2004年6月27日

 6月は悲しい知らせの続いた月だった。まず9日に奄美の藤井勇夫さんが亡くなった。藤井さんについては、この日記の2002年9月14日に触れている(このときは本人に確認をとったわけでもないので、イニシャルにしておいた)。

 大学時代に彼の会社に顔を出し、いろいろな活動をともにした。私が鹿児島を離れるとしばらくして彼も会社をたたんで奄美に戻ったこともあり、その後会う機会もなくなったが、それなりに影響を受け、学んだことも多かった。ご冥福を祈るばかりである。

 次には17日に松下竜一さんが亡くなったという知らせを電話で受けた。ずっといっしょに九電株主の会などやってきて、会うことも多く、それが当たり前になっていたので、いなくなった今でもまだ信じられない。

 松下さんは、私が中学生の頃か、テレビドラマになった「豆腐屋の四季」が有名だが、私は3歳年上の兄がこのドラマと原作の本に傾倒していたので、兄から名前をよく聞かされた。松下さんの実弟に満さんがおられ、私と同じ名前なので、兄は自分のことのように感じたのかもしれない。

 私は大学時代に、鹿児島の志布志湾の住民合宿で初めてお会いした。有名な作家ということで気が引けて遠慮したが、きさくにつきあうようになったのは福岡に来た院生時代である。坂本紘二さん(当時九大助手、今は下関市立大教授)につれられて、中津の家にも一泊したこともある。

 松下さんがしゃべらないので会う人は苦痛に感じるというのが定説だった。彼もエッセイの中でよく書いている。しかし、私は一度もそんなに思ったことはない。離島の田舎者の私は松下さんに同じ臭いをかいでいた。つまり、無理矢理にならどんな公的な華やかな場所でも話すことはできるが、本当は、気の知れた身近な者のうちだけで語りたい、それ以外の人、とくに都会のお愛想がものをいうコミュニケーションの中では、身の置き場がなくて黙っていたいという田舎の庶民のメンタリティである。だから私たちの目の前の松下さんはわりとおしゃべりだったし、黙っていたとしてもそれが気になることもなかった。すでにわきあいあい通じていた感情があるからである。

 愛妻家ぶりをエッセイで書き、それが女性ファンの人気を博していた。いつまでも自分だけを想ってほしいというのが多くの女性の願いであるから、それを実行していた松下さんは、不倫や家庭破壊的な恋愛を題材、実生活両方で売りとする流行小説家と違い、中年女性たちに絶大な信頼を得ていた。彼の奥さんの名前が洋子といい、私の妻とまったく同じ名前である。そういう意味でも不思議に縁のあった人である。

 作風は必ずしも私の好むところと一致はしないし、もっとよい作品を書けたはずの人と信ずるが、生き様は密かに一つの範としていたほどだ。上にも書いたように、基本的にシャイな人で、いい意味での田舎の庶民性をもっていながら、同時に社会正義、ヒューマニティにあふれるところが、親近感を感じ、清潔な生き方として尊敬に値するのである。

 この二人の逝去の報を聞き、私にとっても一つの時代が終わったことを痛感する。彼らから学んだことを忘れずに、誠実に生きていきたいと思う

 

2004年5月29日

 しばらく間が空いてしまった。五月は東京と大阪に仕事での出張があり、多忙な月だった。とはいえ昨年よりは楽なスケジュールで、身体の疲労度はだいぶ違う。友人、知人たちにも出会い、その意味ではいい月だったかもしれない。

 7日の日記でも書いたように、東京ではフェルメールの「画家のアトリエ」を見てきた。土曜日の夕方で幸い人が少なく、ゆったりした雰囲気で見ることができた。さすがによかったというしかないが、それ以外の絵はさほどいいものがないような気がした。図録を見比べてみると、2000年の大阪でのフェルメールとフランドル絵画展の方が相当にいい絵が来ていたのだなと改めて実感する。

 映画「真珠の耳飾りの少女」も二度見ることができた。二度目を見ると出来がよく、しみじみとした味わいがあることに気づく。映画の中でも実際の「真珠の耳飾りの少女」の絵が出てくると何ともいえない切なさを感じる。この絵のもつ不思議な魅力の一つなのだろう。私の5月はフェルメールの月だったようだ。

 

2004年5月7日

 最近フェルメール・ブームが再燃しているようだ。今東京にフェルメールの最高傑作とされる「絵画芸術(画家のアトリエ)」が来ている。これは門外不出の作品で過去に確か一度しか出たことはないはずだが、それが日本に来るとは。さっそく行ってみなければならない。

 前回は2000年の5月に大阪で「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」を見に行ったが、すごい混雑で閉口した。ハーグのマウリッツハイス美術館では何度か静かにゆっくり見たもので、最近では2001年の8月に再会を果たした

 ちょうど今イギリス映画「真珠の耳飾りの少女」が上映されている。フェルメールの伝記的な映画で、青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」がモチーフになっているものだ。原作(トレイシー・シャバリエ 白水社刊)も読んだが、女性らしいきめ細やかな感情の推移、愛憎からめてちょっとしたことで変化する心理の描写がすべてとでもいえるような小説だった。

 私くらい年をとれば女性の微妙な心理も理解できるが、若い男性ではあまりわからないだろうと思う。ストレートな愛情表現よりも、ちょっとした指先の動き、視線、声色などで女性は官能や愛情を感じたりするのである。この小説も映画も女性でないとそのよさがわからず満足できないかもしれない。

 新聞での映画評ほど画面が美しいとは思わなかったのは、デルフト、フェルメールの絵の実際を知っているからだろう。映画評では「眼福」とまで形容していたが、実物の絵、デルフトの街を見た方がはるかにその言葉がふさわしい。

 私の好きな街がこうして映画の舞台となる(フェルメールだから当然だが)のは、「ライフ・イズ・ビューティフル」のアレッツォもそうだった。わりと地味な街であるけれど、さすがに映像を仕事とする人は見る眼がある。自分のことのようにうれしい気がする。
 

 

2004年4月24日

 タイドラマ交流プロジェクトで通訳やコーディネイトなどでお世話になった藤井由美さんがさる8日所用で福岡に来た。ちょうど北九州市に来る用があったので、ついでに門司港などを案内して、楽しいひとときを過ごした。

藤井由美さん(小倉城にて)

 その後17日には杷木町の杷木国際子ども芸術フェスティヴァルにいっしょに行き、香港の「ブラック・ボックス」を紹介したり、児童劇団の演目を楽しんだりした。

 由美さんはタイの友人と二人でチェンライ近郊のメポン村で、孤児たちなどをあずかって6人育てている人である(「バーン・サーン・ラック・プロジェクト(愛を編む家プロジェクト)」)。前は大阪で幼稚園教員をしていたそうだ。だから子どもの養育環境や創造的な活動には造詣も深い。彼女にとっても得るところの大きな旅ではなかっただろうか。

 

2004年4月6日

 ようやく最近は春らしい日々が続く。桜も満開だ。家族での花見に行ってきた。4月の終わりか、5月の初めには藤の花見をして、秋の紅葉見物がわが家の恒例行事だ。

 昼間青空の下で飲むビールというのは不思議にうまい。ほとんど酒を飲めない私とはいえ、あたりのさわやかさも手伝って五感で味わっているのだろう。

 桜の花の下で草に寝転がり、iPodでバッハの「バイオリンとオーボエのための協奏曲」のアダージョを聴くと実に心地よい。春ののどかさにぴったりの曲想で、春の物憂さなら「二つのバイオリンのための協奏曲」のラルゴになる。いやはや「天国、天国」というひとときだった。

 

2004年3月28日

 福岡は桜の開花がいちばん早く3月20日だったが、その後の一週間の気温が低かったせいか、まだ満開にならない。27日の土曜日に舞鶴公園に協会会員のTさんと桜を見に行ったが、今ひとつだった。あと4〜5日はかかりそうだ。

 例年家族で見る地元の花見と知り合いといく博多の花見があるが、今年は桜の花にも劣らない容貌をもつTさんといっしょにいってみた。6〜7年ぶりに会ったことになる。元気そうで何よりだった。 

 桜よりも好きな花はたくさんあるけれど、この季節はとても過ごしやすい時期で大好きだ。暑くなく、寒くなく、ひんやりとさわやかで北欧の初夏という感じ。わずかな日数しか心地よい日々がなく、そのあとはすぐにまた暑い季節が来るのが九州だ。つかの間の幸福感を楽しみたい。

舞鶴公園のしだれ桜の前で

 

2004年3月23日

 今年は明けてからわりと旅が多い。1月はタイへ行ってきたし、2月は三重県の愛農学園高校を訪問した。そして3月20-22日には奈良に家族旅行をした。

 子どもが大きくなると部活だのアルバイトなどあってみながそろって休みという時間が少なくなる。去年の夏はそれでどこにも行けなかったが、3月は娘も高校を卒業して暇な時間がいっぱいあるので、この時期に可能になった。行く先は妻がいったことがないのでという理由で、奈良か京都のどちらかになったが、春先は奈良の方が暖かいのでは、ということで奈良にした(それでもけっこう寒くて、22日は氷雨でこごえた)。

 とりあえず有名な世界遺産の寺社をまわった。行きやすい奈良公園の興福寺、東大寺、春日大社と西の京の唐招提寺、薬師寺、そして斑鳩の法隆寺に中宮寺である。

唐招提寺の桜

東大寺南大門の金剛力士像(吽形)

 二十代終わりに興福寺の阿修羅像や仏頭などを見て、天平の彫刻、仏像の写真ではわからない実物のすばらしさに驚き、ようやく和辻哲郎などの『古寺巡礼』などがなぜベストセラーになったのかの意味が理解できたが、今回は法隆寺の百済観音像を初めて拝観できて、なぜこの仏像が近代の知識人を魅了したのかがわかった。

法隆寺

 私としては中宮寺の弥勒菩薩像に心惹かれていたが、もちろんそれはよかったものの、百済観音像の神々しさ、美しさ、精神性にはとうてい及ばない。季節柄鑑真和上像、救世観音像などを拝観できないのは残念であったが、百済観音像を見ることができたのが、今回の旅の一番の収穫だったろう。

 子どもたちにとっては鹿にえさをあげたことが最も印象的なことのようだが、それでも日本の建築の粋ともいえるこうした寺社と最高の仏像を見たことが、なにがしかの記憶となって心のひだによいものを残してくれればと思う。

 

2004年3月13日

 「日記特別編その7」を付け加えた。

 

2004年3月5日

 最近、知人、友人の逝去の知らせばかりを聞く。昨年12月には、大学時代の恩師吉川先生に、川内原発建設反対連絡協議会の副会長をつとめた川添房江さん(と書くと偉そうだが、現地の気骨ある住民の代表で、親しみある田舎のオバさんといった方がいいだろう)、その後、友人のお父さんに、そして予備校の同僚の O さんと続いた。いい加減にしてくれといいたくなるほどだ。年をとればよい知らせよりも訃報の方が増えるのが道理とはいえ、心が重い。ただご冥福を祈るばかりである。

 

2004年2月1日

 1月13日から22日までタイへいってきた。詳細はまた書くが、とにかくこれで今年最初のミッションが一つ終わってほっとしたというのが正直なところだ。そのときの内容はここで見ることができる。
 
 去年の終わり頃から20数年ぶりにクラシックを聴くようになった。それもほとんどバッハだけで、あとはわずかにモンテヴェルディやモーツァルトがあるくらいである。クラシックを聴かないようになった理由は2002年の7月31日の日記に書いてあるが、それがなぜか思い出したように聴き始めた。

 昔よく聴いたカンカータ140番のメロディーが頭をめぐるので、通りすがりのレコード店(今はCD店というべきか)によって、そこにあったアーノンクールの140番と147番が入ったCDを買った。147番の有名なコラール「主よ、人の望みの喜びよ」はなかなかの演奏だったが、140番はどうも昔聴いた曲のイメージに合わない。それであれこれいろいろな演奏者のものを買い始めるうちに、バッハの演奏はこの30年で大きく変化していることを知り、かつてはなかった古楽派のバッハ演奏を聴くようになったのである。

 レオンハルトクイケン兄弟を初めとする古楽派の演奏を聴くと、もはやモダンの演奏には戻れない。またバッハを聴けば、それ以降のロマン派の作曲家の音楽は甘すぎて聴けなくなる。若い頃好きだったモーツァルトですらも、バッハの後に聴くとその清澄さのあまりの違いに聞くに堪えなくなる。クレーメルがバッハとモーツァルトのヴァイオリン協奏曲のCDをそれぞれ出しているが、同じ演奏者でも相当に感じが違い、断然バッハの方がいい。

 古楽派への興味から、彼らの出しているバロック、ルネサンス期の音楽も多少は聴くようになった。ガーディナーの「モンテヴェルディ、聖マリアの夕べの祈り(晩課)」などの傑作に出会えたのもそのおかげである。これなどはその後のモダンの音楽を吹き飛ばすような圧倒的迫力をもっている。

 日頃は音楽を聴かない性分なので、もっていたiPodもスペースががら空き状態だったが、最近はどんどん埋まり、あっという間に半分を超えた。容量がなくなるのも時間の問題だろう。何せ「マタイ受難曲」をレオンハルトとリヒター、それにヘレヴェッヘの三通り入れたりするのだから。

 そういえば、去年の8月はバッハゆかりのエアフルト、ライプツィッヒ、ワイマール、ドレスデンなどを通ったのである。そのときにバッハを聴いていれば、バッハの軌跡を回る楽しみがあったのに、といまさらに悔しがる。

 

2004年1月4日

 2004年も明けた。ついこの前ミレニアムだとみなが騒いでいた気がするが、もう4年目に突入する。その年の1月にこのページをつくったわけだが、これも4年目に入ることになる。時のたつのは早い。 

 年末もあわただしくすぎたが、12月の18日には家族で小倉の洋食屋さん「シェフ」のクリスマス・ディナーを食べにいった。毎週一日ここのランチを食べに行く。シェフはフレンチ出身で、夫婦でやっている小さな店だ。気取りも何もなく、庶民が入れる洋食屋さんである。シェフはいかにも職人気質という雰囲気で腕は確か、味もよい。ここにいくと、漫画「大使閣下の料理人」に出てくる主人公の父親のやっている洋食屋さんをいつも思い出す。
 
 福岡市なら1万円くらいでぼるだろうと思われるメニュー(伊勢エビ料理にフィレステーキなど)も5000円で格安である。ここに限らず小倉には味がよくて安い店が多い。福岡でタウン誌に出るようなレストランは高くてそのくせ味はいまいちというところが多いのだが、その点小倉は田舎の分良心的で、いいものを食べるときは小倉に行くことにしている。
 
 今回は若者向けの味付けにしていたので(カップル客を見込んだか)、私にはやや軽くいつもの深みがなかったが、子どもたちが幸福そうにしていたことが一番よかったことだ。
 
 正月は妻と息子が実家に戻り、アルバイト中の娘と二人で迎えた。去年のように、大晦日はそばをつくり、元旦は雑煮をつくった。そばは今年は対馬に注文したもので、つなぎがほとんどない対州ソバである。雑煮もブリ入りの対馬流。今年は材料をきちんと用意したので、味も格別だった。父母の仏壇にお供えして、娘と食す。大過なくお正月を迎えられたことを心の中で喜び感謝する。


  

 4日には地元の八所宮にお参りに行った。初詣自体は3日に小倉の八坂神社にいったことになるが、日本の神は地元が守護神になるので、ここに行かねば今年が始まらない。穏やかな新年のスタートである。

 

八所宮

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