4人は宗像市の成年後見研究会のメンバーである。村瀬さんは昨年の7月にこの成年後見研究会の講演会でお会いしたのだが、そのときの講演会よりもむしろもっと内容のある話で、参加者一同濃密な時間と内容に感心しきりだった。1時間半ほど話し込み、その後30分ほど施設内を見学した。ここは2017年に前回のエクスカージョンをしているが、そのときにお会いしたお年寄りの方々と再会でき、とくにサダ子さんが元気にしておられるのがうれしかった。

よりあいの森

説明する村瀬孝生さん

お年寄りの方々

サダ子さん

 3月4日は、かつて河合塾で教えていた学生2人が大学卒業になり、就職祝いを兼ねて食事会をした。食事前に聖福寺などに寄ったが、地元九大生だったKさんは、全然この場所を知らず、いい場所を知ったと喜んでいた。まぁ若者はそんなもので、繁華街しか知らない。

聖福寺の前で

塔頭の一つ

 3月8日は、熊本市の慈恵病院を訪問し、取材した。昨年9月にフィレンツェのイノチェンティ博物館に寄ったとき、直観的に慈恵病院を訪ねなくてはと感じた。慈恵病院については、以前から本も読み、知識としては知っていた。機会があれば訪ねたい程度の気持ちで、切実さはなかった。しかし「イノチェンティ」を訪れたときが、まさにその契機となり、ぜひともいかなくてはという思いを生み出した。

 そこで病院とやりとりして、3月8日に訪問した。医療関係者でもなく、福祉行政関係者でもない一介の市民にすぎない私なのに、快く迎え入れてくれ、看護部長、新生児相談室長のほかに、現場の看護師長、助産師さんなど5人が3時間も対応してくれた。すばらしいホスピタリティだった。

慈恵病院マリア館

こうのとりのゆりかご

 主に「こうのとりのゆりかご」(いわゆる赤ちゃんポスト)の取材をした。ここがもともとフランスの「マリアの宣教者フランシスコ修道会」によってハンセン病患者救済のためにつくられ、修道女たちが献身的に病人や貧者、困窮する母子のために活動した場所でもあり、やはり「イノチェンティ」と根底でつながることを確認できたのも大きな成果だった。

 翌日は、熊本の友人であるFさんのやっているカフェを訪ね、午後は市の子ども劇場事務所で、デンマークの教育についての談話会をした。これも盛り上がり、意見や質問があいついで、いい時間になった。

Fさんの自宅カフェ

子ども劇場事務所での談話会

 旅をすると食事をする場所を探すのが小さな苦労だ。私は酒が飲めないので、居酒屋や小料理屋に入り、ちょっと一杯というのができない。外食は基本洋食だから、ネットで洋食屋を探してみる。だいたいフレンチやイタリアのレストランか、チェーンのファミレスしかないことが多い。夜のレストランはディナーメニューで値段も張る上に、一人だけでは敷居が高い。最近はやりのバルなども、酒が飲めないと入りにくい

 熊本市で九州では都会の町だから、それなりに店はあったが、一軒入ると予約で一杯で席がないといわれた。翌日の昼もまた探してみると「ボクシン」という一人でやっている洋食屋があった。若い頃はどこかの店でシェフでもしていたのだろうか。年のいったシェフが一人で切り盛りし、料理も時間がかかった。しかし、出てて来た料理はすばらく、とくにスープが絶品だった。しかもこの味で千円もしない。愛想もとくにない寡黙なシェフだったが、代金を払うときに正直に「とてもおいしかったです」というと、はにかんだ笑顔が少し出ていた。

ボクシン

 他にも漱石の住んだ家をはじめ、いくつかの史跡を見た。天気もよく、充実した二日間だった。

漱石坪井旧居

熊本城

 寺子屋カフェの活動についていえば、定例の活動以外に助成金をいただいている団体に招かれて紹介する場もあり、また不定期にやっている「レアプラッズ」や「カフェKotera」も実施した。2月25日の「家族ダイニング・さんさん」は、例年卒業する学生ボランティアの送別会も行っている。今年はDくん、Kさん、Sさんが該当者で、三人を気持ちよく送り出すことができた。子どもたち、保護者、他の参加者、社会人ボランティアなども暖かい拍手を送っていた。

水巻でのゲスト参加

学生送別会

 若松の岩屋にある精神障碍者のグループホーム「シャローム」でやっている「北欧文化研究会」も毎月1回実施した。1月は「ばい菌論」2月はアイスランド映画「春にして君を想う」の上映会、3月は「アルツハイマー型認知症とよりあいの実践」4月6日は、スウェーデン映画の「歓びを歌にのせて」の上映会をした。この3月の話が「よりあいの森エクスカージョン」の前段となっている。映画はどちらも好評で、とくに「歓びを歌にのせて」は「感動した!」という声が多かった。北欧の映画文化の底力、人間を見る目のたしかさを感じさせてくれるものであるのはたしかだ。

3月の北欧文化研究会

 映画つながりでいえば、3月26日に、映画館で「デューン2」を見た。映画館で見るのは昨年3月以来だ。何せネット配信で映画がたくさん見られる時代だから、どうしても映画館に行く機会が減る。ハリウッド映画はふだん見ることはないが、この「デューン」だけは、若い頃に読んだ古典的SFで、内容のよさもさることながら、とくに砂漠の民への共感と尊敬が、アラブ人の友人をもつ私にもよけいに実感できるから、見ようと思っていた。

 今回の二番目の映画化は売りがCGをフルに使った画面の豪華さしかないので、大画面で見ないといけない。これまでIMAXなど見たこともない私があえてIMAX画面で見たのだ。実際は「こんなものか、たいしたことないな」というのがIMAX自体の感想だ。ただ画面が大きく、大音量なだけだった。

 日頃、パソコンでの映画配信を27インチ画面で目の前で見ているためか、ほぼそれを見ているような感じだった。音はたしかに大きいが、ただうるさいだけだった。パソコンにつけているスピーカーもいいもので、低音用の振動するバス・スピーカーもあるために、私の視聴環境が意外にいいということもわかった。

 映画自体は原作の「デューン」をよく知っていることもあり、映像化の一つとして満足はできた。リンチ版も当時の技術からすれば健闘はしている。俳優や特撮は二つの映画版が金をかけている分優るとしても、内容的には原作に忠実なテレビドラマ版に軍配を上げざるをえない。

 他には、3月6日に福岡市立美術館の「ローマ展」もいってみた。毎日新聞社主催なので、無料の招待券が販売店サービスで入るのだ。ローマのカピトリーノ美術館の作品を展示していた。しかし、重いモニュメント、彫像などは運搬できず、レプリカだった。絵もあまりなくて、やや肩すかしをくらった感じだ。

有名なロムルス像

カラヴァッジォの絵

コンスタンティヌス像の頭部

 ここは昨年9月にローマで、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂の前を通ったとき、その後ろにあるので、行こうかなとも考えたところだ。しかし、その日午前ボルゲーゼ美術館を見たために、午前と午後二回も美術館を見るのは多すぎるかと思い直し、パスしてしまった。実際に展示しているのが一部だけなので、行けばよかったと少し後悔した。

 1,2月は時間があり、またコンサートも比較的多いので、九響の定演などいくつか聴いた。恒例の日フィル九州公演は2月10日の北九州公演に行った。下野さん指揮の幻想がメインで、メリハリがきいてこれはとてもよかった。

日フィル北九州公演

 24日の九響の午後の名曲コンサートは会員ではないが、レスピーギの「ローマの泉」「ローマの松」をやるので、聞き逃せない。ブラスバンドでもやるし、盛り上がる曲だから、人気があり、聴衆も多かった。しかし、ローマに実際に行くとこの曲がよりわかるのだ。フォロ・ロマーノをはじめとして、町中に泉があり、松がある。日本の松と違い、高い木の上の方に横に円盤状に広がる形で葉が出ている。こういう風景を知ると、レスピーギの意図した情景もまた味わい深くなる。ムッソリーニのローマ進軍を知っているとなおさら。

九響のレスピーギ

2階席のバンダ(別楽団)

ボルゲーゼ公園の松(23年9月)

フォロ・ロマーノの泉(19年3月)

トレビの泉(23年9月)

 3月13日の18世紀オーケストラもよかった。ブリュッヘン亡き後指揮者なしでもやっているようだ。古楽の本流のこのオケの響きと、ショパン当時のフォルテピアノをユリアンナ・アヴデーエワが弾くとはぜいたくなコンサートだ。

ユリアンナ・アヴデーエワと18世紀オーケストラ

 古楽器なので前の方の席にして正解だった。近いので響きが小さいと感じることはなかった。フォルテピアノにするとショパンのピアノ協奏曲の真の姿がわかる。今回は1番だったが、2番がたぶんフォルテピアノの音色によく合うのではないかという気がした。

 16日は、九響の定演で小泉和裕さん最後の演奏である。オケの実力が如実に出るシュトラウスの「英雄の生涯」だ。小泉さんは音楽監督を10年務め、今回で最後だ。最後の三年はコロナのために十分な環境で演奏できず、やや尻切れトンボになってしまった感もある。しかし、九響のレベルを秋山時代からグッと高めたのは彼の功績であるし、何よりもマーラーの三つの交響曲を採り上げ、CD化したのは大きな業績だ。著名な指揮者の録音に比べてもひけを取らない。この三つともコンサート会場にいて、感激を共有できたのもいい思い出だ。

 大学院生になって、彼が指揮した「モーツァルトをあなたに」シリーズの一つを福銀ホールで聴いたのが、初めての九響体験だ。これがおそらく83年だから、41年前になる。正直いえば、プロオケなのに大学のオケをちょっとうまくしたレベルで、ホルンなどの管楽器で音が外れるのが目立ち、今ひとつだった。

 時間はだいぶたったが、少しずつ上手くなり、今では気づくようなミスはほとんどない。ドイツの地方都市のオケ、たとえば、ルール地方のエッセン・フィル、ボッフム交響楽団、デュッセルドルフ交響楽団、ヴッパタール交響楽団などと並ぶ音になったと思う。ケルン放送響、NDRエルプ・フィル(北ドイツ放送響)、バイエルン放送響、ドレスデン・シュターツカペレといった一流オケとはまだ距離があるが。

ボッフム交響楽団定演(23年9月)

 九響で一番数多く指揮したのが小泉さんで、その意味ではオケと切っても切れない縁がある。「英雄の生涯」はすばらしい音の始まりで、見事な演奏だった。後半やや前半の緻密さが消え、若干の荒さが出た。これは九響の特長だが、シュトラウスの曲の多くが、前半がすべてというところがあるので、それもあったかもしれない。

 カーテンコールも終わり、楽団員が立ち去るときにもまた小泉さんが出てきたので、帰途についた聴衆も立ち止まり、拍手を送った。意図せぬスタンディング・オベーションになった。カーテンコールはかんたんにすませるタイプの人であったが、何か万感迫るものがあったのかもしれない。小泉さん、ありがとうございました。

小泉さん音楽監督として最後の定演

 この日は楽団員見送りに大山佳織さんが出ていた。今回は小泉さんの最後で九響23年度定演の最後でもあるから、きっと出てくるだろうと思って、赤いバラの花を一本買っておいた。それを渡して、感謝の言葉を述べ、握手をした。大山さんもうれしそうだった。いやほんとにすてきな方で、九響には悪いが今日はこれだけで満足だった。握手をした手はそのあとトイレにいったので、すぐに洗ってしまった。大山さんの大ファンではあるが、握手した手を洗わないほどのキモオタではないということだ。

 

2023年12月31日

天神のクリスマス・マーケット

 例年、秋は仕事に追われる日々だ。ただ4月〜7月と違い、休日などあるから、少し余裕がある。いつもは美術館の特別展に行くが、今年は興味ひかれるものがなかった。クラシックも含めて福岡地区では、コロナ以後、契約関係がうまくいっていないようだ。


 東京では、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウと御三家がそろいぶみしたらしいが、九州では大物は来ていない。せいぜい、10月15日に小倉であったチューリヒ・トーンハレ管弦楽団とパーヴォ・ヤルヴィのコンサートくらいか。


 これに行ってみたが、あまりいいとは思えなかった。チューリヒ・トーンハレは、ジンマンとのCDもたくさんもっており、前回アクロスに来たときもいってみた。そのときは高い技術を知ることができたが、今回は粗いという印象をもった。

ヤルヴィとトーンハレ管弦楽団


 約一ヶ月後の、11月23日に同じ小倉のソレイユホールに、兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)とアクセル・ロッドが来て、同じ「運命」を演奏した。アクセル・ロッドとPACの方が数段出来は上で、これは今年のコンサートで一番いいと思った演奏だった。それ以来、これまでほとんど聴かなかった「運命」をいろんな指揮者、オケで聴いている。ただし、2楽章以降だが。

アクセル・ロッドと兵庫芸術文化センター管弦楽団


 PACはアカデミーオケで、若手の演奏家を育成することが目的だ。逆にいえば、常設オケであっても人件費削減を意図している。期限付き採用だから、演奏家はたいへんだが、その分気が抜けずさぼれないのかもしれない。


 九響も、10月のマーラーの4番11月のポリャンスキーのラフマニノフ、12月のドイツ・レクイエムと充実したプログラムの定演で、会員ゆえ、どれも聴いた。
 この中では、ドイツ・レクイエムが期待外れだった。小泉さんと九響合唱団だからレベルは高い。よくなかったのは、やはりブラームスのせいだろう。合唱をもともと自分の領域とする宇野功芳が、著書の中でブラームスをこきおろしている意味がわかった。ブラームスの他の曲にくらべて、彼の特徴である噛めば噛むほどという深み、滋味がない気がする。

九響のドイツ・レクイエム


 マーラー4番は、キンポー・イシイさんの指揮だった。これがなかなかよく、4番のよさがわかった気がした。PACの「運命」に続く今年のベスト第二位だ。19年にドイツで、ボッフム交響楽団のマーラー4番を聴いたときは、そこまで印象に残っていなかった。このコンサートも録音して、CDにすれば、これまでの2番、3番、8番と並んで名盤として聴けたのにと思う。

九響、キンポーさんとソリスト


 ポリャンスキーはいうまでもなく満足できるコンサートだった。これも同じ二位か。ずっと3年ほど客演して、来年は来ないが、今後も来てほしい人だ。九響には珍しく、ポリャンスキーだからと東京や関西から聴きに来る人もいるようだ。

九響、ポリャンスキー

 秋の行事としては、11月の七五三や紅葉見物がある。孫のことはが三歳で、七五三に行った。写真屋でおめかしして記念写真を撮るのが気に入ったようだ。ディズニーのプリンセスが好きなので、ラプンツェルのドレスを着た写真が一番好きだという。和服も着たが、こちらはそこまで好きではないようだ。

ことは、七五三


 3年前は赤ちゃんで、3歳の今年はもう幼児でいわゆる子どもになった。口も達者で自分をもっている。子どもの成長は早いものだ。あっというまに生意気な思春期が来るだろう。そのときはもう別世界の異邦人になってしまう。

ことはと母の小百合

 紅葉は去年に続いて、妻と長府に行った。11月終わりにいっても毎年青々しているので、今年は12月の初めにした。長府庭園はすでに散っており、功山寺はまだと場所によって差があった。今年の暑さもあって、きれいにそろって紅葉になることがなく、また色づきも今ひとつだ。それは訪れた人々もつぶやいていた。

長府庭園

功山寺に行く途中の紅葉

功山寺

功山寺

覚苑寺

古江小路

 12月2日は、寺子屋カフェ来てくれる学生ボランティアのDくんとYくんと食事会をした。Dくんの教員採用試験合格の祝いも兼ねている。二人とも香椎周辺に住んでいるので、香椎の洋食屋さんでランチを食べた。その前に、香椎宮を案内した。二人は正月にはここに初詣に来るが、香椎宮がどんな神社かはわかっていなかった。
 ここは、仲哀天皇の陵墓になり、妻が勇猛な神功皇后で、夫の仲哀天皇は優しい性格で闘いには向いておらず新羅征伐も消極的で熊襲にも負けた。だから闘いの神ではないが、二人は受験時もここに合格祈願に来た。香椎宮も、筥崎宮と違って闘いや選挙の神様とせず、夫婦円満、縁結びの神としている。仲哀天皇はイケメンで優しい性格で神功皇后との夫婦仲がよかったとされているからである。
 受験時に来たのは効果がなかったのかとがっかりしていたので、カップルと来ると御利益があるよというと、元気を取り直していた。若者なので、武内宿彌の不老水のことは知らなかった。不老水まで行くと、まだ若いのに水を飲みたがった。

香椎宮

DくんとYくん

七五三でのお参り

不老水を飲む二人

 11月から、若松岩屋のシャロームで、北欧文化研究所の集まりが始まった。北欧文化研究所は私が責任者になっている。シャロームは精神障害者のグループホームとして運営されるので、まずは精神障害についての講義やディスカッションで始まった。12月は、精神保健福祉士のNさんが現場の興味深いお話をしてくれた。1月は最近の話をする予定だ。

北欧文化研究所のディスカッション

 前は12月31日には、門司港へ行ってイルミネーションの写真を撮っていた。しかし、最近はイルミネーションが早くからつけられ、年末の風情がなくなったような気がする。だから、特別に撮りにいくこともない。たまたま町に出て帰りが遅くなったときについでに撮る感じだ。コロナが明けて、以前の生活が戻ってきたことはいいが、何か前と違ってしまったところがある。

天神のイルミネーション

天神のイルミネーション

小倉のイルミネーション

 23年は22年とほぼ変わりがない一年だった。河合塾での仕事がなくなったのは大きな変化だったが、代わりに高校講演などがあったので、気分的には似たようなものだった。今年の大きな出来事は4年ぶりにヨーロッパへいったことだ。それについては、また別の機会に書くことにする。

 24年は新しいチャレンジを考えている。そうでもしないと似たような一年になってしまう。どうなるかは、今後の経過次第だ。

 

2023年10月6日

大川内(伊万里市)

 9月1日から23日までは、ドイツのエッセン、そしてイタリア(ローマ、アッシジ、シエナ、フィレンツェ、パドヴァ、ヴェネツィア、ヴィチェンツァ)にいた。19年3月以来だから、3年半ぶりの海外旅行になる。
 この間、新型コロナウィルスに伴う規制で、海外旅行は制約があった。ようやく諸規制が解除されても、航空路線、空港などは以前に戻っておらず、不便も多々あった。
 これについては、日記特別編で報告することにする。

 8月もまた仕事に追われた。小論文の高校講演や看護学校の集中講義などがつまっていた。その合間を縫って、古い友人に会うなど、日頃の不義理をお詫びする行脚も続いた。9月に3週間も日本不在になるから、その分日程がつまるのだ。
 
 8月15日は、東郷さんに会い、久留米市美術館のモリス展をいっしょに見た。本来は、他の友人たちも来るはずだったが、都合で来られなかった。23日には、北九州市立美術館のミッシャ展にも行ったので、アーツ・アンド・クラフト運動からアール・ヌーヴォに至る流れをざっと見たことになる。

久留米市美術館のモリス展

 17日は、7月11日に続いて、伊万里高校での小論文講演があった。7月は高三生で、8月は教員が対象だ。高校は今もコロナ対策でいろいろ規制があるが、微生物学、ウィルス学のデータを使い、それがナンセンスであることを示すと、教員たちが驚いて、表情が変わった。これは楽しい反応だった。

 朝一番の講演ということもあり、前の日に来て宿泊した。時間のゆとりがあるので、前回行けなかった大川内山へ行く。ここは鍋島焼の地で、多くの窯が集まり、陶芸の里として知られる。雰囲気のある町中を歩き、9月に誕生日を迎えるエッセンのジャネットのために古伊万里風のコーヒーカップを購入した。

大川内山(伊万里市)

伊万里焼の展示

伊万里市の街並み

 下旬は中津の看護学校の集中講義で忙しかった。空いている時間に梶原得三郎さんを訪ね、20年ぶりくらいに再会する。

梶原得三郎さん


 梶原さんは今は亡き松下竜一さんの親友であり盟友である。80歳を超えるが、お元気で今も地元の市民運動で活躍している。わざわざ私のために寿司などを購入して、いっしょにお昼ご飯を食べた。2時間ほどいろいろ語りあったが、とても充実して心地のよい時間だった。それはひとえに梶原さんの人柄にある。彼については、松下さんがエッセイにたくさん書いているから、その人柄は私がいうまでもないだろう。

 

2023年8月12日

孫のことはとカノコユリ

 前回の更新から3ヶ月近くたつ。6.7月は仕事に追われ、忙しかった。6月に祝日がないので息がつまるとは最近では世間でも語られるようになった。新聞記事では、政府が祝日を6月に入れられない理由などが出ていた。

 河合塾を定年で辞めたのに、同じくらいかそれ以上に気持ち的に忙しかったのは、高校での小論文講演がいくつもあったためだ。6月から8月2日のあいだに11回あった。近場もあれば遠方もあるということで、遠くは鹿児島の鹿屋まで行った。大学時代以来で、40数年ぶりか。

 鹿屋は7月4〜5日にいった。大隅半島は「陸の孤島」と当時から呼ばれてはいた。鉄道があっても錦江湾を回り、遠回りになるので、時間がかかる。当時から、車で垂水フェリーに乗って行くのが最短だったが、今も同じだった。鉄道も廃線となっていた。

垂水フェリー

 鹿屋高校に講演に向かうとき、早めに着きそうで時間があった。それで途中にあった旧鹿屋駅の駅舎を使った記念館によると係のおじいさんが話しかけてきた。知らない街ではないので、こちらもそれなりに受け答えができる。そのために話が盛り上がり、学校に行く時間が遅れそうになるくらいだった。

 地方都市のつねで鹿屋市も旧市街はさびれていた。代わりに国道沿いのショッピングモールぞいが栄えているそうだ。農業以外はとくに産業がなく、自衛隊基地に頼る町で、今後も衰退が予想される。

鹿屋市のさびれた通り

 帰りに鹿児島大により、昼食はここで食べた。学生会館は今も残り、「ガロア」というカフェもそのままだった。私がいたときにもあった「ガロア定食」を頼む。昔はマトンと野菜を炒めたものだったが、今回はマトンが豚肉になっていた。入手しにくいのか価格が上がったのか、事情は知らない。おばさんに45年前にここで学生だった旨をいう「私が生まれる前ですね」といわれた。

鹿児島大法文学部

学生会館

ガロア定食

 生協の書籍部による。建物は新しくなってはいるが、本の並び、数は当時より劣る。大学の書籍部でしかも文理両方の学部が多くあるのに、専門書が少ない。今の学生が本を読まなくなったことを如実に示していた。

 8月1〜2日は、八女の福島高校へ行った。八女は若い頃、何度か通った。大学院生時代、専門のドイツ哲学以外に、自分で民俗学を学び、その中で柳宗悦や民芸運動もかなり勉強した。九州ではここが民芸の宝庫であり、中心地であるから、訪れたのだ。

 時間がなくて、伝統工芸館を見る程度しかできなかった。それでも八女の伝統工芸の質の高さは一目でわかる。40年くらい前に買った手漉き和紙を本のカバーに使っているが、いまだにすり切れもせず、破れもしない。

八女伝統工芸館

 ホテルまでの帰り道、福島の旧城下町を歩く。もともとは福島城があり、その回りの城下町であったが、江戸時代になると徳川幕府の一国一城令により、領主の田中吉政は柳川を本拠としたので、1621年に廃城となった。しかし、街並みはそのまま残った。久留米などと異なり、交通の要所ではないから、近代化、開発が遅れたことが幸いした。大分の杵築、竹田などに伝統的な街並みが残るのと同じである。

八女福島の街並み

 町屋交流館の前に来ると、すでに5時5分前で、5時に閉まるので終わりだと思い、前を通り過ぎようとすると、戸を開けて男女2人の係員が「まだ入れますよ」という。「いや、5分しかないですよ」というと、「いえいえ、どうぞ」というから、誘われて入る。おそらく夏の暑い日、観光客も少ないので、退屈していたのだろう。

 おばさんは売店担当で、男性は案内役か。年齢は2人とも60代と思われる。「どこから来たか」と聞かれたので「宗像から」と答える。そしたら、おじさんが「私は津屋崎出身ですよ」というので、しばらくその話で盛り上がる。「宗像よりもこちらが風情があっていい町ですね」というと「いやおたくは世界遺産があるでしょう」という。あれは沖ノ島だけで、他はたいしたことないなどと答える。

町屋交流館の隣の木下邸

 5時に閉まるはずが、20分も超えてしまった。2人はまだ名残惜しそうだったが、お礼を述べて立ち去った。なごやかな時間だった。肝心の公開された町屋の建物は見る時間もなかったが。

白壁が続く

福島八幡 毎年9月に灯籠人形が上演される場所

福島灯籠人形

 あまりに暑いのでアイスクリームかかき氷でも食べないともたないなと思い、途中にあった古民家カフェに入った。最初に出迎えたのは、人ではなくネコだった。えっ、ネコカフェ?と思ったが、「ネコカフェではありません」と人の声。メガネをかけた中年女性が出てきた。江崎さんという人で、カフェの名前も「絵咲木」だった。

カフェ「絵咲木」

江崎さんと店の中

 残念ながら、アイスクリームやかき氷はなくアイスコーヒーを頼む。江崎さんは陶芸もやっており、作品が展示されている。
 ここは劇団の事務所にもなっており、コロナ前は2階の座敷で演劇もしていたという。今は、公共の場を借り、上演している。八女福島文平座という。座主は、中村文平さんといい、八女出身で東京で俳優をやっていた。テレビドラマ「相棒」にも脇役で出たそうだ。今は、故郷に帰り、演劇を広めている。

 カフェは劇団の事務所前からやっていたとのことで、劇団が来たので、江崎さんも役者をしている。8月7日に八女で演じる「父と暮らせば」(原作井上ひさし)では、相方を務める。

 話しているとタウン誌の人が入ってきた。それに田中吉政についての連載記事を江崎さんが書いているので、仕上がりをもってきたのだ。一部それもいただく。なかなか多彩な人だ。話題も豊かな人だった。

 暑い午後の散策であったが、福島の白壁の街並み、出会った人たちのよさが暑さの中に涼風を吹かせた気がして、心地よかった。

 翌日の福島高校での講演時には、八女の工芸の価値、街並みのすばらしさを語ったが、みなキョトンとしていた。教員の話では2年時に総合学習で八女の伝統工芸については自分たちでも調べるなりして、勉強はしたらしい。しかし、それがいかにすばらしいかの客観的な価値は、地元民だけによけいに対象化しづらいということだ。

福島高校

 講演が終わると学校のすぐ前にある岩戸山古墳にも寄った。岩戸山歴史文化交流館も比較的新しく、展示されている石人石馬が多大な価値がある。岩戸山古墳も回りを歩くが、木々がこんもりと茂っているので、小山のようにしか見えない。それでもたしかに古墳だ。故郷対馬の高浜の山にある古墳と同じだ。子どもの頃古墳と知らず、ただの山と思って遊んだ。

岩戸山歴史文化交流館

石人石馬の質料感がすばらしい

岩戸山古墳

左が磐井が眠る前方後円墳

後円の部分

 交流館でも戻ってからも、磐井の乱の文献など探すが、新しいものは出ていないようだ。80年代から90年代は、たしか地方創生などの動きもあって、八女の青年会議所などが、磐井は逆賊ではなく、地方を搾取する大和政権に対して、反抗を示して地方の自立を示したという解釈の芝居などをこの岩戸山古墳でやったというニュースを記憶している。交流館にあったビデオ映像はそのつくりだったので、解釈は今も変わっていないのだろう。しかし、その熱気の名残は感じられなかった。

 その後、平成の大合併で、旧八女市に黒木町、立花町、上陽町、矢部村、星野村がつく形になって、今の八女市になった。それぞれ文化も歴史も独自性があるのに、一つになるのは残念だ。筑紫君磐井を輩出した場所なら、政府のいう大合併など拒否するくらいの意気込みが欲しかった。岩戸山の陰で磐井も嘆いているに違いない。

 鹿屋、鹿児島、八女と仕事で地方を旅し、空いた時間で町を歩いて、そこに暮らす人々と話すのは、性に合っている気がする。これだけで生活できるなら、これほど楽しい仕事はないが、人生はそうはうまくはいかない。7月11日には伊万里にも行った。ここは8月17日も行くので、今回は書かない。28日には長崎の大村高校へ行く。その後は、妻とイタリアとドイツを3週間旅をする。しばらくは、こういう生活が楽しめそうだ。

 

2023年5月19日

 5ヶ月半ぶりの日記だ。日々多忙にしているが、とりあえず更新しておく。

 新年度になり、いくつも変化があった。長年、働いていた河合塾が雇い止めになり、大学だけとなった。河合塾は65歳定年はすぎていて、この2年は委託契約だった。抜本的な改革をするということで、旧体制の講師、恒例の講師はみな雇い止めになったというわけだ。まぁ年齢的には潮時ではあった。

 しかし、この業界にいると積極的に動かなくても、何かしらの縁ができる。 辞めたあとに、校内予備校と呼ばれる最近の動きの一つに来てほしいということになり、小論文の授業を高校で行ったりしている。

 大学もコロナ以後オンラインの導入や整理で、いくつかコマがなくなった。ある大学など25年くらい通ったのだが、「来年はありません」の紙切れ一つでおしまいだった。礼儀がなっていない。

 新型コロナウィルスの5類移行で、さすがにオンライン講義だけを続けるわけにはいかないということで、対面授業も再開した。その一つに、筑紫女学園大学があるが、3年ぶりに太宰府に訪れることになった。

 そこで同じく3年(実質4年?)ぶりに、松屋の「維新の庵」に寄り、小倉アイスを食べた。コロナ前は、毎年5月と11月は必ず寄っていた。ここは外の庭がすばらしい。
 緑陰の下で、さわやかな風を感じつつ、アイスクリームを食べる。この店のすばらしさは必ず小さな季節の花を添えているところだ。疲れがたまってくるこの時期、久々のリフレッシュになった。

青葉がここちよい

小倉アイス

 13日には、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のコンサートに行った。ベルリンとウィーンには、それぞれ有名なフィルハーモニー管弦楽団以外にいくつかオーケストラがあり、それぞれコンツェルトハウス管弦楽団の名称のオケもある。ウィーン・コンツェルトハウス管弦楽団のコンサートはウィーンで聞いたことがあるが、そこまでうまいオケではなかった。ベルリンも似たようなものかなと期待せずにいった。

ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

 最初の序曲やヴァイオリン協奏曲は、アンサンブルも音がバラバラでいま一つだった。ヴァイオリン協奏曲は眠気を誘うものだった。大好きなシューマンの作品というのに。「やっぱりね」と思っていたら、メインのブラ1では見違えるような演奏をした。旧東ドイツのベルリン交響楽団が前身だから、うまいのは当然だ。何しろあのザンデルリンクが鍛えたのだから。政治体制はとても賛同できないが、オケに関しては旧東独、旧東欧のオケは西側よりもはるかに上手だった。久々に大満足して帰ったコンサートだった。

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