2004年11月25日

 20日、21日と京都に行ってきた。学会などの所用があったためだが、季節がちょうどよいので、多忙なさなかを縫って、21日には少し紅葉を見てきた。

 この時期の京都の人の多さは過去の経験からよく知っているつもりだったが、今回は地下鉄のあまりの混み具合など、改めてそのすさまじさを知らされた。通勤時でもこんなに混まないのではないか?新大阪から新快速に乗ったときも、休日だというのにラッシュがすごく、みなスーツ姿のかわりに、デイパックやウォーキングの格好をしているというのが違うだけ。関西各地から京都めざして全員集合という感じだ。おまえも人のことはいえないと文句をいわれそうだが、学会でたまたま日程が重なっただけで、そうでなければこういう日に私が行くことはありえない。

 京都中の寺社に人が行く季節なので、京都に詳しい方に人の少なそうな穴場を教えてもらい、光悦寺にいく。それでもそれなりに人は押し寄せていたが、大混雑とまではいかないので、ゆっくり楽しむことができた。その後その界隈にある圓成寺常照寺とめぐり、こちらはもっと人が少なかった。紅葉に囲まれて抹茶とお菓子もいただき、しばし優雅なひとときを味わう。

 若い頃は京都に行きたいと思ったこともなく、今も所用のついでに寄るくらいで京都自体を目当てに行くことはないが、それでもこの数年は毎年1〜2回多いときは3回訪れている。何かしら縁ができたということなのだろうか。

圓成寺内の社

常照寺の茶席

2004年11月16日

14日に山口県の小郡で行われた「レイチェル・ポッジャー、バロックバイオリンコンサート」に行ってきた。レイチェル・ポッジャーは古楽界のバイオリンのホープで、イギリス出身である。イングリッシュ・コンソートのミストレスやアンドリュー・マンゼとの共演など経てソロとして独立し、バッハの無伴奏ソナタとパルティータのCDで一躍評価を高めた。マンゼとの共演のCDを前から聴いており、その腕の確かさは知っていたので、ちょっと遠いけれども、小郡まで足を伸ばしてみた。今回の来日では東京と山口の小郡しかコンサートはなく、九州に来ないのである。

 写真の印象から、きっと人柄のいい女性だろうと思っていたが(ドイツに暮らし、またデンマーク人と長い交友があるので、あちらの人を直観的に見る目はついた)、期待通りとても愛らしいすてきな女性で、楽しく演奏する様子は見ていても心地よいほどだった。技術的にもミスらしいミスもなく、完璧に弾きこなしていた(伴奏のゲイリー・クーパー氏は出だしにタッチミスがあったが、この程度は生のコンサートならふつうだ)。

 演目はバッハのバイオリンとチェンバロのソナタが主であった。一般には悲痛で重い印象を与えるもので、所有しているマンゼやジギスヴァルト・クイケンのCDでも、そのような印象の演奏をしているが、レイチェルさんの演奏を聴くと、長調や早い曲は明るく楽しく弾いている。たしかにその通りで、けっこう明るい旋律やリズムの章もたくさんあり、今までの演奏者はバッハだからと必要以上に重く荘重に奏でていたのではないかと気づいた。彼女の演奏の仕方はいわばコロンブスの卵で、当然のことをしたまでであって、それで初めてバッハの意図やこのソナタの新たな魅力が出ているのだ。

 会場で販売していた彼女のCDも購入して聴いてみた。やはりマンゼやクイケンよりもいい。技術、音色、表現力ではクイケンが上かもしれないが、この曲のもっていた楽しさ、心地よさは彼女しか出しえていない。

 終わりにサイン会があり、出口に出てきた。サインをもらうついでに写真もとりたいというと快く応じてくれた。目の前で会ってもとても可愛い魅力的な女性で、大ファンになってしまった(笑)。美人ではないが、足がとても長いスタイルのいい人で、舞台に出てきたときはみな思わず声を挙げたほどである。

 彼女のこのバッハのバイオリン・ソナタのCD、伴奏はピノックである。先月彼のコンサートを聴き、握手し、この日にレイチェルさんとツーショット。クラシック・コンサートに再び行き始めてわずか一月余りで、この二人と間近に出会ったというのも奇遇だ。ピノック氏はその後彼のヘンデルの合奏協奏曲集のCDなども購入してよく聴いている。歯切れのいい名演で、ヘンデルのよさがよく出ている。こんどはレイチェルさんの無伴奏ソナタくらいは聴かないといけなくなるだろう。

レイチェルさんと

 

2004年11月7日

 しばらくぶりに私の愛用品シリーズで、三番目のものを書くことにする(最初はこれ、二番目はここ)。というのも、それの金具が壊れ、とうとう使えなくなってしまったからだ。

 化繊の黒のバッグで、1998年の7月に1,980円で購入し、それ以来6年間使い続けてきた。安かったのはベトナム製ということがあるが、正札は6800円程度で、バーゲンで上の値段だった。まぁそれが仕入れ値だろう。

 とても縫製がよく、ベトナム製はいいという印象をもってしまった。機能的なポケットもあり、厚さも調整がきき、パソコンも入れば、二泊三日程度の出張にも使えるという代物で、とにかく使いでのよいバッグだった。荒っぽい使い方だったのに、6年間も壊れることはなかった。

 たまに高級バッグでブランドものをお店で見たりすることもあったが、このバッグにはどれもかなわない。値段からすると大当たりのよい買い物で、これだけのコストパフォーマンスは私のつたない買い物人生でもなかなかない。

 たまたまかもしれないが、ベトナム製の商品はよいと思いこみ、安売りのお店などで探すけれども、ベトナム製のものがそもそもあまり見あたらなかった。中国製かどこかのバッタもののバッグはあちこちで売っている。しかし、品質や使い勝手でとうてい今もっているものには及ばない。

 愛着のあったものだけに、処分するのは少しさびしい。今まで役だってくれたことに感謝するばかりである。

愛用していたバッグ。かなりくたびれている。

 

2004年10月24日

 芸術の秋にふさわしく、21日には、ヨハネ・パウロ二世美術館所蔵のバロック絵画展(北九州市立美術館分館)にいってみた。とくに有名な絵というものはないが、佳作ぞろいで、小規模とはいえそれなりに楽しめた。ムリーリョの絵があるとは事前に知らなかったので、これを見られたのは拾いものだっただろう。幻想的で優しい「聖母子」という絵で、小品ではあるが、ムリーリョの良さが出たものだった。劇的でない分、モダンな感じもして、いつまでも見ていたいと思わせる絵だった。

 なぜかスペイン絵画にはあまり詳しくなく、関心もそれほどない。しかし、国や流派を超えて、よいものはよいというのは、絵を見ればわかる。スペインにいったことがなく、また行く必然性がないので、ムリーリョの絵を見ることはきっとないと思っていた。こういう場で本物を見ることができたのはほんとに僥倖だった。

聖母子

2004年10月10日

 8日に続いて9日も福岡古楽祭のダウランドのコンサートに行ってきた。ダウランドはイギリスの世俗的な歌の作者で、16世紀から17世紀かけて活躍した人だ。古楽を聴くようになるはるか以前、1988年のドイツ留学時に、友人のフランクが自分で友人の女性と録音したテープ(のちにCD)をもっていたので、これには昔から親しみがあった。クラシックというよりも誰にでも親しみやすい曲想で、ダウランドから古楽に入るという人も多いだろう。

 そんなわけで今回の古楽祭では一番楽しみにしていたのだが、あにはからんや、ソプラノのサラ・フォックスさんが力一杯歌うばかりで、ぜんぜんダウランドらしい情感はなく、聴けば聴くほど興ざめするばかりだった。ダウランドといえば、エマ・カークビーの歌が代表的だが、彼女の画期的な古楽の歌唱がダウランドにふさわしい清澄感、憂愁を出していたのに、今回のサラさんはオペラかオラトリオ調で歌うので、ぜんぜん雰囲気が出てこない。フランクの友人の歌手の方がまだ上手でさわやかだ。

 伴奏のリュートはまだしもルネサンス・フルートは歌と同じくらいに目立つので、やはりこれもいい組み合わせとは思えなかった。いろいろなプログラムがある中で、同じ奏者や歌手でそれらをやる場合、相性の善し悪しは当然あるので、これはこれで仕方ないだろう。今日のコンサートを聴けば、昨日のピノックのヘンデル・コンサートはたしかに卓越した出来だったと改めて感じさせる。

 その当人のピノック氏が最後部の席で有田氏と並んで今日のコンサートを見ていた。帰るときに、目の前に立っていたので、「昨日のすばらしいコンサート、とてもよかったです」と握手して挨拶をした。「サンキュー。それはよかった」といいながら、両手で握り返してくれたのが、今日の一番の収穫か。舞台で見せた感じのよさそのままだった。「あなたのバッハのチェンバロ協奏曲のCDを毎日聴いてますよ」といいかけたら、横から地元の名士か主催者がピノック氏に話しかけてきたので、遠慮して立ち去ったが、いや〜世界のピノック氏と握手して二言三言話ができるなんて、気分はすっかりミーハーになっていた。

 

2004年10月9日

 ずいぶんと日が空いてしまった。とくに多忙というのではないが、それなりに仕事に追われ、毎日が過ぎてしまったという感じか。

 昨日は珍しくコンサートに行ってみた。トレヴァー・ピノックの指揮によるヘンデルのプログラムで、福岡古楽祭のオープニング・コンサートである。偶然何かの拍子で、福岡古楽祭のことを知り、ピノックが来ると知って、これほどの大物ならぜひとも行かねばと思っていたのである。

 去年の12月頃から、久々にクラシックを聴き始めたことはすでに書いた。それ以来半年ほどはずっとバッハを中心に、たいていのCDは買いそろえるまでになった。もちろんピノックの演奏もその中にある。彼の録音でもっとも評価の高いバッハのチェンバロ協奏曲集はよく聴くものの一つである。80年代に颯爽と活躍し、90年代になるとレコード会社との契約の関係であまり新録音を出さなくなったので、日本では過去の人扱いも一部受けたようだが、実際に聴いてみるとぜんぜん過去の人ではなく、元気に指揮し、チェンバロを弾いていた。

 ヘンデルの「水上の音楽」ではピノックの演奏も名盤の一つだが、この日の演奏では、一部バロック・トランペットやバロック・ホルンに音程の乱れがあったとはいえ(まぁこれは仕方のない面もある)、大いに楽しめた。いちばんよかったのは、聴いている最中に非常にくつろいできて、しみじみと幸福だな〜という気分になれたことである。こういう気持ちになることはあまり多くはない。95年の春にデンマークのコペンハーゲンのラウンド・タワー(チコ・ブラーエが観測をした場所として有名)の一室で、ハンブルク交響楽団などに属するデンマーク人奏者による室内楽を、わずか10数人の観客で奏者とヒザをつき合わせるようにして聴いた夜(社会開発サミットの出席者用のぜいたくな特別サービスプログラム)がこういう気分だった。このようなひとときを過ごせただけでも行った甲斐があったろう。

 この古楽祭は親しみやすい工夫がなされていて、あまり格式ばってはいないのも一因かもしれない。今年の夏は予定では本場ユトレヒトの古楽祭に行きたかったのであるが、それがかなわなかった。しかし、福岡でこんないい企画があるのはありがたいことだ。

 来年は、クイケン兄弟(ヴィーラントとバルトルド)や寺神戸 亮氏が来るのだという。有田正広氏は音楽監督として毎年参加している。古楽の演奏者としては世界的な権威に属する人々だ。今度もまたぜひ行かねばならなくなった。

 

2004年8月22日

 一月ほど前になるが、7月17日に北御門二郎さんがお亡くなりになった。6月に藤井勇夫さん、松下竜一さんと相次いで知己を失って重い気分でいたが、さらに追い打ちをかけられたような気持ちになった。

 北御門さんは松下さんと並んで、個人的にその生き方を範としていた人である。1986年だったか宮崎の西米良村を民俗調査で訪れた帰りに、水上村に寄って自宅を訪ねたこともある。その前の年に講演会にお呼びしたので、面識はすでにあった。

 バスで水上村の奥、市房山に登る麓である湯山にいったが、降りる停留所を間違えて、終点のキャンプ場まで行き、そのバスが戻るときにやっと降りるはずの停留所で降りた。途中田で仕事をしている人に北御門さんの家はどこかと尋ねると、「先生は、今バス停まで迎えに来ていたが、来ない、来ない、おかしいなといって戻っていったよ」という。「しまった!悪いことをした」とあわてて走って、教えられた道を行った。しかし、途中でまたわからなくなったので、角の美容室に道を尋ねると「ああ、あなたたちね〜。今さっき先生が来ないとこぼして戻っていったよ」とまたいわれる。

 尋ねる人がみな同じことをいうので、何かまるで昔話のシーンの中に入ったような不思議な気分がしてきた。北御門さんはおそらく「おかしいな〜」とつぶやきながら、道を歩いて戻ったのだろうが、道行く人みんな、北御門さんに声をかけ、あいさつしたのだろう。それだけ村の人に敬愛されているのかと、改めて感心したものだ。

 無事家にたどり着いて、歓迎を受け、いろいろとお話しをした。戦後すぐから有機農法をしていたそうで、人糞利用の堆肥小屋を見せてもらったりもした。一度しか訪ねることはなかったけれど、強く印象に残っている。僻村に優しき賢者がいて、村人に親しまれ、国家の愚行に対しては身をもって抵抗をする(同じ熊本では、室原知幸もその例になるのかもしれない)。とうてい及ばないとはいえ、その志のわずかばかりほどは見習って実践していきたいと思う。

当時の北御門さんと私

 

2004年8月9日

 協会の会合で札幌に行ってきた。97年だったか、函館に行ったのが最初の北海道への旅で、それ以来二度目の北海道で札幌は初めてである。

 6日には、郊外の野幌森林公園に行き、開拓の村開拓記念館を見てきた。開拓の労苦がよくわかったが、よくいわれるようにアイヌの人々の情報が少なく、視点が一方的なことは否定できなかった。開拓記念館にはそれなりにアイヌ文化の展示や情報はあったけれども、幕末や明治以後の資料、展示のスケールに比べると物足りない。こうやって歴史をふり返ると北海道はまったく別の国(地域)であったものが日本にむりやり帰属させられたということが実感できる。

 森も歩いてみた。北欧の森のようにというわけにはいかず、湿気、ヤブ蚊など多くて、やはり日本の夏の森だった。

 その後は酪農学園大学に行く。ここはホイスコーレ精神にもとづいてつくられた大学である。高橋一さん(酪農学部助教授)の招きで、彼に案内されてキャンパスを歩いたり、他の教員たちに紹介されたりした。緑が多く、牧歌的な感じで、いい雰囲気の大学である。もともとはICU(国際基督教大学)の農学部として構想されたのだが、いろいろな経緯で独立した私学となった。

 7日には協会の会合「ウィークエンド・ホイスコーレ」をする。いい出会いがたくさんあった。

 8日には、時計台旧北海道庁などを駆け足で観光。北大の総合博物館は札幌農学校の歴史がよくわかり、なかなかおもしろかった。大学の中の博物館と思えないような今風の展示の仕方である。つまり各種博覧会などによくあるパビリオン調で、広告会社、企画会社のプロデュース風なのだ。おそらく彼らの手が入っているのだろう。

 北大はもう少し広大とイメージしていたが、さほどでもなかった。九大や京大などのそれなりに広いキャンパスをすでに知っているからだろう。しかし、こういう環境で学べる学生時代は幸福と思う。よく見れば市の中心部、繁華街にこれほど近い大学というのも少ないのではなかろうか。

 逆に時計台は予想よりもよかった。「日本三大がっかり」の一つ(あと二つは高知のはりまや橋と沖縄の守礼の門とか)とよくいわれるので期待していなかったが、それがよかったのか、わりと大きく堂々として見えた。周りのビルとも少し離れて、往時の雰囲気はよくわかるものだった。

 都市の中なので、前回の瀬棚や大沼公園のような感動はなかったけれど、それなりにいい旅ではあったかもしれない。

野幌森林公園

開拓の村

酪農学園大学

時計台

2004年7月31日

 今年は猛暑の日が続く。庭に植えたカノコユリの花が咲いた。十数年ぶりか。一時期は甑島からカノコユリを独自に仕入れてみなにわけていたこともあったというのに、その後うっかり手元になく、昔分けた義母の庭で増えた球根を今年になって植えたのである。

 このユリと私の縁は文章にしているとおりだが、娘の「小百合」という名はこのユリからつけた。宗像は甑島以外では唯一の自生地で、そのために市花もカノコユリになっている。そこに今は居住していることに何かしらのえにしを感じる。

庭に咲いたカノコユリ

2004年7月23日

 7月になり、授業関係が休みになって、自由な時間がとれるようになった。恒例のさつき松原にも一昨日と今日泳ぎに行く。昨年は天候不順と旅、そして仕事のために行く機会がなかったので、2年ぶりだ。すぐ近くなのに、行けないというのも変だが。

 それにしてもここはお金を払ってでも来るような場所だとつくづく思う。透明な海、広大な視界、どこまでも続く海の青、空の青、そよぐ潮風、心が芯から解放される心地がする。私自身はストレスはためない方だが、どんなストレスもここに来れば吹き飛ぶのではないかと思う。ここに来るだけでもう今年の夏は満喫した気分だ。あ、でも札幌行きが残っていた。

さつき松原

透明な海
 

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