2000年8月23日

 今年の7月から8月にかけてはかなり忙しかった。

  お盆は郷里の対馬に戻った。父の初盆であり、母の命日が8月17日なので、法事が相次いだのである。おまけに17日にはいとこの葬儀も加わった。島を出た身にはたまに帰る郷里の親戚と会うのが気恥ずかしい。田舎のある種のしがらみだが、もちろんいい面悪い面両方あって、かんたんに捨てるわけにはいかない。

  15日の夜は送り火を焚きに浜へ行く。浄土真宗は簡素ということで精霊船はつくらないが、他宗派は花火と送り火とともにそれを海へ流す。漁船で曳航しながら港の外に出る。精霊船の提灯の灯と漁船からの花火が静かな水面に映えて物悲しさをかもし出していた。

 子どもの頃から知っているわがふるさとの幻想的な光景だ。生のはかなさと美しさをこれに見る。生きることは哀しいことであるけれど、かく美しくもあるのだと。父よ、母よ、どうぞ安らかにと願いながら、浜辺を後にする。

赤い小さな灯が精霊船

2000年8月6日

 昨日は45回目の誕生日だった。すでに今年になって人に年をいうときは45歳といっていたので、とくに感慨はない。50歳まであと5年。この10年の記憶はそれまでの密度の濃さと比べて今一つなので、何か充実したことをしなくてはならないとも思うが、しかし平凡な日常生活を送ること自体も大事なことと思うので、これでいいのかもしれない。

 子どもを連れて近くの海(さつき松原)に行った。ここは3月の日記でも書いたように、九州でも有数のきれいな海辺だ。さすがに日曜日で車を止める場所もないくらい混んでいたが、しかし人の多さはさほどでもない。
  海水浴場を水上バイクでいく若者の非常識には頭に来る。連れの女性かあるいは他の若い女性にアピールしているのだろうか、子どもが泳いでいる側を猛スピードで通り過ぎる。海は道路の車と違い短い距離で曲がったりはできない。手もとが狂って子どもの中に飛び込んだらどうするのかといつも思う。飛ばして過ぎ去るあとには油が浮いている。きれいな海を台なしにしてもいるのだ。

さつき松原

 風があり波は50センチほどあって、さすがに浜辺で水遊び程度はしても泳ぐ人は少ない。私は海の子なので、波がある海で泳ぐのは得意である。波のリズムに身体を合わせればいいだけのことだ。50メートルほど沖まで泳ぐが誰もついてはこれない(というか、こういう波で泳ぐ私がアホなのだが)。波に向かって泳ぐときはコツがいるが、岸に戻るときはそのまま泳いでも大きな波に身体が乗って、波と一体化した感じでとても気持ちがいい。イルカや魚の気分はこんなものなのだろうか。途中までついてきていた若者二人があきれた顔をしていた。

 写真の彼方には鐘崎という福岡一の漁港があるのだが、この浜辺に来ているのはおそらく都会の人なのだろう。プールで泳ぎを習った人はたしかにこんな三角波の海では泳げない。

 今日も夏らしい天気だった。泳いで灼熱の太陽に焼かれる。涼やかな風が心地よい。緑はあざやかに栄えて、夏の雲がまばゆい。空気は澄みきって、暑い中にもそぞろ秋の気配を感じとることができる。私の住む宗像地方は住宅開発が進むのは困りものだが、恵まれた自然を改めてかみしめる。

海からの帰り道の景色

 

2000年7月29日

 今年は猛暑らしく、エアコンが飛ぶように売れているそうだ。たしかに今日は台風のせいか、フェーン現象とかで異常に暑い。湿気が来るとやはり暑いのは堪える。昨日までのようなからりとした暑さならいいのだが。

 奄美で楽しかったことの一つに児童劇団の方々とお話したことがあげられる。翌日の講演原稿を準備しているときに、押しかけてきたのだ。だいたいは役者というよりも代表格のお偉方だが、児童劇団は新劇や前衛劇と違って、自分たちが芸術家であるという気取りはない。私はもう少しそうした態度があるだろうと思っていたが、予想に反していた。

 では、教育的なことを意識しているのかといえば、劇の中にはそういうもの、とくに反戦や差別をテーマにしたものに限っていえば啓蒙意識の勝ったものはあるようだが、劇団自身にはあまりそういう意識もないといっていた。もちろん遊びの楽しい空間を失った現代の子どもたちに舞台芸術を通じて遊びの空間の楽しさをわかちあいたいという意識はあるようだが。総じて児童演劇というジャンルがまだ新しくアイデンティティーとなるようなものはまだ模索中といった方がいいかもしれない。

 私は彼らの話を聞いているうちに、これは期せずして、芸術の基本的な概念、つまり「楽しい経験」、そういう場をつくることに児童劇団は向かっているような気がした。こむずかしい演劇理論、演出理論、身体論などはあまり考えず、子どもたちといわばお祭りの空間を創ることを第一義としているのだ。

 わかっている人はちゃんとわかっているのだなと嬉しい気持ちがした。彼らと組んで一つ何かプロジェクトを企画してみても面白いかもしれないと思うのだった。

 

2000年7月25日

 暑い日が続くが、積乱雲の彼方に秋空のようなすじ雲が爽快さを感じさせる。何かヨーロッパの夏を思い出させるような空だ。

 18日と19日には清和村(熊本県)にまた会議ででかけた。今度は役場ではなく、緑川地区の清流館という宿泊施設である。ここで去年デンマーク人たちのためのセミナーを開き、今年も実施する。

 ここは目の前に奇岩がそそり立ち、建物の横は熊本の名川、緑川の水源にあたる渓流が流れている。

緑川地区の奇岩

 もとは100年以上の伝統を誇る小学校であったが、廃校になり、その後は地区振興会による宿泊施設として改築された。きれいなお風呂にゆったりした部屋で、朝渓流のせせらぎの音で目覚めるというのは最高だった。私は騒音に弱いのだが、さすがに自然のせせらぎの音は大きくても不快さを感じさせず、安らかに眠ることができる。

 会議を終えて、去年の慰労会をしていないということで、昨年かかわった地元の人たちと小さな宴会をした。私のようなよそ者でも暖かく歓迎してくれて、実に心地よい会合だった。昨年のセミナーの実施以来、とてもよい信頼関係ができており、もともとが純朴で心暖かい人たちであるので、昔懐かしい人に会っているような気持ちがした。

みなで楽しく歓談

 宴は夜遅くまで続き、途中参加の若者や日系アメリカ人も来て、しみじみとしたのどかな談笑となる。地元民の館長の奈須さんの人柄のよさのにじみ出る芸も出て、ふるさとを本当に愛している人なんだなと心動かされる。派手ではないけれど、旅で疲れた心を癒してくれるようなこの場こそは、東京から鹿児島、奄美、そして清和村と長く続いた旅の最後を飾るにふさわしいものといえた。

 

2000年7月19日

 この間忙しく更新ができなかった。仕事で忙しかったというのもあるが、東京、鹿児島、奄美、清和村(熊本)への旅にでかけていたということもある。書きたいことはたくさんあるが、一番楽しかった奄美のことをまず書くことにしよう。

 6月の日記にも書いたように、鹿児島の子ども劇場の協議会の依頼で、奄美大島の笠利町で講演をした。講演自体はいまひとつだったが、この企画、参加者に奄美の自然と文化を楽しんでもらおうという工夫がしてあり、リゾートホテルみたいな宿舎、目の前のきれいな海、おいしい島の料理(シマヌジュリ)、そして島唄に八月踊りと至れり尽くせりの内容だった。

宿泊所(ばしゃ山村)の前の海

 八月踊りは奄美の盆踊りで古代の歌垣を残すといわれるくらい民俗学的に価値あるものだが、大学時代からこれに参加してみたいなと思っていたところ、夜の宴会兼島唄コンサートで地元の人たちがこれをしてくれたので、いっしょに踊ることができたのである。室内なので本物とは違うが、踊りは同じだ。地元の人の動作を見ながら必死でまねをしてついていく。
  最初はゆっくりで、途中から太鼓が早くなり、情熱的に踊る。その響きは何か原始的な、太古の無意識の底を深くゆすぶるような趣きで、身体が熱くなる感じがした。これが八月踊りの真髄だ。

八月踊り

 島唄を歌ってくれた地元の方々もすばらしく古老の唄も渋かったが、特筆すべきはうら若き女性が美声とすばらしいバチさばきを見せてくれたことである。NHKの民謡大賞をとり、プロとしてCDも出しているという20代そこそこの娘さんは今風のみかけとはうらはらに島唄特有の肝の据わった声を出す。鳥肌が立つほどの迫力だ。南国美人とはこの人かと思うほどの麗しさで、西郷隆盛の愛加那もたぶんこんな感じの情熱的な麗人だったに違いないと思えた。いや、洋の東西を問わず、女性は南国に限りますな〜(笑)。

島唄歌手
(この写真は写りがいまいち。本物はもっときれいです)

 島の料理も豪勢で、カンパチの刺身、伊勢エビの刺身のサラダ仕立て、伊勢エビのムニエルその他もろもろの島の料理(シマヌジュリ)で、また八月踊りのときに出す伝統的なちょっとしたおつまみ、お菓子の類もあって、大満足だった。しかし、食に対してあまり執着のない私は、ホテルの人の料理の説明をまじめに聞き、説明そっちのけで料理に群がるオバサマたちに遅れをとってしまった。私がテーブルの皿の前に立ったときは無残にもサラダだけを残し、伊勢エビの刺身は跡形もなく散っていた(トホホ)。

八月踊りのときに食べる菓子

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