2005年12月21日

 14-16日と札幌に行ってきた。酪農学園大学の特別講義に招かれたからだが、14日夜には協会の会合をし、翌15日に大学での講義をした。冬の北海道は初めてで寒波も来襲しており、若干の不安もあった。しかしデンマークの冬で慣れたせいか、予想よりは寒いという気がしなかった。それでも夜にはマイナス5度くらいにはすぐに下がるけれども。その後も寒さは全国的に増しているので、今はもっと雪に埋もれているだろう。

ホテルから見た札幌の街

 協会の談話会は長沼町の人たちと語り合い、楽しい雰囲気で終えた。北海道の長沼というと私の世代は「長沼ナイキ訴訟」を思い出すが、今はナイキではなくパトリオットを配備しているそうだ。ロシアの脅威がほとんどなくなった今、ただの無駄遣いとしか思えない。

 酪農学園大学では急な講義で学生もあまり心準備ができていないようだったが、この手の特別講義にはよく呼ばれるので、いつもどおり楽に構えそれなりのいい講義ができたと思う。ホイスコーレ運動の理念でできたこの大学だが、教職員の参加が少なかったのがやや残念だった。それでも関心をもつ教職員の方とも少しお話しできたし、主宰者の高橋さんにも自宅でもてなしていただいて、心地よい滞在になったのは感謝すべきだろう。

 今年は熊本県立大に始まり、大学や市民のセミナーなどわりと講演することが多かった。来年もよい出会いを期待できたらと思う。

 

2005年12月10日

 4日に絵画展と映画にいった。絵画展は「バロック・ロココ展」である。ルーベンス、レンブラント、ロイスダールなどの(あまり有名ではない)佳品が来ている。ケルンのヴァルラフ=リヒャルツ美術館のコレクションが主のようだが、ヨーロッパの美術館はどこでもルーベンスなどの有名どころの作品はもっているので、そういう絵を集めた展覧会のようだった。去年の北九州市立美術館分館の絵画展もこういうタイプのものだが、ムリーリョがあった分あちらの方が印象に残った。今回はそれよりは有名な絵が来てはいるが、似たようなものが多く、心を射止めるような絵は少なかったように思う。
 
 映画はヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」を見た。久々に彼の映画を見たが、見終わったあとからしみじみ思い出されるような映画だった。見ているときはつい物語の結構を追ってしまったので、ラスト数分のいちばんいい場面を味わうことができなかった。レナード・コーエンのテーマ曲が歌われる最後に向けてすべては仕組まれていた映画だというのに。もう一度見るともっと感じるものがある映画だろう。
 パンフレットに、彼がアメリカに住んで感じたアメリカ人に支配的な三つの傾向「戦争、貧困、パラノイア」を描こうとしたとあったが、私も先進国の人間は今後このパラノイアの中で生きることは必然と思っていたので、そのパラノイアを示す伯父ポールの行動ばかりについ集中してしまったのだ。ミステリーものではないから、アラブ人のテロリスト組織を彼が追う筋自体にあまり意味はなく、ストーリーも粗い。ここがもう少し緻密なら見ている間も楽しめたかもしれないが、それはもちろんヴェンダースの意図するところではない。
 見ているときもそう思ったが見終わったあとでも、ヒロインのラナ(ミシェル・ウィリアムズ)が救いを示して、かすかな心地よさが残った。パラノイアと貧困の現代人を救うマリアあるいはジャンヌ・ダルクみたいな存在なのだろうか。だがこういう人は職業的な「ケア」の中ではたぶん出てくることはないことはたしかだ。
 しかし職業柄若者と接していると、ごくたまにそういう希望を託したい雰囲気をにおわせる人に出会う。私もヴェンダースも老いてしまったということなのか。

 来週は北海道に講演に行くことになった。冬の北海道には行ったことがないので、寒さが心配だ。さてどうなることやら。

 

2005年11月27日

 今年はいつもにもまして全国的に紅葉が遅いと新聞には書いてある。他地域がそうなら九州はなおさらである。この前の宮崎は山間でもまだモミジは青々としていた。亜熱帯地方の気候ともいえる九州には東北や京都のような紅葉の名所はもともと少ない。

 期待をせずに家の近くの森に行くと意外やそれなりに木々は紅葉し、しばし目を楽しませてくれた。これが過ぎるといよいよ冬の気配が強まる。晩秋の心地よいひとときである。

 

2005年11月24日

 19日から22日まで鹿児島、宮崎に所用で行ってきた。
 19日には霧島でエマ・カークビーとロンドン・バロックのコンサート。エマのファンなので、楽しみにしていたが、さすがに老いは隠せないとはいえ、相変わらず素敵な女性だった。とくにリズミカルな曲のときに、少しスイングしながら歌うのがとても可愛らしく「ええな〜」(なぜかここだけ関西弁)と見とれていた。2001年に発見されたというヘンデルの「グロリア」も予期した以上に彼女の魅力が出ており、帰りにCDを買おうとしたらすっかり売り切れていた。
 サイン会がないのは残念。これまでの西欧人とのつきあいから、この手の顔と雰囲気の女性とは相性がいいことを知っているので、直に会うことを楽しみにしていたのだ。また2年後に来日するらしいので、そのときを楽しみにしておこう。
 
 20日は故人となった恩師の吉川先生の家に行き焼香をする。葬式に出ることができなかったので、それ以来一度改めて訪ねたいと思っていたが、今回それが実現したというわけだ。大学に車で送り迎えをしていたという奥さんの希望で、大学で待ち合わせて助手席に乗って家に向かった。先生の代わりをするということで、ふだんはほとんどしないネクタイにスーツ姿で臨んだが、奥さんによれば晩年はセーター姿だったということで、少し演出がはずれてしまった。そのほかにも奥さんといろいろ長くお話しをした。初めて聞くエピソードも多く、一見まじめで愛らしい性格の先生に波瀾万丈の一面があったことを知った。
 その後はグルントヴィ協会の談話会や橋爪さんのところに宿泊し、交流を楽しんだ。

鹿児島大学郡元キャンパスのイチョウ並木


 22日夕方に甥の結婚式が宮崎であったが、それまでに時間がかなりあるので、綾町まで足を伸ばして観光を楽しんだ。2000年の2月に宮崎に講演で呼ばれたとき、スタッフの方の好意で綾町に案内され昼食をとって以来の訪問である。そのときには町の中心部しか見て回ることができなかったので、今回は照葉大吊橋に行くつもりだった。
 地上からの高さが142メートルということだが、実際にわたってみるとけっこう怖い。幅が狭いからだろうか。下手な倒れ方をすれば手すりから下に落ちるかもしれないという緊張感からだろうか。風に揺れればかなりスリルを楽しめるだろう。
 遊歩道もついでに歩く。晩秋だからか渓流は涸れて、湿気はほとんどないために、快適な散策になった。深い山と渓谷であるのにもかかわらず、そこは宮崎なのか紅葉はまだだった(照葉樹林といっても落葉樹も少しある)。
 6月に飫肥に行き今回は綾と、宮崎の三大優良観光地(残るは高千穂峡)の二つを訪れた今年は何かと宮崎に縁のあった年ということになるだろうか。

照葉大吊橋

照葉大吊橋の上から

照葉樹林の遊歩道

綾城

 

2005年11月13日

 9日に久しぶりに旧友ウルリヒ・ヨヒムセンと再会した。98年にウィンドファームの招待で来日して以来7年ぶりである。今回は東京の市民エネルギー研究所の招待である。当日は福岡市で協会の談話会という形式をとり、自然エネルギーにかかわる仲間たちが集まり、喫茶店やレストランで熱い議論や楽しい会話に花を咲かせた。

左端がウルリヒ、中央筆者

 ウルリヒとは橋爪さんを通して90年に初めて知り合ったが、その後のデンマークとの交流はしばらくは彼のところをベースキャンプにしたので、けっこう長くて深いつきあいである。年は彼がそうとうに上だが(20歳離れている)そこはドイツ人なので日本的な上下関係はなく、対等な関係だ。

 2000年に入ってから体調を悪くしたという情報も聞いていたので、心配もしていたが、ほとんど変わっておらず、元気そうで安心した。

 自然エネルギー(再生可能エネルギー)関係の分野は最近とんとご無沙汰で疎くなってしまったが、集まったみんなの心意気に大いに刺激を受けた日だった。

 ウルリヒに会ったからというわけではないが、久しぶりに近所の森を歩いた。ドイツでは住んでいた寮の前がシュタットヴァルト(市民の森)だったので、よく歩いていた。幸い今の住まいもすぐ近くが市民の「ふれあいの森」であり、子どもが小さい頃はよく連れて歩いたものだ。

森の小径

 ここは紅葉はまだであるが、すでに北国では冬に入っているのだろう。秋の長いのは九州のよさかもしれない。

 

2005年11月3日

 少しずつ秋が深まっている。
 スクーターで行動の範囲が拡がったので、あちこち出歩き、お気に入りの海辺に行って散歩をしている。宗像には九州でも有数で、福岡県一の漁港である鐘崎があり(民俗学的には日本海の海女の発祥地で有名)、対馬育ちで漁師の息子である私には潮の香り、係留された漁船、家のぎっしりつまった並び方、魚を干すにおいなど、故郷を感じさせてくれる場所だ。

鐘崎漁港

 ここの近くのさつき松原(いつも泳ぎにいく海)を秋に歩くと夏とは違ったよさがあって、とても気持ちがよい。第一照りつける夏の日差しの厳しさがないのは大きい。柔らかな陽光のもとで、緑の陰の濃い松原を歩き、潮騒を聞くなんて、秋の海の醍醐味だ。秋に行くことは前はあまりなかったので、これは行動範囲が拡がった恩恵の一つだ。

さつき松原

スクーターで行く松並木の道

 そうこうするうちに、先月の23日は父の七回忌で対馬に帰り、兄弟で法事をすませた。そこでも久しぶりに対馬の海、美しいリアス式海岸の浅茅湾の一角にたたずんだが、やはり鐘崎の海よりも美しい。鐘崎の海もすばらしい景観を誇るとはいえ、複雑な入り江の浅茅湾にはかなわないと感じた。

対馬浅茅湾内竹敷の海

 しかしさつき松原や鐘崎がいい場所であることはたしかで、その後も休日には散歩に出向いているのである。そこにはいろいろな発見がある。
 今日は途中に妙見窯という陶房があったので、寄ってみた。趣味で始めた陶芸がいろいろな賞をとる中で、ついにプロになって山のふもとに窯を開いた人だということだ。萩焼に近い意匠をしていた。民陶好きな私にはさほど好みのものはなかったが、ご飯茶碗を一つ買って帰った。

 お気に入りの海と松林を歩き、陶器を見て、秋の気配満開の山道をスクーターで戻る。今日もいい休日だった。

 

2005年10月15日

 8日に「オランダの光」という記録映画を見てきた。オランダ(というか北西ドイツ、オランダ、ベルギー)に行くたびに、あるいはかつてドイツのエッセンやオランダのファールス(オランダのリンブルグ県)に住んでいたときに、この空を画家たちは描いたのだなと思うことがしばしばあった。日本の空とは明らかに色や光の具合が違うのである。

 そういう謎を解き明かしてくれる映画かなと思って期待して見に行ったが、基本モチーフはエイセル湖の干拓により、オランダの画家たちが描いた空がもうなくなってしまったというドイツの美術評論家の言葉を正しいかどうか検証するもので、どちらかというと科学ドキュメンタリー的なものだった。それはそれで楽しめたが、やはりオランダのあの空と画家たちの描いた絵との深い関係に切り込むものではなかった。映画中に出てくる絵画の多くを実際に見たことがあり、また訪ねたような気分になれたのは楽しかった。

 ところで、今日は午後の散歩は宗像大社まで行ってきた。いつもは家の近くだが、スクーターを得てからは少し遠出ができるので、緑濃い大社まででかけたのである。対馬の漁師の育ちで、神社と縁のある生活だったので、神社に来るとほんとうにホッとする。閑静な木漏れ日の中をゆっくり歩くのは実にぜいたくな気分である。神群宗像と称される地に住むよさを満喫している。

 

宗像大社

高宮に向かう参道

本殿前にある池

 

2005年10月9日

 スクーターを購入した。最近、車にほとんど乗ることがなくなり、バスや自転車を使うことが多いが、それでも自転車では行けないような遠出の場合もある。そういうときにちょうどよいというわけだ。おまけに風がさわやかな季節を迎えた。

購入したスクーター(モペット)

 そこでこのスクーターで今日は久々に近隣にある鎮国寺に行ってみた。去年は寄っていないように思う。子どもが小さい頃は週に一度はここに来て、奥の院のある山の参拝道を歩いたものだ。思い出してその道をまた歩いてみる。

鎮国寺

奥の院

コスモスの花


 今年は残暑が厳しくてなかなか秋の気配を感じることがなかったが、ここに来ると、日の光の落ち方、コスモスの花など、それなりに秋の訪れを実感できる。これからの二ヶ月近くは秋の風を切って心地よい景色を走ってみる楽しみができた。

2005年9月27日

 23日と24日は、福岡古楽音楽祭のコンサートに行ってきた。23日はハウベのリコーダー・コンサート、24日はバルトルド・クイケンのフルート・コンサートである。24日にはクイケン兄弟の長男であるヴィーラントもガンバやチェロで参加するので、たいへん楽しみにしていた。

 古楽の世界でクイケン兄弟といえば、チェンバロのレオンハルトと並ぶ世界の最高峰の奏者であり、古楽復興の歴史をつくってきた人である。そういう人たちの演奏を割安でしかもすぐ目の前で聴けるという幸運を充分に味わってきた。しかも、23日のコンサートの休憩時間にロビーを歩いているバルトルドを見たので、さっそく話しかけてサインももらってきた。直前に関係者と「グーテン・アーベント」とドイツ語で話していたようなので、ドイツ語で語りかけた。まぁフラマン語を話す人ならたいがいは話せる言葉だ。

バルトルト・クイケンのサイン(左上)

 去年も同様にピノックと話したし、福岡古楽音楽祭のいいところはこういう飾らない出会いがあることだ。手づくりでアットホームな感じがよい。福岡だと古楽ファンも多くはないので、バルトルドが歩いていても誰かわからず(わかった人もいるが)、ファンが群がるということもない。

 だがコンサートではそういうアットホームな雰囲気が裏目に出ることがあるのではないかという気がした。去年もそういう印象を得たのである。演奏者も仲間うちが多く、気心しれたメンバーだ。だからリラックスして演奏しているのだが、その分ぶっつけ本番的というか、入念な音合わせ、練習をしてきて臨むということがないのではないかと思う。世界の超一流でスケジュールの調整もたいへんということももちろんあるだろう。そのせいか、コンサートはあまり感動するような熱演、入魂の演奏というものがないように思えた。ユトレヒトの古楽祭で、すごいチェロの演奏を聴いただけに、それとはだいぶ差があった。

 来年には、すごいものを聴いた、すごい場面に居合わせたというような演奏に会いたいものだと思う。

 

2005年9月19日

 旧聞の話になるが、さる7月30日の夜に、北九州市の地域FM 放送
「北九州シティFM」に出演した。これは小倉北区だけを聴取範囲とする地域コミュニティ放送と呼ばれるものである。近年、街づくりの一貫として各地で会社組織やNPOなどの形態で試みがなされている。

 出た番組は「ガイアの風」と呼ばれる環境をテーマにした番組である。役員もかねる吉岡さんがナビゲーターもして、地球環境にかかわる動きを紹介したり、活動団体の人間をゲストとして招いて、インタビューをしている。前に吉岡さんたちにホイスコーレの話を座談会でしたことがあり、それが縁で今回呼ばれたわけだ。

 これまでもラジオに何回か出た経験があり、福岡の九州朝日放送(KBC) のラジオ番組では、半年間レギュラーコメンテーターもしたことがあるので、緊張もせずあれこれと語ったが、最近は画像や音楽のあるプレゼンテーションをすることが多いので、映像もなく言葉だけですべて説明するのは少しむずかしかった。どこまでわかってもらえるのかが見えないからである。もう一人のナビゲーターである女性のアナウンサーの反応が聴取者の反応に近いと思われるが、やはりデンマークのホイスコーレや教育の話はピンと来ないようであり、別世界の話に聞こえていると思われた。

 番組自体の出来はともかくとして、こうした地域FM 放送も、有志が集まって、市民運動的に出資企業を募り、きちんと運営している。見えないところで自立した市民の活動の成果を知り、それがうれしくもあり、またたのもしくも映った。

 

2005年9月3日

 8月22日から30日まで協会のデンマークへのスタディツアーをし、31日と9月1日は、オランダのユトレヒトで休暇を取って、当地の古楽祭を楽しんできた。

 デンマークもオランダも天気に恵まれ、晴れ男の面目躍如だった。デンマークでは、出会う人にも快い歓迎を受けたのはもちろんだが、一人旅でとくに知人もいないユトレヒトでも、店やバス停、あるいはコンサートで出会う人と小さな交流もあり、それが心地よかった。何だかここでも今すぐ友人でもできそうな感じだった。もうこちらに来ても全然違和感がないというか、ご当地風がすっかり身体にしみこんだのかもしれない。

夜のユトレヒト

運河脇のレストラン、ここでバルカン料理を食べた

 コンサートは1日のフライブルガー・バロックオーケストラとジャンーギアン・ケラスというチェリストによるものだったが、ハイドンのチェロ協奏曲が素晴らしく、ジャンーギアン・ケラスの神業にはスタンディング・オーべーションの嵐。たしかにこれはすごいものを聴いたと実感できるものだった。昼間はニコラス教会で、トン・コープマンと彼の手兵アムステルダム・バロックコーラスのメンバーによるオルガンとコラールの演奏があり、トン・コープマンの姿を見ることができた。トイレを探しに関係者の部屋に入って尋ねると快く案内してくれたが、あとでその人たちが演奏者だとわかって、その気さくさも印象に残った。

コンサート会場

 最後の日には時間があったので、アムステルダムの国立博物館に寄り、フェルメールとレンブラントの絵に再会。今回はしっかり写真も撮ってきた。しかし、改修中らしくあの圧倒的な作品の展示ではなく、有名なものの抜粋展示だったのがやや残念だった。

フェルメールの「手紙を読む女」

フェルメールの「牛乳を注ぐ女」

レンブラントの「夜警」

ユトレヒトのフォトアルバム

2005年8月7日

 恒例の夏の行事だが、4日にさつき松原に息子と泳ぎに行ってきた。車で15分程度なので、いつでもいける距離だが、土日はさすがに多いので平日に行くことにしている。そうすると仕事などとのかねあいもあり、行ける日も限られてくる。またここに行くときは澄んだ晴れた日でないとその絶景の良さが映えない。雲の多い日やかすんだ日はすばらしい海の青と空の青が楽しめないのである。そういう意味では4日はちょうどいい天気だった。

 いつもすることだが、泳ぎ疲れたら、仰向けになって浮かび、広大な空と海に包まれていることの何ともいえない安堵感を味わう。この幸福感は何ものにも換えがたい。自分が海に育った人間であることを実感するひとときでもある。

 

2005年7月19日

 
 18日に北九州市の門司で、タイの「夢を織る家」のナートと兵庫の高砂市の「グローバル・ビジョン・スクール」の児島さんを招いた会合があったので、寄ってみた。「夢を織る家」のナートについては、協会のHPに書き、日記のこのページに触れているが、2004年の1月に彼らのところにいって以来の再会である。ナートも児島さんも尊敬すべき友人であるので、二人が来るならぜがひでもということで会いにいったのである。

ナートと私と児島さん(左から)

 予想通り気持ちのいい再会で、話も弾み、日頃仕事などに追われ世俗にまみれている身としては、改めて自分を見直すいい機会となった。

 ナートをあらわす言葉として「森の聖者」というキャッチコピーを、彼らを取材した名古屋の製作プロダクションが使っていたが、いくら何でも大げさだろうと思っていた。しかし、この日の彼の報告を聞いて、その形容があたっていたことを知った。

 両親がエイズで亡くなり、生まれて来た赤ちゃんもエイズに感染していた赤ん坊がいた。体中すでに腫瘍などが広がり、医師が助からないだろうと判断して、病院からナートの施設に移したそうである。彼は医療者の誰もが抱くのをいやがった赤ちゃんを抱きしめ、家に連れて帰った。あまり長くはもたないだろうと思われていた赤ちゃんは彼のもとですくすくと育ち、何かの奇跡か、HIVウィルスもなくなって、今は9歳の少年となり、学校にも通っているそうである。実は私も2003年と2004年にこの少年に会っているはずだが、この話を知らなかったので、そのときはどの子か特定できなかった。

 たんなる偶然かもしれないが、愛情は奇跡をも産むのだろう。おのれの愛情の不足を痛感させられた一日だったが、彼に会えて感謝の日でもあった。

 

2005年7月10日

 6月26日に家族で映画を見に行った。「エレニの旅」が見たかったが、これはあまり家族向きではないだろう。私自身とくに映画ファンでもないので、いかにも映画らしい特撮の歴史スペクタクルものである「キングダム・オブ・ヘブン」を見た。まぁ、優れた映画というほどではないが、エンターテインメントとして楽しんできた。

 十字軍には昔から関心があって、歴史の本などを読んだこともある。しかし、さっぱりわからないことも多い。今回の映画もまたボードワン4世の統治の時代を描いており、昔やったゲームの「クルセード」とまったく同じ時期だった。このゲームはフランスのもので、歴史の詳しい内容がゲームの謎解きになっており、映画のような画面に、その当時熱中してしたことがある。たかがゲームとはバカにできないすぐれたもので、これで十字軍の時代、背景、登場人物などを学び、今回の映画もその知識がだいぶ役に立った。おかげで映画が楽しめたのだが、多くの日本人には疎い世界であるので、この映画があまりはやらなかったのも、そのせいだろう。

 この時代を少しかじると、イスラム世界の豊かさに改めて感心するし、キリスト教世界との因縁が少しわかる気がする。日本人や中国人などよりも、彼らは文化的にお互いかなり近いのだ。

 パレスチナ人、アラブ人の知己を多くもつ私にとって、映画に描かれるアラブ人や英雄サラディンの姿などは、すごい親近感をもつ。アラブ人の俳優を使っているので、英語の発音などが実にアラブ的なのだ。

 そういえば、ゲームの「クルセード」もアラブの立場から、哀れなフランスの小領主アルトーが十字軍の悪の陰謀に巻き込まれ、利用される経過を描いたものだが、フランスで製作されたというところに、ゲームの制作者の思想を感じることができる。

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