2001年10月24日

 例年10月は仕事などに追われる時期であまり他のことをする余裕はないのだが、9日には「アニヤ・ライト・コンサート〜いのちと森のつながりなおし」にいってきた。

舞台で歌うアンニャ

 下にも書いた友人のウィンドファームの中村さんたちが主催する大きな企画「フィエスタ・エクアドル」の一環であり、うちの協会も協力団体として名前を挙げているのでいかねばならない。全部に出たいのだが、この時期は休みがあまり取れないので、何とかやりくりしてこの日のコンサートに参加した。コンサートが主だが、エクアドルから来ているゲストたちの挨拶もある(詳しくはウィンドファームのWebページを見てほしい)。

 アンニャのことは中村さんからよく聞いていたが、エクアドルで住民とともに森を守るために警察にも抵抗したという武勇伝をもつことなどから、かなりディープなエコロジストというイメージをもっていた。怖そうな人と勝手に思いこんでいたら、予想に反して私と気が合いそうなタイプの白人女性だった。

 ドイツに暮らし、その後デンマークなどといろいろ交流があるせいで、すでに欧米人女性でどんなタイプが合うか合わないかは、なぜかわかるようになっている。アンニャの雰囲気や顔立ちはグドルンに少し似ていたから、文句なしに相性はいいだろう(笑)。詳しく話す暇はなかったけれど、実際、誰もが好感をもつような人柄だった。

 歌も私の好きなジュディ・コリンズに似た感じで、暖かくそれでいて心に訴えるものだ。彼女の場合はあくまでもエコロジストとしての実践家が主であり、歌は付随的なものにすぎないようだが、充分聴かせてくれる内容だった。

 コンサートということで花束を用意していったのは私一人だけ(みんな気が利かないな〜)。照れくさいのでスタッフの若い女性に渡してもらうようにしたのだが、終わりのとき、こんなことなら私が自分で壇上に行き手渡すんだったとちと後悔した。彼女の雰囲気のよさももちろんあるが、そうして感激と感謝を示したくなるようなコンサートだったからだ。

終了後のスタッフとゲストの記念撮影

 終わってスタッフとゲストたちと食事に行き、心地よいひとときを過ごすことができた。準備を中心的に担ったウィンドファームのOさんなどは若干疲れ気味だったが、よい内容でその労苦は充分に報われたと思う。

 味気ない仕事の日々の中、こういう人たちと会い、談笑するのは砂漠の中でオアシスに出会ったようなものだ。帰りの電車の中で心地よい気分を反芻し、活力をもらった気がした。

 

2001年10月16日

 お気に入りの品物シリーズ第二弾(第一弾はここ)。

 若い頃はあまり水を飲まなかったが、医者が水分をたくさんとるようにというので、中年になったこともあるし、意識して水やお茶を飲むように心がけている。これまではお古のペットボトルに麦茶を入れていたが、少し前から市販の水筒を使っている。近くの大型安売り店で980円で売っていたものだ。

 ウィンドファームの中村隆市さんによると、彼が世話人をつとめる「ナマケモノ倶楽部」の関西のメンバーたちは「ズーニー運動」なるものを進めているそうだ。ペットボトルではなくて水筒などの「使い捨てズーニ」すむようなものを使うという趣旨だ。おしゃれな水筒を見つけると首から提げて「かっこいいだろう」と見せ合うのだそうである。ネーミングが面白いとマスコミの注目もひいているということだ。

 私もかつてフランス製の登山用水筒を使ったことがあるが、大げさすぎて今ひとつなじまなかった。その後は市販のペットボトルを買ったら、しばらくそれを使い続けるというスタイルをとったけれど、ラベルなどがいかにも趣旨にそぐわない。それで安くていいものはないかと探していたら上のものを見つけたのである。安物でとくに品質がいいわけでもないが、使っているとなぜか愛着がわいてくるものだった。

 ちゃんとステンレスの魔法瓶になっていて、飲み口がそのまま飲めるようになっている。何かに似ているなと思ったら、ほ乳瓶の乳首なのだった。もちろん硬くて丸くはないのだが、吸い口を加えごくごく飲む仕草は赤ちゃんがほ乳瓶を飲む感じである。45〜6年ぶりにあのノスタルジーにひたるわけだ(笑)。だからすぐにお気に入りに品物になったのか?(^^;)ともあれ、ペットボトルを使わずにすむのが一番ありがたい。

 

2001年10月7日

 この一週間体調がすぐれなかった。めまいがして立ちくらみがする。メニエル病かと思い耳鼻科に行くと疲れや季節の変わり目による自律神経の変調ではないかという。たいしたことがなくてよかったのだが、頭が重く鈍痛が続き、何をしようにも手がつかない。

  13日には私が非常勤で行く西日本工業大学の社会人講座で「分散化の技術」という講演をすることになっている。デンマークの風車をはじめとした適正技術の話をするのだが、この間の不調で全然準備もできていないし、頭が重いといつもはわき出るアイディアや発想がまるで出てこないのだ。

 やっと今日になって鈍痛も去り、何とか頭が働くようになったが、さて間に合うだろうか?

 

2001年9月19日

 下に書いた旅の一部を「Mannの旅の想い出ネーデルランド篇」としてフォトアルバムにした。

 今回はデルフトに宿を取り、デルフトとハーグと観光した。といってもハーグはマウリッツハイス美術館に行っただけであるが。

 デルフトは昔ドイツ留学時代ゼミ旅行で通り過ぎた街だった。雰囲気がよかったので、また来てみたいと思っていたところだ。ハールレム(Haarlem)と並んでオランダの古い街のよさがある街だと思う。大都会は歩くだけでなぜか疲れるので、小さな街に宿をとり、その近辺を気が向いたら歩いて雰囲気を楽しむようにしている。

 ドイツ留学時代はオランダに来るとドイツよりももっと進んだ商業主義や環境の悪化(アムステルダムなどの大都市)にやや心痛む面もあったけれど、人当たりのよさ、親切さ、サービスのよさにほっとすることが多かった。いわば味気ないドイツ滞在の中ではオアシスのような役割を果たしていたが、デンマークを訪ねたあとに行くと、デンマークの方がもっと心落ち着くことにいまさらのように気づく。

 今回は意図せずしてフェルメールの事跡を辿った旅になった。彼が生まれ暮らしそして死んだデルフトの街。旧教会の彼の墓標の前に立つと何ともいえない感慨がわいてきたのだった。

 

2001年9月9日

 8月22日から9月5日までデンマーク、ドイツ、オランダを廻ってきた。最初の一週間はグルントヴィ協会のスタディツアーである。29日からは個人的な旅となり、ドイツの留学時代の友人たちを訪ね、そしてオランダのデルフトを観光してきた。いろいろなことがあったが、それはまた特別編にして報告することにして、今日は一つのことだけ書くことにしよう。  

 今回のツアーでうれしかったことの一つは旧友フランクと会えたことである。彼は当時音楽セラピー専攻の学生で同じ寮に住み、私をいろいろ助けてくれた。行った早々に私は扁桃腺を腫らして寝込み、知己も出来ないうちに病になり、どうすればいいのかと不安にとらわれていた。一人で部屋にいるのが怖くなり、談話室に行くと彼がいて、見も知らぬ私を気にかけて励ましてくれたことは忘れられない(これについてはエッセイ「木漏れ日の〜」に触れている)。

 発音の悪い彼のドイツ語は聞き取りにくくて半分もわからなかったが、気が合ったのかその後もいっしょにいろいろ動くことが多く、ドイツでの私の親友の一人となった。文学や芸術でいろいろ話しあい、そして彼の奏でるクラシックギターをときどき聴く日々がそこにあった。

 その彼が交通事故に遭い、身体がほとんど不随になったということを聞いたのは94年頃だったかと思う。周りから聞く彼の話はとても痛ましく、その後エッセンにいったときに彼が学生寮Brueggeにいることは聞いたが、実際時間がないこともあってそのときは会わなかった。また彼自身私に会うことを望むかどうかも定かではなかったからだ。

 今回ドイツ滞在最後の夜にアミンに電話してもらい彼が会いたいかどうかを聞いた。「ほんと?それはすごい!」といってとてもよろこんでいたと聞き、急いで彼の住む寮に向かった。

 みなの話から聞くよりもフランクははるかに生き生きしていた。24時間の介護を受け、自分では日常生活のささいなこともできない状態であるが、幸いパソコンをリモコンで操作できるようにし、小説や評論を書くことができる。前からそうした創作活動をしていたフランクからすれば、少々不自由になったところで執筆活動ができれば彼の魂が死ぬことはない。かつてクラシックギターで美しいメロディーを奏でていた指は動かず、聴く者を癒すあの演奏をもう二度と耳にすることはかなわないが、彼のもう半分の素質はまだ生きていた。

左からアミン、フランクそして私

 その特色を生かすために音楽セラピーからドイツ文学に専攻を換えたそうだが、ホフマンスタールなどの評論を私に見せてくれた。これらはPDF文書にした電子出版にしている。

 再会を心から喜びあい、再び別れを告げてアミンの車に乗り込んだとき、アミンは「そうだ。ミツルのいうように彼は書くことができるから障害者になっても希望を失うことはないんだ」としみじみつぶやいた。精神に何か支えをもつ者は何かしらの障害があったとしても失うものは少ないことを感じ、遠く離れていても信頼に足る友情というものを改めて確認しながら深夜帰途についた。

2001年8月12日

 8日に杷木町へ行って来た。これは九州子ども芸術文化協会の柳田さんたちが杷木町で「子ども未来館」を運営しており、彼らの紹介で町長と会うことになったのである。

 林町長はたいへんきさくで権威主義のところがない人で、また私ごときの話をまじめに聞く姿勢をもった方だった。これまで自治体の首長という人には何人か会ったことがあるが、みな肩書きや権威、スーツにネクタイが必要な人ばかりで、会うたびに不快になったものだが、今回は談話がとても楽しく、意気投合するところも多かった。

 宮城県、高知県、長野県や千葉県と市民に開かれた県知事が誕生して空気も変わったということであるが、目立たないとはいえ、福岡県にもこういう首長が誕生していた。彼から聞くのは古くさい官僚主義の壁で、身内と闘っているのは上の知事たちやあるいは小泉首相とまったく同じ構図である。

 今回は初顔合わせということだったが、プロジェクト案もということで、子どもや青年の街角倶楽部、生活体験学校、自然エネルギー研究所、アグリカルチュア・スクールなどいくつか面白そうなものを考えてもっていった。この中のどれか一つでも実現できれば面白そうだ。ボブ・ディランではないが「時代は変わる」。地味ながらそうした胎動を感じた一日だった。

 

2001年8月3日

 しばらく仕事が続いた。やっと1日から休みである。そこで気分転換に映画を見た。「センターステージ」というもの。中味はバレエ学校に入った若者たちがそれぞれ苦労や喜びをわかちあいながら巣立っていくという話で青春ものに属する。単館上映であまり話題にもなっていないが、なかなか面白いものだった。

 この映画を見た理由は二つあって、一つは舞踊がテーマになっていることがある。評論家三浦雅士がバレエに凝り『ダンス・マガジン』まで出しているのは有名な話だが、私も別の系統からダンスや舞踊に関心があるからだ。それは拙著『共感する心、表現する身体』(新評論)を読んだ人にはすぐわかるだろう。
 
 映画はさすがにバレエの躍動するシーンが多く、とくに後半の学生たちの卒業公演の場面はカメラの視線が客席からになっているので、実際に公演を見ているような臨場感を出している。一本で映画とバレエ公演の二つを楽しめるお得な映画というわけだ。
 
 役者たちも実際のバレリーナ、バレリーノなので技術はたしかである。とくにバレエ団のスターであるクーパー・ニールセン役をしているイーサン・スティーフェルは実生活も役柄そのままらしく、アメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル・ダンサー で圧倒的な人気を誇るのだそうだ。イリア・クリックという長野五輪の男子フィギア金メダリストまで登場している豪華さだ。ハンサムでダンスのうまい男性が多く出るので、若い女性にはよだれがでてくるような映画かもしれない。
 
 もう一つの理由は監督がロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの監督経験者というのがある。演出家としては最高峰の名誉に属するこの劇場で監督したのであれば、必ず見せ場があるはずだと思ったのである。
 
 期待に違わず劇中劇の設定となり、しかも現代バレエの公演がこの映画そのもののミニチュアとなって、テンポも快調で飽きが来ない。アカデミー賞映画「恋に落ちたシェイクスピア」を彷彿とさせる上手な演出だった。
 
 最後の現代バレエの公演は圧巻だ。ちと甘い話になってはいるものの、現代バレエのもつ表現力のおもしろさをよくあらわしていると思う。ブロードウェー・ミュージカルに匹敵する楽しさだが、バレエがうまい分だけミュージカルよりもはるかに上だろう。
 
 現代バレエは88年にエッセンで、エッセン芸術大学の舞踊学科学生の卒業公演を見たのが初めてだが、その前衛性、表現力に衝撃を受けたものだ。人間の身体で言葉なしに実に多様な表現ができる。いかにもバレエ特有の動きではなく、歩く、横たわる、立つ、座るといった日常的な動作でそれを可能にしていたのだ。いわば抽象画のもつ多義性と身体運動のもつ原初性を見事に調和させていた。
 
 今回の映画はそこまでの抽象性、思想性はないとはいえ、舞台装置、背景の写真(絵)などには現代バレエのよさが充分にあらわされている。
 
 それにしてもこの映画があまり評判にならなかったのは不思議である。「A.I.」などよりもはるかによくできているのにである。プロモーション費用が少なかったのであろうか。東京での上映では口コミが広がって最終上映の日には立ち見が出たとかいうことらしいが、博多では5〜6人というさみしいものだった。

 

2001年7月24日

 21日から23日は私の主宰するグルントヴィ協会の夏のセミナー「ホイスコーレ清和」にいってきた。熊本県清和村の緑川地区に泊まり、あちこちを見てきたのだが、梅雨も明けて本格的な夏が到来したこの時期、暑さを忘れるにはちょうどいい場所だった。

 緑川の渓流のせせらぎが心地よく、朝夕はとても涼しい。矢部町の五郎ヶ滝に代表されるように水の豊かな山村なので、見ているだけで気分は涼しくなってくる。濃い夏の緑も炎暑の光をさえぎって、素敵な緑陰となってくれた。

五郎ヶ滝、流量の多いたいへん見事な滝だ。

参加者たちと吊り橋で

 翌24日はちょうど仕事もなく、息子を連れて近くのさつき松原に泳ぎにいった。九州でも指折りの透明な海。しかも博多、北九州からいちばん遠いせいか海水浴客も平日はきわめて少ない。どこまでも続く砂浜で、沖には筑前大島と地島が絶景をかたちづくる。リゾート場所としても一級だろう。この海があるから宗像に住んでいるようなものだ。

さつき松原(右は地島)

 この日は空も澄み切って、天はスカイブルー、地もコバルトブルーにおおわれた。子どもと悠々と泳ぎ、仰向けになって空や丘の緑を見ていると絶景を独り占めしているような気分になる。周りには誰もいないのだ。遠くに海水浴客が少数浜辺にいるだけ。

 お金持ちが大金を払っていくようなリゾート地域あるいは都会の人が車や電車で何時間もかけて苦労してやってくる場所、それと同じ環境を車で15分程度走ってただで楽しめる。人が少ない分より優雅かもしれない。

 帰ってシャワーを浴び、スイカを食べて昼寝をするのが恒例だが、こんなぜいたくな日々をもてるのが夏の醍醐味だ。清和でのセミナーと併せて、夏が始まったばかりというのに、私のバケーションはすでにして満喫状態である。

 

2001年7月14日

 栗山次郎さん(九州工業大学教授)から近著の訳書『証言第三帝国のユダヤ人迫害』(ゲルハルト・シェーンベルナー著、栗山次郎他訳、柏書房)をいただいた。この手のものは重いので敬遠していたが、ちょうど非常勤で講義をもつ大学で映画「コルチャック先生」と「ライフ・イズ・ビューティフル」を学生に見せたこともあり、共感をもって読むことができた。

 歴史修正主義の動きは80年代にドイツであったが、それが90年代に入り、日本でも自由主義史観の名で登場している。この本はドイツの暗部をえぐるものであるが、日本においてもわがこととして読む必要があるだろう。ぜひ、多くの人に勧めたい本だ。

 映画「コルチャック先生」と「ライフ・イズ・ビューティフル」はもう何度も見たものだが、いくら見ても飽きない。とくに前者はそうだ。令名高くいわば聖者として歴史にその名を残すコルチャックであるが、映画の中では尊厳は失わないものの、ときおり人間的に苦悩する等身大の姿も印象深く描かれる。

  婚約したカップルのスタッフの女性の方がゲシュタポにつれていかれ、路上で飢えた子どもたちにパンを与えていたユダヤ人車掌が目の前で銃殺されるのを見る。以前はそういうときに激しくドイツ兵に怒っていたコルチャックであるが、くい止められない悲劇にどうしようもない無力感に襲われ、哀れな老人らしいおろおろとした態度をとるのだ。アンジェイ・ワイダの描き方は実にリアルで容赦なく、しかし崇高である。

 年齢を重ねるとともに、人はきわめて危うい綱渡りのロープの上で生きていることを知る。そして不幸は容赦なくやってきて、絶望のどん底に突き落とすことも知るようになる。「前向きに生きろ」とか「希望を失わず」という台詞はまだ人生を知らない若い人向きの言葉で、まずはとにかく苦悩を軽減するよう人は努力をするのだ。

 コルチャックが置かれた絶望や苦悩、無力に打ちひしがれる思いは想像はできる。以前はきりりと閉じていた口が痴呆老人のように力なく開かれ、声にもならぬ声が聞こえるのもわかる気がする。それは神の子を自称したイエスが「わが神よ、なぜ私を見捨てたもうたのか」と哀れにも泣き言をいうのにも似て情けない限りであるが、それゆえにこそ崇高なのだ。

 「ライフ・イズ・ビューティフル」はそれに比べるとエンターテインメントの要素が入っているが、それでも素直に感動を誘う名作である。例えば、主人公のユダヤ人グイドが収容所に入っても監視のすきをついて、女性の棟にいる妻に構内放送でメッセージを送る。ドイツ士官たちのパーティのウェイター役をさせられたときに、すきを見て二人で聞いた想い出のオペラのアリアを蓄音機で夜霧を越えて妻のいる棟に流す。極限状況の中で「僕はまだ生きていて、君のことを想っているよ」というメッセージを伝えるのだ。いわゆるラブ・ロマンス映画ではないのだけれども、その種のどんな映画でもかなわない場面だと思う。

 主たるテーマにもなっている父のわが子への愛情であるが、見るたびに自分はどうなのか、わが子をそこまで思い接しているのかと反省させられる。親がわが身を振り返るには実にいい映画ではないだろうか。見所はこれだけにつきるものではなく多々あるのだが、それはまたいつか触れることもあるだろう。

 

2001年7月3日

6月の雨

 6月は楽しくないことが多かった。といっても別にたいしたことはなく、ささいな不快事が続いたというだけだ。ほんとは大過ないことを運命か神に感謝しなければならないくらいだ。

 しかし例年6月は季節のせいかあまりいいことがない。去年は若干例外的に心を癒してくれるような出会いがあったけれど、それも5月が悪かったからそう思えただけのことだろう。

 ところが7月になると強い日差しが出てくるためか、気分が晴れ晴れしてくるのが毎年の恒例だ。実際この数日夏を思わせる天気が続き、また外に出ることが多かった。

 たとえば北九州市立美術館のデトロイト美術館展を見にいった。ゴッホやセザンヌなど印象派の有名画家の小品を多く集めたものだったが、コレクション自体が有名な(高い)画家の絵をただ集めたという感じなので、展示自体にテーマや流れがない。有名画家の絵を見るという満足感が目的の人はいいが、私みたいに展示自体の妙を楽しむ人間にはあまりおもしろみはなかった。美術館の学芸員もこれでは工夫のしようもないだろう。

 それでも絵を見てゆったりした後、丘の上にある美術館から広々とした梅雨の晴れ間に広がる視界を楽しむと気持ちが明るくなってくる。7月には何かいいことがあるのではという気にもなってきた。

 

2001年6月18日

 4月の11日に足を捻挫した。バスから降りようとしたときに後ろから急いでいた女性に軽く押され、勢いでタラップを降りるとアスファルトの地面が平らでなく、斜めになっていたので、そこで足をこねたのである。

 かなり痛く、翌日に病院に行くと剥離骨折気味だといわれた。骨折の疑いがあるところを押さえてもひどい痛みはないので、ギプスはせずにテーピングのみにとどめた。痛みがあったのは反対側の靱帯をひどく痛めた方である。

 全治三週間ということだったが、三週間を過ぎても痛みがひかず、歩くのが辛かった。足を踏み出すときしむように痛む。力も入らない。健康な方の左足に負担がかかり、そちらも変に痛めてしまう。

 5月の20日を過ぎるとようやく痛みが消えかけて、現在は違和感は残るもののかつてのような痛みはない。

 ところでバスを降りたというか落ちたときに後ろで押した形になった若い女性は、顔をゆがめてうずくまる私を横目に「私のせいじゃないわよ」とでもいうかようにちらりと見て、そのまま足早に去っていった。バスは駅前で止まり電車の時間があるからだが、それにしても薄情なことよと思わずにはおれなかった。電車の時間を犠牲にしても「大丈夫ですか?」と駆け寄るドラマみたいなことは現実にはもうないのだろうか(笑)。

 足が痛む間は、日頃は利用しないエレベーターやエスカレーターのたぐいを使った。福岡市営地下鉄は公営だけに障害者用のエレベーターを完備している。JRはエスカレーターはあるものの、未整備の駅も多くまだまだという感じだ。行政の補助により、スロープやリフトをつける運びになっているとのことだが、小さな駅につくのはまだ先だろうし、博多駅でもリフトが一つあるだけだ。

 エレベーターにせよどこも一つしかないので、場所によってはかなり遠く、そこまで歩くのに骨が折れる。行き届いた配慮というにはまだまだという感じ。捻挫程度だが障害者の気持ちがほんの少し実感できたのはよいことだ。

 しかしこのようなハードだけで対応しても、せいぜい公共的な施設に設備がつくだけで、本当の意味でバリアフリーにはならないと思う。民家も含めてすべての施設に高価なこういう設備をつけることは現実的に無理だからだ。もう少し知恵を絞る必要がある。

 たとえばタクシーチケットを一定額障害者に配布するとか、昨今あちこちで登場してきた福祉タクシーの委託契約あるいは行政が福祉カーというものを走らせて障害者から利用依頼があればそこに向かうとかいうものだ。高価なハードへの投資分があれば、充分成立するような制度ではないかと思うのだが、現実にはどうなのだろう?

 

2001年5月7日

 最近は電子メールの普及などで手紙というものも少なくなってきたが、それでもダイレクトメールとミニコミは相変わらず送られてくる。ダイレクトメールは捨てればいいが、ミニコミは処分に困るものの最たるものだ。見ずに捨てるのもつくっている人のことを考えると悪い気がするし、かといって残しておくと収拾がつかなくなってしまう。

 考えてみればこのミニコミというのははなはだ迷惑なものだ。私のところにくるほとんどは私が申し込んだから届くものではない。何かの折りに住所を得たり、あるいは会合で直接会って渡した名刺の住所を使って勝手に送ってくる。会合や団体の名簿を横流しにしてそれで送りつけてくるものも多い。

 勝手に送付を始めておきながら会費・購読費を払ってほしいとか、ひどいのに至っては「あなたは〜から購読費を払っていません」とか書いてくるものもある。私もかなりの数のミニコミに購読費を払っているが、とてもではないけれど全部にはつきあえない。払っているものだって購読の意志をこちらが示したのは皆無で、その内容に意義を感じて少しでも支援できればということで始めたにすぎない。

 環境を大事にと訴えるグループも多いのだが、多くの紙の無駄遣いをしているのはあなたではないのかなと思えるような場合もある。

 そもそもミニコミの情報程度では、ある問題をカバーするには不足である。趣味でやっているインターネットのホームページのデータが信憑性に乏しいとはよくいわれることだが、ミニコミの情報もそれに近いものがある。何かの反対運動であれば自分たちの一方的解釈だけの情報を流すことが多く、又聞き、孫引きなので間違いも多いのだ。だから本当に相手と交渉したりするときには、それなりの信頼できる浩瀚な書物に直接あたってデータを調べる必要が出てくる。せめて新書なみの量があればある程度信頼できる情報を流せるが、ミニコミの分量ではそれはむずかしい。

 基本的にミニコミは会員、関心ある者同士のコミュニケーションを活発にするという意図が基本で、これ自体は評価すべきことであるが、その分使える情報を与えるというのは二の次になる。

 私自身ミニコミをグルントヴィ協会の会報として発行しているので人のことはあまり批判できないが、ミニコミ被害に困っている人間として、送付の意志を自分から表明していない人には送らない、あるいは購読費を払っていない人には送らない、という原則を貫いてはいる。会合でたまたま出会った人に送りつけて会員になってくれという宣伝もしてはいない。また購読の意志がないと判断できた人にはすぐに送付を止めている。もちろん名簿の流用もしない。

 何よりも紙の無駄遣い、そもそも発行する価値があるのかという恥じらいの意識を忘れず、要求がない限りはできるだけささやかな規模にとどめるという原則を守っている。ただし記事はなるべく自己満足的なものは避けて、資料としても活用できるような長さにするために、一部当たりの分量は多いのだが。

 ミニコミ発行者としてははなはだ消極的だが、作家の松下竜一さんも同じような方針で有名なミニコミ「草の根通信」を刊行しているので、その分意を強くしている。彼は宣伝のために送ることはせず、送付希望があってもハガキで再度その意志の確認まで行う。市民運動の盛り上がりで一過性のブームとして購読者が増えても、そういうブームに乗る人はすぐに購読をないがしろにすることを経験として知っているからだ。もちろん私も同様の経験をもっている。

 こういう乙女のごとく控えめな方針で困るのは、押しが強くないためになかなか出ないということだ。「出してすみません」みたいな気持ちがあるとどうしても発行が滞る。やっぱり世の中どんな世界でも押しが強くないとやっていけないのかもしれない。あ、何だかなかなか出ないことへのいいわけになってしまったかな(^^;)。

 

2001年5月3日

 この連休は天候に恵まれない。ために家族で新緑を楽しもうにも外出する気がしない。それでも毎年の恒例になっている八所宮の藤棚を見に行ったが、今年はすでに盛りをすぎていて今ひとつだった。

 昨年は5月14日が一番の見ごろだったというのに、今年は4月終わりがそのときだったらしい。桜よりも藤の花見を楽しみにしていたのにこれは残念。曇り空では美しさも映えず、来年を待つより仕方がない。今年は桜の花見がよかったのでその分相殺されたか。

 一部はまだ花が残り、例年の雰囲気をとどめていた。その下にたたずみ、かけがえのない一瞬を楽しみ惜しんだ。これからは湿気の多い季節がやってくる。

八所宮の藤棚

2001年4月30日

 「Mannの旅の思い出イタリア篇」をつくってみた。95年にデンマークの会議の後、その会議に出ていたベネツィア大学の建築学教授ジョヴァンニ・アブラミに誘われて彼の住むパドヴァと職場のヴェネツィアに寄ったときの旅だ。

 そのときについでにフィレンツェとアレッツォに寄り、名画の数々を見てきたが、99年にあの名画「ライフ・イズ・ビューティフル」を見たとき、アレッツォが舞台になっているのを見てたいへん懐かしく、映画がより親密に感じた。

 アレッツォはフィレンツェがあまりに人が多くて疲れたので、ここに逃げ出して宿をとり、しばらく滞在して静かなこの地方都市を楽しんだ場所だ。宝石市が有名らしいが、ピエロ・デラ・フランチェスカの最高傑作のフレスコ画もあり、見るところは充分にあった。このフレスコ画は痛みがひどくて当時の色彩のあざやかさは失せていたが、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のジョットーの有名なフレスコ画と並んで印象に残ったものだ。

 ローマやフィレンツェなどの混雑はこりごりだが、ヴェネツィアはどんなに人が多くても街が均等に人を迷路のような道路に押し出して、雑然とした雰囲気を感じさせず、疲れさせないのには驚いた。あの街は生き物のようにそれ自体生きている不思議な街だ。運河は街の血管になっている。

 ヨーロッパはどこでも大都市よりも田舎がいい。アレッツォで味わったように、またイタリアの田舎でのんびりくつろぎたいものだ。

 

2001年4月22日

 4月の14日に高崎に行った話は下に書いたが、翌日の15日は東京の上野に帰り道寄ってみた。ここの美術館でルネサンス展があっていて、イタリアで見た名画のいくつかが来ていたからだ。フィレンツェやベネツィアで見たフィリッポ・リッピ、ティツアーノやティントレットの絵があった。

 メインはラファエロの「ベールを被った女」であるが、これはフィレンツェのパラティーノ美術館で見たものだ。ラファエロの肖像画でも代表的なものの一つであり、謎が多いので伝記などではいろいろな憶測が取りざたされている。

「ベールを被った女」

 絵を見た後は天気がよいので公園の新緑を楽しみ、あたりを散策してみた。日曜日の東京なので人出は確かに多いが、季節の美しさがそれらの混雑をかなり緩和する役割を果たしていた。木々の間から洩れる光の中では人混みも何かしら風情があるように見える。

 不忍池周辺を歩くと野外コンサート場があって、そこで「フォーク・ジャングル」なるコンサートが開かれていた。4人の歌い手が出たらしいが私の聞いたのは最後の人だけだった。

「フォーク・ジャングル」なるコンサート

 歌は反戦歌で昔風のフォークの雰囲気をもったものだった。ふと新宿の反戦フォークを思い出したが、しかしあの圧倒的な熱気と支持はなく、淡々と歌うその姿に時代を見る思いがした。歌い手は30代前半とおぼしき人であるので、多分あの時代の反戦フォークを何かしらのメディアで知り、それを再び体現しようとしているのだろう。

 プロもストリートミュージシャンも含めて甘い恋愛の言葉の反乱する今の日本の若者の歌の中で、こういう硬派の歌が一部で歌われているのはいいじゃないかと帰りしなにカンパを千円払った。受付の若者はきっと反応があったとうれしかったに違いない。

 大学生の頃、東京に来たなと実感できるものの一つがガード下のいろいろな党派や市民運動団体の集会のポスターやステッカーの多さだった。インディーズのバンドのコンサートあるいは前衛演劇の公演ポスターもあった。今はそれらはほとんど見あたらず、代わりにあるのは示談屋や電話債券の買い取りなどの広告だ。

 ベルリンやミュンヘンには同じようなポスター、ステッカーの羅列があり、大都市の文化、カウンターカルチュアーの現れと思うのだが、東京からはそれが消えて久しい。ということは、私にとって、ああ、東京に来たなというある種の高揚感も消えてしまったということだ。だから最近来ることが多くなっても、別に何の感慨もなくただ大きな都市に来たというだけにしか感じられなくなっていたのだろう。

 

2001年4月17日

 14日に群馬県の高崎市に講演に行った。3月11日には愛知県の安城市でやはり同様に話をしてきた。どちらも女性が主宰するグループでの会合である。有名人でもない私なので聴衆はごくわずかの小さな規模の集まりだが、それでも安城では議員や青年会議所役員あるいは大学の先生などもいて地元の名士にあたる方々を前にしてこちらが恐縮する気分もないではなかった。こんなつまらない野郎の話を聞かせるのは申し訳ない。

 

安城市デンパークにて記念撮影

 高崎では会合の後、主催者の高石さん宅にて懇親会の続きをした。そこで参加者のご夫婦が二人で自作のフォークソングのコンサートを行った。普段は農業をされているそうであるが、ときどき詩を作りギターを手にとって歌にする。日頃農業をしながら見た田園の光景や自然の風景などを歌うということだった。

デュエットで歌う夫婦(高崎市にて)

 仲むつまじい二人を見るのもほほえましかったが、歌の方もそれなりに凝っていて聴き応えがあった。

 何度も書いたことだが、あちこちいくとこうした楽しく心暖かい人々の活動に触れる。そのたびに感心し、世の中捨てたものではないなという気持ちを新たにする。日本社会も何のかんのいわれながらも成熟しつつあるなと思う。

 政治や経済ばかりが中心になることなく、日々のこうした表現や共感の営みが着実に浸透しつつあることがもう少し知られるようになれば、ひどい世の中だと嘆く声も少なくなるだろう。世知辛い世の中で一服の清涼剤となっているのはメディアの流す商業スポーツだけではなく、むしろ大きな役割を果たしているのはこうした小さな営みであり、そこでの交歓なのだ。

 

2001年4月6日

 桜も満開だ。例年平和台の壕と福岡城趾の桜を見ることにしているが、仕事で行く予備校の北九州校前も小倉城なので、そこの桜も見てきた。以下にそのフォトアルバムをつくった。

 http://homepage.mac.com/youcos/PhotoAlbum.html

 ケヤキの新緑も美しい。ドイツで見た4月の白樺の新緑を思い出させる。これからしばらくはいろいろな花が楽しめる季節を迎えた。新学期で忙しくなるときだが、なるべく時間を作って年に一度の季節の恵みを楽しむことにしよう。

 

2001年3月31日

 私の使用しているパソコンはMacintoshだが、最近Mac界ではOSがMac OS Xに変わるという話題でかまびすしい。私もPreview 版のときから手に入れたが、残念ながら旧PCI Macでは動かないので、試すことさえできなかった。

 3月下旬にそれが 発売され、手元にも割引価格(Preview 版のクーポンとアカデミック価格で14,000円が5000円程度になったので)でやってきた。今はまだソフトは充実していないが、今後は順次こちらに移行するのだなと思うと、そろそろこのOS が動く機種を入手する時期かと考えて、思い切って新機種(Power Mac G4)を購入した。トホホ、これでまた生活が苦しくなる(;;)。

モニタとキーボードとスピーカー
本体は机の下にある。

 前の機種は丸4年間使用した。パソコン界では4年もたつと性能がすごく落ちるが、これは CPUやグラフィックカードあるいはハードディスクなど中味をつねに新しいものにとっかえひっかえしてきたので、そのときの最新機種と遜色ない早さで動いてきた。だから4年たって最新のものに換えてもその早さに驚くということはない。

 新しい型になると古い機種のレガシーポートが使えないのが痛い。内部にカードを増設したり、モデムをとってかわりにシリアルポートをつけたりと手間と出費もかさむ。半分はばらしたり組み立てたりの楽しみもあるとはいえ、これまで使ってきた周辺機器が使えなくなるのは残念だ。

 拡張性が高い機種なので、これも中味をいろいろ換えていけばまた4年くらいはもつだろう。でもその年までパソコンを扱っているのも何だかな〜という気がしないでもない。毎日の仕事で使うわけではないのでしょせん遊びにすぎない。50歳を超えればもっと別 の有意義なことに時間を費やした方がいいような気がする(とすると世間の中高年パソコン教室の驚異的な人気ぶりは何なのだろう?)。

 

2001年3月22日

 3月17日から19日まで郷里の対馬に戻っていた。昨年10月に父の一周忌も終わり、故郷での法事はこれで最後として、あとは父も母もいなくなった家を片づけることだけが残っていたからだ。兄弟が集まり、家具や衣類、食器などを処分するが、漁師だったのでふつうの民家にはないような漁具や機械の片づけが一苦労だった。

 なにしろ100キロはあると思われる古いモーターを運ぶのからしてたいへんである。はえなわなどは本来は産業廃棄物になるのかもしれないが、町のゴミ処理場は一般ゴミとして引き取ってくれた。

 古いアルバム、子どもの頃の成績表や賞状などもこういうときに出てくるしろものの定番だ。その中に私の高校のときに使っていたノートがあった。まだ一部しか書いておらず白紙の部分がたくさんある。それをもったいないと思ってか父が何か書いていた。

 見てみると「日本国憲法」である。前文から最後まですべての条項を書き写していた。いつ頃書いたのかはわからないが、字から察するにかなり年取ってからのことだろう。

 写経をする人は珍しくはないと思うが、さほど神仏に熱心でなかった父はかわりに憲法を書き写していた。どんな思いでこれを書いていったのだろう。彼なりにこの憲法の理念を反芻していたのだろうか。

 日本の片隅の離島で、尋常小学校しか出ていない貧しい漁師が人知れず書き写していた日本国憲法。憲法改正を声高に叫ぶ中央の為政者たちは当然ながらこの事実を知るよしもない(私も今の憲法がすべていいとは思ってはいないが)。ビルマ(ミャンマー)で従軍し、捕虜となって戦後を迎えた私の父には、この憲法が制定されたときの理念や熱気が記憶に残っていたのかもしれない。

 田舎を歩いたり、滞在したりすると、無名の人々の残した理想や叡智、すぐれた事跡に思わぬ感動をすることがあるが、まさかわが父の残したものにそれに似た気持ちを感ずるとは思わなかった。片づけながら心はいつしか頭を垂れていた。

 

2001年3月10日

 誰にでもお気に入りのものがあると思うが、私の大のお気に入りは何と赤ちゃん用の爪切りばさみである。別にこれで赤ちゃんの爪を切るのが三度の飯よりも大好きというわけではない。そんなヤツがいるとしたらちょっとおかしい。


 ではこれで何をするのか?鼻毛を切るのである(何?もっと変?)。
 
 田舎の空気のきれいなところで育ったせいか、都会に出てきてから鼻毛の伸びること甚だしい。油断すればあっというまに伸びて、鼻の穴から出てしまい、若者から中年オヤジ扱いをされる(っていわれなくても中年オヤジだが)。
 
 今の若者のように眉毛の手入れをする気はないが、鼻毛の手入れをしないとカミさんを含めまわりの女性からいろいろといわれる。それでひげそりのときなど、鼻毛が目立てばこのハサミで切るようにしているのだ。
 
 道具箱にあったので最初は何気なく使っていた。使っているうちにこれほど鼻毛を切るにぴったりのハサミはないと確信するようになった。小さくて軽く、さほど鋭利ではなく、刃先がそり曲がって、しかも先端が丸くなっているのが、最高に安全で便利なのだ。
 
 もともとは赤ちゃんを傷つけないための安全策である。それが同時に赤ちゃんの柔らかい皮膚と同じくらいデリケートな鼻の中の皮膚を傷つけないようになっている。発明大賞でも与えたいくらいよくできているのだ。
 
 その証拠に、これが見あたらないとき、ほかのハサミで代用するのだが、大きくて扱い回しが難しく、刃先が鋭利で下手すると少し当たって傷つけかねないこともあった。そり曲がっていないので、奥まで踏み込めない。結局先の方をちょろっと切っておしまいとするしかない。ところがこれだと思い切って奥まで踏み込める。これは快感だ(^^)。
 
 赤ちゃんを傷つけないようにできているものは大人にも優しい。ユニバーサルデザインとはこのことか!と思うくらいだ。
 
 これを使い出すともうほかのハサミには戻れない。小さいので、ときどき道具箱のどこかに紛れ込むことがあるが、そのときの寂しさったらない。最愛の恋人にしばらく会えなくなったような気持ちだ。でもいつの間にか道具箱に戻り、「お〜ここにいたのか〜!寂しかったよ〜」とほおずりならぬ、鼻毛きりをルンルン気分でする。
 
 私の子どもが赤ちゃんの頃大いに役立ち、今は私の鼻毛切りに奉仕する。すでにして15年ほど使われ続けている。値段は数百円もしない程度だろう。これほどの逸品はほかにないのではあるまいか。私の最愛の道具はこれに決まりである。

 

2001年3月3日

 2月は何かと忙しかった。例年こんなに気ぜわしくはないと思うが、今年はあっという間に過ぎ去ってしまった。なぜだろう。


 仕事や活動などの会議がたくさんあったということもあるし、あちこち移動したということもあるかもしれない。山口に二度、広島に二度、大阪、東京とよそへ出ることが多かった。


 東京は例によってMacWorldに行った。今年はうちの協会の会員といっしょだった。4月にコペンハーゲンであるAWE(Association for World Education ユネスコ認可で国連の会議に出席権をもつ教育NGO。本部デンマーク。私も名ばかりの理事をしている)の会議とセミナーに、私の代わりにH子さんが出る。彼女とその会議の打ち合わせをしたので、そのついでだった。

MacWorldにてH子さんと


 今年は賛否両論の花柄iMacが発表された。写真で見るとたしかにいまいちで子どもっぽいが、実物はたんなるプリントではなくて淡い不思議な色使いに水中花のように立体的に見えるプラスチック加工。上品な趣味を感じさせてそれほど悪くはない。


 若いH子さんは日ごろはDOS/V機のWindowsを使っているが、あまりのかわいさにすっかりMacのファンになっていた。アメリカで単身高校、大学を過ごし、そこいらの日本の若者の及びもつかないくらい自立してしっかりした彼女であるが、さすがに若い女性だけあっていろいろな型を見るたびに「きゃーこれかわいい」とか「わーすご〜い」を連発する。そのほほ笑ましい姿を見て苦笑いする私はまるで娘と来た初老の父のような感覚だったかもしれない。


 このころは天気もよく春のような暖かさ。翌日はやはり会員のJ子さんと新宿御苑を散歩してみた。東京で緑の多いところにいくのは限られている。梅の花を見たかったので湯島天神へ行こうかとも思ったが、とりあえず梅を見る近場で手ごろな場所としてここがあった。


 首都圏の古い公園らしくヨーロッパ調のつくりで、九州にあるような行政がつくった造園業者まかせの移植したちゃちな木々とは全然違う立派な古木が多かった。まだ灰色、茶色で緑は芽吹いてはいないので、色彩としてはものたりなかったけれど、新宿の無機質な高層ビル群の灰色と呼応して、大都会の荒涼とした美しさを醸し出していた。たしかに自然が少ないので暖かみはないけれど、コンクリートや鉄骨に覆われた大都会のもつ非情なまでのよさである。

新宿御苑


 それでも歩くと満開の寒桜に出会えて、そこだけ春の日差しで荒涼たる風景の中にほんのりとにじみ出た人間味という印象で、すぼめていた肩をほっとゆるめ、緊張がほぐれていくのだった。春だ。

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