2000年11月23日

 19-20日に熊本の清和村に行き、今年のセミナーの反省会をしてきた。その帰り、20日に熊本市で素敵なご婦人Fさんと会い、紅葉見物をかねて金峰山の中腹にある茶屋で昼食を食べた。Fさんは子どもの教育・表現環境にかかわる市民団体の役員をしており、たいへん魅力的な方で私も陰ながらファンの一人である。

茶屋の前の楓の木

 この金峰山へ登る道はかの漱石も散歩道として歩いたそうだ。例の「草枕」の冒頭の有名な文章にある「山道を登りながら考えた〜」という箇所はここの道だったのだろうか。

 茶屋自体はできたのは新しいそうだが、古い民家を移築して建てられており、雰囲気は当時を忍ばせるに充分だった。熊本の農村部の名物、ダゴ汁とタケノコご飯を食べたが、ダゴ汁は一般にあるのと違って、団子ではなくうどんみたいな麺状で、とても食べやすくおいしかった。

 今年は暖かいせいかまだ時期が若干早かったが、茶屋の前の楓はすっかり紅葉していた。けぶる雨のために鮮やかさには欠けたが、秋の時雨の紅葉という趣でそれなりに味わい深いものだった。

 

2000年11月9日

 10月は知っている人の逝去があいついだ月だった。8日にわが国でも有名な反原発の市民の科学者高木仁三郎さんが亡くなり、11日は敦賀原発で労働被曝をした岩佐嘉寿幸さん、そして31日にはうちの協会の会員でフリースペースを主宰していた佐田正信さん、と続いた。

 高木さんとはお互い顔見知りだった。昔カノコユリを買ってもらったり、河合塾に講演に来てもらったりといろいろお世話になった。どの新聞も書いているように、市民の側に立った本物の良心的な科学者だったと思う。

 大学紛争当時の「自己否定」を誠実に受け止め大学を辞し、原子力資料情報室を開いた。反原発の住民団体にとっては唯一の科学的に信頼できる市民の側の情報を流す団体として信頼は厚かったが、当時の一般社会は評価しなかった。ジャーナリズムが評価したのはチェルノブイリ以降の食物への放射線被曝からである。高木さんの本領はプルトニウム政策の根本的批判にある。マスメディアはそちらをあまり取り上ることはせず、原発事故の際のコメンテーターとして使うのが関の山だった。

 それでもこうした過程で、事故の際にすぐに質問でき、的確なコメントを与えてくれる資料情報室の評価は確立され、高木さんの令名も高まった。しかし、どんなに有名になっても高木さんご本人の人柄は相変わらず謙虚なままで、そういうところが多くの人に好かれたところだ。生き方として多くの示唆を与えてくれた人だった。

 岩佐さんは日本最初の原発被曝訴訟を起こした人として有名だが、大学生の頃鹿児島川内に岩佐さんをお呼びして講演会を開いたことがある。水俣から車で川内へ移動するときにいろいろお話したことが記憶に残っている。ごく普通の市井の労働者であられた人が、訴訟や各地の反原発住民と交流していくなかでご自分の使命感を自覚し、人格者となったという印象を受けた。一度しかお会いしていないが、惜しい方を亡くしたと思う。

 佐田さんは直方在住なので見舞いにも通夜にも行った。個人的にとくに親しくしていたというほどではないが、協会の活動や各種フリースクール関係の会合で親交があり、日ごろの精力的な活動ぶりにはいつも感心していた。

 福岡フリースクール研究会の通信に載せた私へのインタヴューが最初の出会いだ。そのときの私の話したことが彼に影響を与えたと後に本人から聞いて、彼のような素晴らしい人物に私のような人間の言葉が役立つとは本末転倒もいいところで、うかつなことはいえないな〜と冷汗をかいたものだ。

 まだ40歳という早すぎる死ではあったが、40年間疾走してきた人生だったように思われる。その意味では鮮烈で生き様が凝縮されている気もして、いい人生ではないのかとも思う。

 父母を亡くし、その後も身内の死が続く。死を看とる経験を重ねると逆に淡々とした境地にもなり、かつてのような激しい悲しさや重さはない。死は悲しいことだが必ずしも悪いものではない。彼らの思い出は消えないし、今も私の傍らにあり、道行きをともにしている。

 

2000年10月26日

 秋が来たせいなのかは知らないが、この時期の思い出、それもずいぶん古いものを「日記特別篇その2」として書いてみた。臭くて笑えます。でもホントの話だ。

 

2000年10月23日

 この数日多忙だった。今日は久々の休みで少しホッとしている。

 すでに昔の話だが、8月の終わりに門司港へ家族で行った。一年ぶりになるか。今では「門司港レトロ」という名称で観光地になったが、その昔にはあまり知られていない隠れた名所だった。

 大学生の時、九州住民闘争合宿運動の主催の「反労災・反公害住民合宿」で行ったのが最初だ。工業の街北九州ということで、きっと汚れた海、工場、煙突のオンパレードだろうと思い込んでいたら、予想に反してきれいな海にまず驚いた。関門海峡は潮の流れが速く、淀みがたまらない。汚い海というのは洞海湾のイメージが強すぎたのだ。少し歩くと明治の洋館風の建物があり、向こう側には下関が見え、渡し舟で海峡を渡るのも風情があった。これは素敵だと穴場を発見した喜びみたいなものを感じた。

 工業が衰退し、港への船の出入りも少なくなって一時期さびれ始めたが、ハードよりもソフトの時代を迎え、レトロ地区として売り出すことで逆に街を活性化できた。今ではアーケードの繁華街よりもこちらの方が客が多い。

門司港駅
終着駅でヨーロッパの駅と同じ構造。
レールが行き止まりで引き込むように
なっている。

 ここでのお気に入りは、ヴァイツェン・ビールのあることだ。観光開発で地ビール工房なるものが出来て、そこでいくつか地ビールを製造しており、その中の一つにこれがある。

 ヴァイツェン・ビアはドイツのバイエルン地方で好まれる甘くて飲みやすいビールで、醸造ビールの上澄みを濾過したものだという。ドイツ留学時代にこの味を知った。お酒に強くない私にもピッタリで、つきあいで仲間と飲むときにはいつもこれを頼んだものだ。アルコール度数が低く、香りがとてもよい。甘酸っぱいその味は女性向きで、ヴァイツェン・ビアのあるところではよく女性に勧めるが、みなさんたいてい気に入ってくれる。

門司港ホテル

 考えてみると福岡の港町や築港、箱崎港それに門司港といい私は海や港の隠れたいい場所を探し当てるのが昔から得意だったようだ。この年になって育ちの影響をまざまざと知る思いがする。宗像に来たのもさつき松原や鐘崎、神湊が近かったからだ。またどこかへ引っ越すことがあれば、おそらく港や海に近い場所になるに違いない。

 

2000年10月10日

 丸々一月ぶりの更新だ。この間デンマーク人の清和村でのスタディツアーのお世話で忙しかったからだ。これについては詳しくは「日本グルントヴィ協会」のページで見ていただければ詳細はわかるが、忙しい中でも楽しいひとときでもあり、充実はしていた。いまどきはその反動で少し空疎というか、何か物足りない気分になるときもある。

 それでも数日前は、仕事の合間に目の前にある小倉城公園へ市販のおいしい弁当(ホカ弁やコンビニ弁当とは違ってはるかに手をかけているもの。小倉玉屋地下で売っている)をもって行き、緑陰で昼寝をした。わずかなことだが、すごく満足。春以来だが、またこれができるいい季節になったのだ。そう、いつのまにか周りはすでに秋のただ中。

小倉城

 秋のせいかは知らないが、最近スキャナの性能のいいものを安くで買ったので、秋の景色が映った昔のネガやポジフィルムをスキャンしてみた。じたらくな私ではフィルムが劣化してしまうので、劣化しないデジタルの画像データベースをつくろうかと思って試みたのだが、高解像度ではさすがに時間がかかりすぎて、少ししかできなかった。業務でこういうことを毎日やる人が「少しでもハイエンドのマシンを」と求めるのもわかる気がする。

 それでもスキャンしたものをフォトアルバムとしてアップロードしたので、お暇な人は見ていただきたい。留学時代やその後友人を訪れたときになど撮ったものである。秋らしい風景が多いので、季節感を味わえると思う。エッセイにある「木洩れ日のひかりは川に降りそそぐ」はこれらの写真を見ながら読むといっそうよくわかるに違いない。

http://members.tripod.com/~mann_usa/

 

2000年9月10日

 最近ダイエーの調子がいい。熱心なプロ野球ファンではないが、地域や九州への愛着から地元球団を応援してしまうのだ。

  ダイエー自体はもともと神戸だし、営業上の理由でフランチャイズを博多にしているだけなのでさほど関心もないが、フランチャイズにしている場所の土地柄のせいか、ホークスも結局九州の人間が好むようなチームカラーになってしまった。やぼったいが豪快で野武士的、勝つときはこれでもかと派手に打ちまくるが、負けるときは淡泊であっさり、さほど強くもないチームにころりとヒネられるという具合だ。そう、昔の西鉄ライオンズのイメージなのだ。今年は逆転勝ちが多いというのもよく似てきている。

  人情よりも利益を優先するフロントの失態のひどさはいまさらいうまでもなく、支持するファンもいないが、コーチや幹部にかつてのライオンズ系列とホークス系列をうまく混ぜて、選手も含めて九州らしさをだそうとしているので、西鉄ライオンズOBを初めとして昔の人間も今はホークスを応援する。西武がライオンズから九州らしさを嫌ってなくしたことへの反発もある。

  地元の人間なら、7回裏の応援歌にある「玄界灘の潮風に〜鍛えし翼たくま〜しく〜♪」という出だしを聞いて胸を熱くしない者は少ないだろう。「玄界灘」という言葉はこちらの人間にとって荒く豪快な九州人のイメージを喚起する。気象学的にいってもこの海域は世界有数の波の荒いところと聞く。年間360日のうちのほとんどに波浪注意報か警報が出ているのだ。余談だが、私の父はこうした海で50年以上働いた。

 今、西武球場で首位攻防戦を行っているが、去年の8月の終わりに生まれて初めて西武球場で同じ首位争いを見たことを思い出す。試合よりも関東のホークスファンの応援を見ているほうが面白かった。芝生席の一番上で若い夫婦と小さな一人娘が、奥さんの手づくりと思われる衣装や花をもって自分たちの振り付けで応援していた。その姿はほほ笑ましく幸福感一杯で、見ているこちらも楽しい気分になったものだ。  

 福岡ドームも数えるほどしか行ったことはないが、球場に関していえば西武球場の方が、濃い緑に包まれてフェンスも高くない分いい雰囲気であったように思う。福岡ドームは立派ではあるけれど、あまりに人工的すぎるのだ。西武球場も今はドームがかけられてあの雰囲気を失っているかとは思うが、野球場はやはり天然芝で子ども連れの家族が安心して見られるようなものがいい。アメリカでいう「ボールパーク」である。そういう意味では神戸グリーンスタジアムが最高の球場だとどこかで読んだ記憶がある。

 首位決戦で熱く燃えている西武球場。またあの家族が芝生席で精一杯楽しみながら応援しているに違いない。あのかわいい娘さんはかけがえのない子ども時代の思い出をいまつくっているのだろう。

 

2000年9月4日

 すでに古い話になるが、7月5日に「プレイスクール」なるところにいってみた。福岡市に一つあったのだ。これは財団法人プレイスクール協会の施設で、子どもがのびのび遊べる環境をつくり開放している団体である。1976年に始まり、この福岡のプレイスクールの他に京都の田辺に「雑創の森プレイスクール」を運営している。詳しくはプレイスクールのWebを見ていただければわかるが、その活動に共感するところがあり、訪ねてみた。

 福岡のチーフ・プレイワーカーの山本直幸さんにお話を伺った。名前からすると子どもに遊びを教えそうな印象を与えるが、ここはそういうことはせず、ただ子ども自身が創造的に遊ぶように手助けするだけだそうだ。もちろんスタッフは遊びについてのプロだし、いろいろなことができるが、決して教え込もうとはせず、大人がリードしようとはしない。あくまでも子ども自発的な遊びの環境をつくり、適宜アドバイスをして、彼らのもつ創造性を促進するという態度である。これは私の経験的な考えと符合した。

 少しだけ幼児グループの活動を見学した。子どもたちのすることを見つめるのはいつも楽しく心和む。瞳の大きな女の子が私に関心をもって一所懸命に話しかける。

お話を聞く子どもたち

 私の息子も家では明るく笑ったりはしゃいだりしている。特に恵まれているわけではないが、夕暮れどきなどこの明るい笑い声が家族の幸福なのだと改めて感じたりする。
  そういうときいつも思うのは、人は子ども時代にすでに一生分の屈託のない笑顔をしているのではないかということだ。だからその後の人生であまり笑うこともなく、あるいは愛想笑いつくり笑顔をし、顔で笑って心で泣いてというように、本心から笑うことがなくても、子ども時代の発散で耐えていけるようになっているのではなかろうか。ということは子ども時代に心から屈託なく笑うことの出来ない環境に子どもがいることは不幸なことだ。日本でも世界でもそのような子どもたちがいることを思えば、何とかしてあげなくてはという気持ちになる。

 本来なら行政がすべきことを民間でやるために、このプレイスクールでも運営費に当たる授業料をとらざるをえないが、そのことの是非は抜きにしても、これだけのことをやりきっていることは大いに評価されてしかるべきだろう。子どもたちの笑い声が一杯に響く空間を大都市の真ん中で何とか確保しているのだから。

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