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2013年12月31日

 

川内原発前の寄田浜

 いよいよ2013年も今日で最後である。いつものように師走があっというまにすぎた。しかし、今年の12月は例年よりいろいろあって、その分楽しかった気がする。

 予備校のレギュラーの仕事が一段落したので、15日には鹿児島の川内での、川内原発再稼働阻止大集会に行った。福岡の九電前テント村の出したバスに乗ってである。テント村の青柳さんに前からバスでも出していかないかと誘っていたので、その効果があったのかもしれない。

川内原発再稼働阻止集会

デモの様子

 昔は鹿児島は気軽に行けたが、新幹線になり運賃が二倍近くに上がった。しかもローカル線は第三セクターに払い下げられ、経営に苦労している。便利さの代償に失ったものが大きい。

 川内は、大学時代に原発反対闘争を現地の住民たちと行った私の原点ともいえる場所である。現地の中心メンバーだった「川内原発反対現地青年部」のみんなと再会できたのが一番うれしいことだった。かつての青年部も今ではすっかり壮年部である。東郷さんとNさんとはその後もわりとよく会っているが、その他のメンバーとはなかなか出会う機会がない。今回はKさんと三十数年ぶりにお会いし、再会を喜んだ。

元川内原発反対現地青年部の仲間たち

 帰りは時間が遅くなるのを覚悟して、福岡からの参加者に川内原発を見せた。集会の会場からは10キロほど離れて、そのまま戻ると原発を見ることができない。せっかくの機会だからということで、道を知る私が案内した。東シナ海を臨む寄田浜まで降り、原子炉建屋が見える場所まで連れていく。初めて原発を間近に見たという参加者も多く、その威圧感に驚いていた。

2年ほど停止している川内原発

 21日には、また高砂の児島さんに呼ばれて、明石の中崎公会堂で、ジュレー・ラダックのスカルマさんとジョイントの講演を行う。

 ラダックはインド領のチベットで、伝統文化が残り、開発に抗して持続可能な文化と生活を残そうと欧米や日本のエコロジストなどから脚光を浴びている場所である。夏に児島さんに私とチベットとの縁を話したら、いつのまにか彼らが行っているラダックとの交流スタディツアーに参加する運びになった。デンマークの「イドラット・フォルスク」や日本の「トロプス」をラダックの子どもたちといっしょにやるのがどうも私に与えられた任務らしい。

中崎公会堂での会合

 会合が終わると、高砂の郊外にある「イヌイット」という有機食品レストランで交流会をした。このレストランがすばらしく、オーナーのFさんも意識の高いなかなかの人物だった。自分たちで有機野菜を育て、調理して出すファーマーズ・レストランであるが、トイレや空調など環境や障害者も考慮して行きとどいた配慮がなされていた。

イヌイットで交流会

 ここで参加したNさんは2003年と2004年にいっしょにタイへいった仲間である。彼との再会もうれしかった。会合から参加してくれた福島からの避難民で、原発被害や自然などの絵を描いているあとりえとおのさんも夏以来の再会だった。

 翌日は、名古屋からこられたKさんと姫路駅で談話する。Kさんはシャンソンを主にすぐれた表現活動をされてきた人であるが、現在、北欧の声の文化による教育を研究している。そのために私に訊きたいことがあるというので、お会いすることになった。たいして役にも立てないが、すばらしい活動をされてきた女性なので、こちらが学ぶつもりでいろいろとお話しした。時間があまりなかったのが残念であるが、今後またこういう機会もあるだろう。

 28日は、協会会員のHさんとSさんとバイエルン・福岡で、ドイツビールとドイツ料理を味わう。ここで県に対して裁判を起こしているHさんの今後の活動を手伝うことが確認された。帰りには駅でイルミネーションを少し楽しむ。

博多駅のイルミネーション

 さて、2013年も終わるが、今年をふり返れば、家族ともども大過なく過ごせたのがよかったのだろう。しかし、仕事はリストラされつつあるので、なかなか厳しい。著書『フィヒテの社会哲学』が出せたのは喜ばしいことだった。しかし、無名の私が書いても、ほとんど世評に昇らず、まったく売れていないところが悲しい。日本の論壇はかつての流動性を失い、国会議員や就職などと同じく、コネ社会になっている。著名な学者の子飼いの研究者や出版社や新聞社の御用達の者でないと本も紹介されず、売れることもない。

 グルントヴィ協会を再開し、会報をようやく出せたのもよいことだった。高齢者福祉を扱い、会員からの手紙などでは高く評価してくれていた。来年は、ドイツ・デンマークとインド領ラダックへ行くことになりそうだ。懐の具合が寂しいが、何とか実現できればと思う。

2013年12月1日

覚苑寺の紅葉

 11月もあっというまに過ぎ去り、12月になった。もう一年の終わりだ。世間が歳末の忙しい雰囲気をつくり出し、新聞などは手抜き記事ともいえる一年の回顧特集が多くなるので、毎年のことながらうんざりする季節である。

 11月24日には、毎年の恒例になった長府の紅葉見物にいく。例年はもう少し遅い27日くらいの日程なので、さすがに少し早かったかもしれない。それでも場所によってはきれいな色にかわり、眼を楽しませてくれた。二年つづけて昼食をとったフレンチ・レストランが閉店になっており、しかたなくその隣の洋食屋に入ったことが去年との違いか。

覚苑寺の紅葉

毛利屋敷の紅葉

功山寺の紅葉

長府庭園の紅葉

 26日には大学の講義の帰りに光明寺による。去年は日曜日だったので人が多かったが、火曜日だとそこまで混雑はしない。気のせいか、年々もみじの葉が枯れているというか、以前ほどの美しさを失ってきている印象を受ける。庭の手入れに苦労をしているのだろうか。

光明寺の紅葉

 23日は、北九州国際音楽祭の一環である、バーミンガム市響とエレーヌ・グリモーのコンサートにいった。バーミンガム市響はラトルで有名になり、また今の指揮者のネルソンスも日本の音楽雑誌などでは評価が高いらしいので、それを期待していく人が多かったかもしれないが、私の目当てはエレーヌ・グリモーだけであった。

エレーヌ・グリモー(カーテンコール時)

 いつの頃か忘れたが、彼女のCDを聴き、著書を読み、一般のピアニストにはない個性を感じた。この人は、ピアニストとして生きながら、世間の与えるピアニスト、演奏技術のプロという、ある意味あやつり人形、人間機械という枠をとにかく破りたいと四苦八苦している矛盾した存在ではないかと思った。またピアノだけではなく、美貌にもめぐまれ、プロダクションは才色兼備で売り出そうとするのに、本人はあえて素顔でナチュラルであろうとする。

 しかも、彼女の好むのはベートーヴェンやブラームス、シューマンなどの渋いものが多く、その外見に合うようなショパンやラヴェル、ドビュッシーではない。そういう葛藤ににおもしろさを感じたのである。

 しかし、美人であることはまちがいない。だから、彼女のコンサートはオペラグラスが必須というのに、この日はうっかり忘れてしまった。演奏自体は気持ちがこもって満足できるものだったが、ホールのピアノの音が悪く、せっかくの熱演を生かせなかった気がした。多目的ホールの限界か。

 

2013年11月17日

鐘崎港

 2ヶ月半ぶりの更新になる。仕事が始まるとそれに追われ、他のことをする余裕がなくなってしまう。いつものことであるが。

 近い順に書いていくと、11月10日は「さよなら原発!11.10九州沖縄集会」だった。一万人が九州・沖縄から集まり、再稼働反対、原発ゼロに向けて集会とデモ行進を行った。グルントヴィ協会の会員が比較的多く集まるかもしれないと思って、Kさん手製の協会の旗をもっていったが、協会の会員自体、それぞれの団体に属しているので、そちらにいった人が多かった。
 旧友の東郷さん、そして協会の会員であるKさん、Mさんなどといっしょにデモに参加する。デモに誘った家族を楽しそうなサウンド・カーの後ろに連れていったり、知己の参加者たちとあいさつしたりで忙しかった。

協会の友人たち

集会の様子


 水俣の旧友Nさんによれば、水俣条約をめぐる10月の会議では、水俣は患者たちが分断され、混乱を巻き起こした結果になったそうだ。新聞報道ではいいことしか書かれていないが、実際はひどい会議だったらしい。

 7日には、会員になっている九響の「天神でクラシック」に行く。ロマン派のシューベルトの歌曲とシューマンの「春」なので、ドイツ・ロマン派を専門とする者なら聴かずにはおれない。
 シューマンは、ピアノも歌曲もいいし、室内楽、交響曲もすばらしく、その上、文才があり、評論家、詩人としても才能を発揮した人であり、まさにロマン派の面目躍如である。誰よりもドイツ・ロマン派を体現した作曲家と思うのであるが、なぜか一般にはブラームスなどに比べて人気がない。
 指揮者はまだ若い垣内悠希氏で、さほど期待もしていなかったが、こぢんまりとまとまることなく、スケールの大きな指揮ぶりを見せ、将来が楽しみと思わせた。

 九響は他に、9月に同じ「天神でクラシック」の第二回コンサートと、定期公演に行った。9月24日の定期はベルディのレクイエムで、ゴロー・ベルクの指揮である。大規模な合唱が売りの曲で、九州ではあまりコンサートでお目にかかれない大曲であるが、今年のベスト・コンサートに確実に入る充実した内容であった。

ヴェルデイ「レクイエム」のカーテンコール


 9月の「天神でクラシック」は、ショパンのピアノ協奏曲が聴けたのがよかったか。第二楽章の甘いメロディが、暑さで疲れた体に心地よく染みわたった。

天神でクラシック(9月)

 9月は、グルントヴィ協会の会報『ハイムダール』31号の編集と発行や論文の締切で忙しく、10月はその発送作業もあった。
 9月17日には、ようやく拙著の『フィヒテの社会哲学』が完成し、編集者のOさんとの打合せの際に出来上がりをいただいた。2009年以降の3年をかけた成果になるが、とりあえず専門の哲学で、主著になりうるものを出せてよかったのではないか。

拙著『フィヒテの社会哲学』


  本当はまだ書きたいものがあり、これが主著ではないのだが、専門書は企画では出してくれないので、次の本を出せそうにない。どこか奇特な出版社が企画で出してくれないものかと思う。
 ただ、その前に来年にはマイアーによるシュミットの研究書の翻訳が風行社から出るので、その仕事の仕上げが待っている。
 この拙著の献本分、購入分の送付もあり、10月は何か発送作業ばかりしていた気がする。しかし、協会会報にせよ、拙著にせよ、送られてくる手紙やハガキがうれしく、メールとは違う手紙の交流がこの10月の一番の幸福感だった。

 10月からは、北九大での倫理学講義も始まり、これの準備がけっこうたいへんだ。これは教職科目で文科省の縛りがあり、古代から現代に至る倫理思想をカバーしなければならない。
 哲学史・倫理学史研究者は基本的には専門性を高めるために、古代、中世、近代、現代など、どれかの時代の個人の思想をもっぱらつきつめ、その前後の関連を少しやるくらいである。 古典ギリシャ語もろくにできない(院生時代に少しかじったが、すっかり忘れてしまった)人間がプラトンやアリストテレスを語るというのは僭越行為であるが、大学当局がそれを求めるのであれば、仕方がない。
 米国では、哲学科でも英語の訳書でゼミをするらしいが、それに倣って、訳書や研究書に頼りつつ、講義の内容をつくっていく。専門家でない分、枝葉にこだわらなくていいので、逆にやりやすい面もあった。

 10月に入って、少し風邪気味で調子を崩したが、その後は快調である。とくに最近、身体がとても軽く感じることがあり、十代か二十代の身体に戻ったような気がすることがあった。こういうのは最近はめずらしい。紅葉の季節が終わると、12月になり、あっというまに新年である。慌ただしいのであまり好きな時季ではないが、あと一ヶ月半、2013年を大事に過ごすことにしよう。

 

2013年9月2日

観自在王院(平泉)の池

 23日から、岩手に行った。これは昨年に引き続いてのもので、職場の同僚のKさんといいずな書店の行う岩手県立高田高校の支援のワークショップを24日に行うためである。昨年参加して、それが好評だったということで、また学校側の希望もあって今年も参加した。私の他にも5つのワークショップがあり、いいずな書店のみなさんもそれに協力して行われた。

イドラット・フォルスク(牛追い)

参加者のみんな

 私のやったものは、明石でのワークに続いて「イドラット・フォルスク」と「トロプス」である。去年よりは生徒たちの顔が心なしか明るく感じられ、震災から時間が経つにつれて生徒たちの気持ちが未来に向かっていることが確信できた。

 ワークのあとに、陸前高田市の被災地を回る。瓦礫はほとんど片づけられ、公有地を中心にいくつかかさ上げがなされ、高田高校の新校舎建設も始まっていた。私有地はそれぞれ名札が建てられていた。報道を聞くかぎりでは、奥の方の高台に移転するか、それとももとの場所をかさ上げしてそこに再び住むか、住民の意向がわかれ、復興が遅れているらしい。

かさ上げの様子

 たしかに個人の所有権にかんすることで、仕事やもといた場所への愛着、地域のつながりなど複雑な要素がからむ問題なので、通り一遍の解決はむずかしい。それでもこういうときこそ、行政が決断力を発揮して、住民の討議を重ね、合意を形成する努力をすべきだろう。それがなければ、結局はなし崩し的に物事が進み、誰にとっても不満な結果になるに違いない。

 翌日の25日の午後は、協会の北上談話会を行った。協会会員の飯盛さんにお願いして小さな会合を設定してもらった。子どもの帰省その他で多忙だったそうで、あまり宣伝ができなかったということだが、それでも8人ほど集まり、デンマークの教育、地域づくりや福祉の話をスライドを通して行った。協会の会合らしく、コーヒーとお菓子もあり、最後の各人のお話はかなり盛り上がったのではないかと思う。

協会北上談話会
(うっかり写真をとり忘れて終わって帰るところだけ)

 26日はせっかく岩手に来た機会ということで、平泉に行った。2011年に世界遺産に指定されて、観光客が押し寄せているが、私自身はブームになる以前から関心はもっていた。というのも、若い頃、民俗学や辺境の問題を勉強し、東北は対中央の砦として欠かせない場所だからである。
 蝦夷の歴史、安部一族と清原一族の歴史はとりもなおさず、中央がいかに東北を侵略していったかの歴史と重なる。奥州藤原氏は彼らの末裔であり、源頼朝に滅ぼされて東北蝦夷の独立が終わる。高橋克彦の『炎立つ』や西村寿行の『蒼氓の大地滅ぶ』などは、小説をあまり読まない私にしては、熱中して読んだものである。かつての重要な拠点、胆沢城や多賀城は考古学的遺跡でしかないが、平泉の中尊寺は幸いまだ残っている。そういう意味で一度は訪れなければならない場所であった。

毛越寺

毛越寺庭園

 暑さもあって長い時間回ることができなかったが、とりあえず毛越寺、中尊寺、義経高館などの代表的な場所をレンタ・サイクルで訪れた。ちょうど太宰府の観世音寺や福岡市の聖福寺と似て、毛越寺はかつての大伽藍が残っていればすばらしい寺院であったろう。毛越寺の隣の観自在王院跡の庭園は建物がないので、人がほとんど来ない。しかしここの庭園もすばらしく、閑静なひとときを楽しむことができた。

平泉の街

 文化遺産センターを訪れ、中尊寺に来た頃がちょうどひるどきである。土産物店や食事の店がならぶ中で「農家茶屋」という食堂兼お土産屋さんに入り、「はっと汁定食」なる郷土料理(?)を食べる。「はっと」とは、そば粉や小麦粉でつくった麺類らしいが、いわゆるすいとんやだご汁みたいなものだ。よく味がしみておいしかった。

はっと汁定食

 月見坂を昇り、お目当ての金色堂を見る。要するにこれは建物といいご本尊のミニチュアみたいなものだなという印象を受けた。

金色堂

 帰りに義経が自害したという高館に寄る。義経はなぜかあまり好きではないが(昔見たテレビドラマのせいか)、芭蕉がここで「夏草や」を詠んだ場所とあっては来ないわけにはいかない。一ヶ所で義経と芭蕉に思いを馳せることのできるお得な観光地である。ここから見える北上川が美しかった。

高館から見る北上川

芭蕉の句碑

 北上川のよい点は九州の川と異なり、コンクリートの護岸加工をしていないことだ。これは意図的にそうしているのだろう。最後に無量光院跡に寄ると発掘作業をしていた。ここが残っていたらきっと美しい建築物として見ものだったろうと思われる。

 世界遺産は浄土思想とからめて二度目の申請で認定されたが、これは少しポイントをはずしている気がする。むしろ、中央に抵抗する蝦夷の子孫として、都を超える拠点をもとうとした藤原氏という位置づけでやるべきだった。そしたらよりかんたんに認定されたろう。しかし、それでは政府の後押しがなくなる。これでは東北の歴史が少し歪曲されるのではないかというのが、訪問の感想だった。

 27日は夕方の飛行機だったので、その時間まで盛岡市内を散歩した。宿を盛岡にとっていたこともある。いろいろな本などで、盛岡のよさが語られている。雑誌でも洋館の写真が紹介されるなどして、よいイメージをもっていた。何よりも宮沢賢治が学んだ中学と高等農林学校があり、彼の童話で「モリーオ」として出てくるイーハトーヴの首都である。

 実際に歩いてみると、典型的な地方の県庁所在地という感じであった。城郭跡があり、明治・大正期の建物が一部残る。繁華街もあるが落ち着いており、緑が多く、住みやすそうな雰囲気を醸し出す。洋館はたしかにすてきであったが、このくらいなら福岡市にもある。数といい規模といい、福岡市と同じようなものであるが(九大がある分福岡市が多いだろう)、盛岡の方が有名であることを考えれば、宣伝がそれだけうまい、あるいはほかに名所がないということにもなろうか。

県公会堂

不来城(盛岡城)跡

岩手銀行旧本館

賢治・啄木青春記念館

記念館の展示

 岩手医大の近くを通ると賢治の詩碑があった。岩手病院での看護師への思いが彼の唯一の恋として知られるが、賢治の入院していたのがこの場所だったのだ。岩手医大は戦後の新設医科大の一つと思っていたが、戦前からの伝統をもつ。医療の行きとどかない東北地方で、地域の住民の医療に奉仕すべく設立された尊敬すべき学校だった。だから、盛岡市の中心部に位置して、北大とよく似て大学が町の発展の拠点になったのだろう。

岩手医大

医院の名前も賢治童話から

 賢治ついでに、岩手大学へ向かう。最初、ミュージアムに入るが、賢治の資料がない。たしか彼の展示室があるはずと思い、探すと別の農業教育資料館の方だった。そうそうこちらがよく賢治にかんする本で出てくる場所だと建物を見て思い出す。この頃には時間がなくて駆け足で見るだけに終わったが、大学法人化以降、地方国立大は財政削減で四苦八苦している中で、岩手大はミュージアムを二つももつのがおもしろいなと思った。

岩手大農業教育資料館

資料館の宮沢賢治コーナー

資料館前にある賢治のモニュメント

 盛岡に来ても、結局は賢治にまつわる場所が主になった。やはり彼は私にとって特別な存在であることがわかる。盛岡は他にも、石川啄木、新渡戸稲造などを輩出している。賢治も含めていずれもある種の清廉さを感じさせる人物だ。どぎつい権力欲、支配欲などがない。それは土地柄なのだろうかと、啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて、空に吸われし十五の心」を読んだ盛岡城に来て思ったことだった。

 30日には、弟といっしょに若松の海沿いにある「共仂(共働)の家・ぴのきお」にいってみた。ここは知的障害者、認知症老人とスタッフが共同生活するグループホームである。協会の会員であるNさんに紹介され、すばらしい場所だと聞いていたので、ぜひ一度寄ってみたかった。

 代表の河野修三さんは障害児教育の専門職として若い頃から、知的障害者の施設で働いてきたが、既存の施設のあり方、まだまだ差別の残る日本の障害者福祉の限界を感じ、自分でノーマライゼーションを実践するグループホームを若い頃から模索してきた。そしてようやくその完成形として24年前にこの場所に「共仂(共働)の家・ぴのきお」を移転した。小規模でスタッフ、入所者の区別なく暮らすそのあり方はとても参考になった。スタッフの苦労もたいへんかと思うが、しかし、どっぷりはまればそれもまた苦にはならないことは、若い頃の経験で少しわかる気がする。今後もおつきあいしていきたいと思う場所であった。

 翌31日には、脱原発市民グループ「風ふくおかの会」に依頼されて、「イドラット・フォルスク」と「トロプス」を子どもたちとする。実に、8月はこれで3度目である。昔、そういうこともあったが、最近では一ヶ月に三回もやるなんてめずらしい。小さな子どもが多かったので、ルールがやや複雑なものはうまくはいかなかったが、やさしめのものを多くしてみんなで楽しんだ。終わって子どもたちに聞くと「楽しかった」といってくれたので、とりあえずは成功だろう。

イドラット・フォルスクの様子

 その他には翻訳やグルントヴィ協会の会報の原稿書きなどで時間が足りないほどだった。すべきことはまだあったが、全部はできなかった。それでも、いろいろと充実していた8月だったと思う。最後は家族で私の誕生日の祝いに毎年恒例で近くのレストランにいった。

 

2013年8月12日

 

夏の雲

 5月の初旬から全然日記が更新できなかった。3ヶ月ぶりの更新である。毎日仕事に追われ、時間的余裕がまったくなかった。今年は9月に哲学の大著を刊行するので、その校正や書き直しなどもあった。予備校も大学もコマ数は減って時間的余裕があるはずなのだが、通勤の時間などを入れると結局はあまり変わらないということだ。
 7月後半になってやっと少しだけ仕事の負担が減り、5-6月に寄れなかった松屋の庭園と小倉アイスを楽しんだ。

松屋「維新の庵」の庭

小倉アイス

季節の草花をそえてくれるのがいい

近くの光明寺の石庭

 最近のことから書くと、8月3-4日には、兵庫県の明石と高砂にいった。高砂の児島一裕さんが彼の主催するワークの講師に呼んでくれたためだ。彼の集会の講師になるのはちょうど10年ぶりくらいになるが、それでも久しぶりという感じはせず、ずっと会っている気がした。

 3日のお昼には、明石名物の「明石焼き」を初めて食べた。つけ汁につけて卵がたくさんのたこ焼きを食べる。現地ではだから玉子焼きともいうそうだ。ふつうのソースでも食べられる。

 講演の前に、明石労働福祉会館で開催されていた「ピースフェスタ」に寄る。ここで福島の伊達市から避難してきた画家あとりえとおのさんの絵画展があっているということで児島さんに連れられてきた。福島原発の事故以降に、これを描かねばという激しい意欲にとらわれ、描きつづけてきたそうだ。
 優しい母子像の最後には、「フクシマノサケビ」と題された激しい衝撃的な大作があった。本人曰く、これがいちばん描きたかった絵だが、一般受けするように最初はおだやかな絵を並べたということだ。そのシリーズでは、カタツムリが遙か彼方をめざして進んでいる絵がいちばん気に入り、その旨話すとその絵の絵はがきをプレゼントしてくれた。

 その後は、中崎公会堂という文化財の会館で原発やデンマークの話をする。最後は、デンマークの民衆の遊び「イドラット・フォルスク」で終えた。これがたいへん好評だった。
 印象的だったのは、リコーダーの演奏をしたとき、会場の響きが特上のコンサートホールのようにすばらしく、まるで自分の演奏でないような気がした。
 ちょうど10年前にも私の話を聴いたMさんも来られていた。今は大阪市の学校講師をしているそうだ。うれしかったのは、グルントヴィ協会の方で案内をした神戸の郡山さんがおいでになったことだ。尊敬する先輩でもあり、再会を喜んだ。今年ようやく教員を退職したが、それでも嘱託教員などをやっているとか。

明石・中崎公会堂でのワーク

中崎公会堂前で参加者たちと
上左から二番目が児島さん

 その日はあなごのおいしい店でみんなで懇親会をする。昼間お会いしたあとりえとおのさんも駆けつけた。児島さんのところに一泊し、翌朝は彼のいきつけのパン屋さんの喫茶で朝食を摂る。ドイツ風のパンでおいしく、朝食のセットも用意して、新鮮なパンをおしゃれなカフェテラスで食べることができる。気持ちがいいから、みんなで3時間も話し込んでしまった。

 その後はスタッフのKさんと児島さんの自宅のすぐ近くにある高砂神社にいってみた。何度か高砂に来ながら初めて訪ねた。謡曲で有名な尉と姥の由来となった相老松がある。今あるのは五代目だそうだ。縁結びの神として、あるいは結婚式にはうってつけの場所になるが、とくに観光地化されてはいなかった。ごく自然なたたずまいでこの雰囲気のままであってほしいと思った。

高砂神社

相老松

 児島さんに別れを告げた後は、吹田の叔母のところに寄る。従兄弟になる彼女の息子が昨年亡くなり、焼香がてら叔母を訪ねてみた。そしたら、娘夫婦を呼んでおり、楽しい午後の団欒となった。

 7月18日の政治思想カフェに、参加者のTさんがノルウェー人の若者二人を連れてきた。当然後半は彼らとの懇談になり、ノルウェーの社会や政治について質問や議論をした。印象的だったのは、政府への信頼で理由は「透明だから」というものであった。情報公開が徹底し、オンブズマンの制度が機能し、秘密が少ない政府があるということ自体、参加者はみな驚いていた。

政治思想カフェ

 TさんはWWOOFに参加しており、ときおり世界から若者がやってきて、そのホストをしている。前にはカナダからのゲストを連れてきたが、今回はノルウェーである。ノルウェー語もデンマーク語とほとんど同じなので、私がデンマーク語を話すと、日本に来て初めて北欧の言葉を話す日本人に出会ったと喜んでいた。

 20日にはその彼らがノルウェーの郷土料理をつくるというディナー会があるという。北欧とあっては、私が行かないわけにはいかない。予想どおり料理はフリカデレ(ハンバーグによく似たものだが、日本のハンバーグとは少し違う)だったが、どういう香辛料を使っているのかさすがに本場の味で、懐かしかった。

ディナー会

ラース、私、スティエン

 ここで宗像の話になったので、22日に私と妻が宗像の寺社を案内することになった。宗像大社や鎮国寺などを見せたが、彼らは興味深く見ていた。しかし、おみくじの予想の言葉をおもしろがっていたのはさすがに若者というべきか。最後に、夏の名物かき氷を食べさせた。アイスクリームはノルウェーにもあるが、これは初めてと喜んでいた。

 24日には今年初めて海へ泳ぎに行った。波が高く少年自然の家の子どもたちしか浜辺にはいない。その中を悠々と波をのりこえて泳いだ。少年たちがまねしては危険だが、漁師の子どもだった私にはこのくらいの波で泳ぐのは何でもない。猛暑の夏といわれる今夏だ。しかし、どんなに暑くても湿気の多かった梅雨時にくらべれば、私にはさわやかで気持ちのよい天気である。夏生まれなのでこの季節が好きなのだ。

さつき松原

 その誕生日の8月5日で58歳になった。娘がプレゼントをくれたくらいでとくに何もないが、近く家族でいつものレストランで食事をすることにしよう。この頃にはカノコユリも咲き、期せずして明石での話ではこのカノコユリと原発の話も出ることになった。

庭のカノコユリ

 6月はひたすら仕事に追われ、余裕がなかった。上に書いたように、9月に出る専門書の校正がまたたいへんだった。

 6月はヨーロッパではシーズンオフなので、有名オケや演奏者が日本に来る月でもある。そのためにいいコンサートが多いのだが、せっかくチケットを購入しても忙しさのために行けないものもあった。来年からはもう6月のコンサートは最少にしよう。

コレギウム・ヴォカーレのコンサート

 古楽ファンなので、ヘレヴェッヘとコレギウム・ヴォカーレのコンサートは楽しみにしていた。期待を裏切らないすばらしい出来で、これがもう今年のベスト・コンサートの有力候補になった。
 5月28日の九響の天神でクラシック、6月27日の定演のワーグナー、7月17日のブラームスは一部よいものはあったものの、全体的には今ひとつだった。ワーグナーの「ヴァルキューレ」は、ウィーン国立歌劇場のウェルザー=メスト、バイエルン州立歌劇場のケント・ナガノの演奏を聴いているので、さすがに九響は比較されるといやだろう。

 8月の7日以降、ようやく暇になったが、著作の索引づくりで三日間費やした。500ページ近くもあると、索引をつくるのも該当ページ数が多くてたいへんだ。しかし、仕事も何もない三日間をフルに使って集中してやったおかげで、それなりによいものができた。
 前にも書いたように、今は専門書はどこも企画では出さず、自費出版、大学の出版助成金、一般の出版助成で出すらしい。哲学関係の一般助成はなく、前二者も、生活費だけで手一杯のフリーターの身には無理な話である。あと二冊はシリーズで出さないと今回のものは意味がないのだが、それは叶いそうにない。それゆえ最初で最後の主著になることはたしかだろう。

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