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2012年12月31日

門司港(三井倶楽部)

 12月は9日まで忙しかった。予備校のレギュラーの授業が8日で終わったが、最後は何かと忙しく、全然余裕がなかった。
 9日は、ピースボート主催の脱原発キャンドル・デモに行く。ピースボートだけの企画なら出ないのだが、テント村も共催なので、つきあいで参加した。スウェーデンの有名なキャンドルの容器、コスタボーダをもっていった。しかし、先頭に並べといわれ、去年の福島原発の事故以来、有名になった後藤政志さんの隣りで垂れ幕を握ることになった。そのため、せっかくのコスタボーダをもてなかったが、最後、九電前でみんなのキャンドルを集めて文字を書いたときに置いたので、面目は保てたかもしれない。かなり寒い日で、後藤さんら東京の人たちは福岡の寒さをあまり知らなかったようで、薄着で気の毒だった。

脱原発キャンドル・デモ

キャンドルで「Good bye Nukes」

 15日は、来年3月のチューラ・フランクの会合の準備会と協会の忘年会を兼ねて、ウィンドファームが経営する「Terra小屋」に集まる。チューラはデンマークの著名国会議員で、独立老人ホーム「ロッテ」の創始者である。協会会員のHさんは今年の4月から福岡に来ているので、その遅い歓迎会も兼ねた。Terra小屋の料理も酒もデザートもすばらしく、会員のSさんは「こんなすてきなところがあったなんて」と喜んでいた。

 Sさんの紹介で、福岡市の有名な高齢者施設二ヶ所宅老所「よりあい」と「めおといわ・ゆい」に連絡を取る。電話の対応も親切で、高齢者のケアをしている人たちの暖かみを知る思いがした。ちょうど同じ頃、新聞には、マンションの中に徘徊老人を押し込めているという介護保険制度を悪用した悪質民間業者の記事があった。宅老所「よりあい」も「めおといわ・ゆい」も日本の高齢者福祉が誇る良心的な施設である。しかし、こういう場所に入ることのできる人は限られており、知らなければ、ひどい扱いを受ける可能性もある。わが国の高齢者福祉を勉強せねばという気持ちになる。

 23日は毎年恒例の九響の第九コンサートに妻と行く。今年は大友直人氏の指揮である。去年と一昨年は名演だったが、今年は第一楽章と第二楽章はいつもの九響に戻って、今ひとつだった。しかし、第三楽章からは盛り上がり、合唱も例年通り感動的だった。これで安心して年越しができる。

九響第九のカーテンコール

 27日は講習会の帰りに門司港まで行き、イルミネーションの街を歩く。小倉のイルミネーションも例年通り美しいが、規模は小さくとも門司港のイルミネーションの方が趣があってよい。これはひとえに街並みの魅力である。年末でやや寒いこともあって、人通りもほとんどない。実にぜいたくな気分での散策だった。

小倉のイルミネーション

門司港のイルミネーション

 さて、今日31日は大晦日である。2012年は私にとってどういう一年であったのだろうか。あまり去年と変わらぬ気もするが、3月にドイツとデンマークに行けたのはよいことだったろう。そこででチューラと知り合ったおかげでわざわざ福岡まで来るのだから。あと、博士論文が九大出版会の公募で一位になり、来年夏に出版されるというのもいいニュースだった。マイアーの『シュミットの教説』の邦訳を共訳者になる中道先生(北九大法学部教授)の尽力で、風行社が引き受けてくれたというのも喜ぶべきことかもしれない。拙著『生のための学校』の韓国語訳が出ることもよい知らせの一つだった。9月にグルントヴィ協会の活動を再開したことも日々の充実につながっている。8月の被災地行きも併せて、多くの人たちの助けがあって、自分の行動が可能になったことを改めて感謝したい。そういう意味では、よい一年であったのではないかという気がする。

 

2012年11月27日

長府の紅葉

 11月は休みが比較的ある月なのだが、なぜかせわしく過ぎてしまった。2日の九電前のテント村には、知人の鍬野さんらの企画した日韓脱原発ウォークの人たちが来たので、会いにいった。拙著『生のための学校』の韓国語訳が出る話をすると関心を示していた。日韓友好に少しでも役立てれば幸甚である。

韓国からのゲストたち

 10日は、地元宗像のカフェ「暖(ヌアン)」で、原発講話を頼まれた。もともとはデンマークの「エネルギー自立」の話をしてほしいという依頼だったが、今のデンマークのエネルギー政策に少し疑問もあるので、その話は三分の一にして、あとは原発がいかに地域を分断するかを、学生時代の川内原発反対闘争の画像などを使って説明した。10人ほどの集まりで、地元宗像の市民運動をする人たちもいた。彼らがもっといろいろ聞きたいことがあるという。今後はいろいろ展開できそうだ。

 11日は、「さよなら・原発!福岡集会とデモ」に出る。今回もマイクをもたされ、デモ指揮をさせられた。予備校の同僚や畏友中村隆市さんらも参加した。彼らも先頭に来て、なかなかいい感じで終えることができた。

11.11「さよなら原発!福岡集会」

 

ori2051さんの動画(デモの最初に写っています)

 20日は大学の授業の帰りに、妻と待ち合わせて、九博の「ベルリン国立美術館展」にいった。ベルリン国立美術館には90年に行ったことがあるが、そのときに見た絵はほとんどなく、彫刻とデッサンが主だった。たしかにフェルメールの「真珠の首飾りの女」で人を集めてはいるが、ちと詐欺ではないかという気もした。しかし、皮肉にも、ベルリン国立美術館ではじっくり見ることもなかった彫刻とデッサン、とくにリーメンシュナイダーを見ることができたのはよかったかもしれない。

 22日は、九響の定期演奏会に行く。ブラームスの交響曲1番なので、これは聞き逃せない。九響は9月に2番を宮本文昭氏の指揮で聴いてがっかりものだったために、少し危ぶんでいたが、今回はそこそこよい演奏で満足できた。完成度は4番だとしても、心に響くのはやっぱり1番である。

カーテンコール時の九響

コンサート帰りの博多駅前

 25日は毎年恒例の下関長府行きで、妻と紅葉を楽しんだ。今回は市立美術館で「ポール・デルヴォー展」が開催中だったので、よけいに行く必要があった。

 長府庭園、覚苑寺、功山寺と紅葉を楽しむ。最後の功山寺ではご本尊の秘仏開帳をやっていた。地元の政治家安倍晋三似のボランティア・ガイドのおじさんがついて案内をしてくれた。もとは北九州市の人だが、長府が気に入って退職後移り住んだと語る。私も前に書いたように、ここに別荘でももてるような身分なら、たしかに春秋などは滞在したくなる街であることはたしかである。

長府庭園

覚苑寺

功山寺山門

長府武家屋敷街

 去年、洋食屋で食べた薄焼きハンバーグがとても美味だったので、その店を探した。そしたら薄焼きハンバーグはたまたまランチだったために薄焼きにしたようで、今回は厚いハンバーグしかなかった。うまかったのはここがちゃんとしたレストランだったからだと気がついた。質のよい素材を使い、ていねいにつくってある。値段もその分張るが、福岡市のレストランほどではない。

 最後に「ポール・デルヴォー展」に行く。この人の描く女性像はあまり好きではないのに、なぜか絵自体には惹かれる。無意識レベルの懐かしい何かを彼は表現しているのかもしれない。

 27日には太宰府での大学の授業の帰りに、これまた例年通り光明寺に寄る。紅葉もすでに終わりで、ほとんどは散ってしまっていた。これで秋も最後である。

光明寺

 

2012年10月30日

鎮国寺の柿

 10月は10日前後に軽い風邪を引き、それが長引いて体調がいまいちの日々が続いた。何をするにも元気が出ずに、毎日の仕事や課題をこなすだけで精一杯になる。年齢を重ねると昔のように回復も早くはない。他にもいろいろと老化を感じることが多かった。57歳の今、身体が節目を迎えているのだろう。

 今年の10月は初めの半月はとてもよい天気が続いた。しかし、休みはあまりないので、せっかくの好天にどこかに出かけるということもない。せいぜい日曜日に海や山の散策を楽しむだけだった。

鐘崎港の漁船

 14日には、小倉の旧モスクワ響のコンサートに行った。これは北九州国際音楽祭の開会をも兼ねている。去年のベルリン響がいまひとつだったので、あまり期待もせずに出かけたが、これがすばらしい演奏で、今年のベスト・コンサートといっていい内容だった。指揮者のフェドセーエフは80歳になるということだが、見かけも動きも若々しく、まったく年齢を感じさせなかった。小山実稚恵さんによるラフマニノフのピアノ協奏曲3番もとてもよい演奏で、3番が弾ける数少ない日本人ピアニストの面目躍如だった。

旧モスクワ響のコンサート(カーテン・コール)

 最近はなぜかチャイコフスキーの曲を聴くことが多く、琴線に触れるのだ。散歩のときには交響曲の5番が定番になっている。来年二月の日フィルの九州公演では、ラザレフによる5番が福岡市でのプログラムになっており、これを聴くのが楽しみだ。

 27日には長崎へ行き、ナートさんと5年ぶりの再会を喜ぶ。彼は現在、クリスタル・ボウルのヒーリング・コンサートを日本で行うことが多い。もちろん、タイでの孤児たちのケアも続けているが、今は、大きくなった子どもたちや地域の人々の雇用の確保のために、カフェや染め物衣料の製作と販売などのソーシャル・ビジネスも手がけている。タイや日本の大学などで、社会企業家としての講演も多いということだ。毎年、1〜2回は日本に招待されて、クリスタル・ボウルのコンサートなどを行っているが、関西や東京などが主で、なかなか会えなかった。今回は幸い、長崎にも来るというので足を運んだ。しかし、会えなくとも彼とは「ソウル・ブラザー」なので、久しぶりという感じはない。

ナート(右から二番目)とスタッフのみなさん、中央が私

 クリスタル・ボウルのヒーリングなどには懐疑的だが、体験してみると、グレゴリオ聖歌やエンヤの歌にも近い。何よりも、コペンハーゲンのヴァートフのゲストルームに滞在したときに毎日聞こえた教会の鐘の響きを思い出させた。多くの人の心が癒されるというのもわかる気がする。最後に平和公園に行き、平和祈念像の前で鎮魂の祈りを行う。これが一番心に残った。平和と犠牲者の鎮魂を祈るナートの気持ちと清澄な音色が被爆犠牲者にも通じたと思う。

平和祈念像前で鎮魂の祈り

クリスタル・ボウルを鳴らす

 

2012年10月7日

 9月もまたすぎ、10月になった。今年の9月初めはすごく涼しく秋の深まりが早いなと思わせた。しかし、その後は残暑が戻った。とはいえ、さすがに盛夏とは違い、朝夕はさわやかな気候だった。

 7日と13日は、九響のコンサートに行く。7日は「天神でクラシック」で会員になっているものだ。残暑を見越して「北欧への旅」と銘打ち、シベリウスとグリークの演目だ。

 仕事の関係で後半の「ペール・ギュント」組曲しか聴けなかった。ストーリーを声優が朗読し、歌をソプラノ歌手が歌うというユニークな試みでクラシックを聴かない人にも興味がもてるようにしていた。声優の男性は女性も老婆も声色を使い分けていた。主人公のペール・ギュントの言葉が江戸っ子なまりになっており、どうしても落語にしか聞こえなかったのが欠点か。

九響北九州定演

 ここで13日の北九州の定演を知り、これにも行ってみた。ショパンのピアノ協奏曲1番が聴きたかったせいもある。まだ高校生のソリストは見た目の割りにはテンポのゆっくりとした巨匠的な弾き方で、もう少しはじける若さがほしかった気もする。メインのブラームスの交響曲2番は今ひとつだった。本来牧歌的でもっと伸びやかな音のはずなのに、そういうふうに聞こえてこない。帰ってからCDを聴き直すと全然雰囲気が違う。九響の技術の問題もあるし、指揮者の宮本氏の技量もあるだろう。

 23日は「原発いらない・福岡集会」に出る。協会の会員も5名ほど参加していた。知人、友人に話しかけられて、集会の話をほとんど聞けなかった。集会自体は子どもたちのアトラクションや演劇集団による野田首相のパフォーマンスなど、よく工夫されていた。デモに出るとき、今回はハンドマイクでの指揮を主催者の青柳さんから頼まれる。若い人が足りないので私にということだったが、天神の大丸前に来るとその理由がわかった。学生時代以来30数年ぶりのデモ指揮で若返った気がした。

さよなら原発・福岡集会

子どもたちのアトラクション

デモの先頭

最初の場面のハンドマイクが私(RioAkiyamaさんの動画)

 月末には九大出版会から電話があり、出版社に行くことになった。5月に応募していた学術図書出版助成に選ばれたのだという。かなり高い評価をもらい、イチ押しだったそうだ。科研費の出版助成も応募したが、これはろくに読んだ形跡がなく、知人の編集者のいったようにあっさりと落とされた。しかし、九大出版会では専門家二人が丁寧に読み込んで、よい評価の査読報告書がつけられていた。内容にはある程度の自信があったので、自分の思い込みでないことが証明された思いだ。

 今頃は学術図書は企画として出してもらうのは無理で、各種助成金や自費出版が主である。この本は自分の哲学研究の現段階での集大成になるので、できれば出版したいと思っていたが、自費出版では150万円以上もかかる。とても捻出できない金額なので、今回の助成に採用されたのはありがたかった。これでお世話になった人たちに成果を示すことができる。刊行は13年夏頃ではないか。

 9月中頃にはグルントヴィ協会の活動を再開した。通信を送るとあちこちから再開を喜ぶ声や連絡がある。期待を感じてうれしい気持ちになる。10月4日の今日は、「村田久さんを偲ぶ会」に出た。市民運動家として北九州ではよく知られ、全国にもたくさん知己のいた村田さんだけに、150人もの人が参加して、故人の思い出話にふける。

「村田久さんを偲ぶ会」

 晩年はご無沙汰していたのに、会場に来るとなぜか思い出を語る数人に選ばれており、準備もなくとりあえず思いついたことを語った。村田さんと一番会っていたのは、私が福岡市に来てからの院生時代で、毎月のミニコミ印刷を手伝ったことである。九州住民闘争合宿運動という住民運動ネットワークの機関紙を村田夫妻が引き受けて、二人だけでやっているという話を聞き、それではたいへんだろうと妻と二人で博多から黒崎まで出かけて手伝った。

 彼の紹介で、ウィンドファームの中村隆市さんと知り合うなど、「絆をつくる人」という誰かの形容にぴったりの人だった。年齢を重ねるにつれて、私によい影響を与えてくれた人たちが徐々に鬼籍に入っていくのは仕方ないことだが、寂しいことでもある。

 知人、友人も多く来ており、挨拶や交流に忙しい。とくに、花崎皐平さんに久々会えたのがうれしかった。30年ぶりか。哲学を学ぶ中で一番よりどころとなったのが花崎さんの生き方である。時折は手紙のやりとりや献本をしてはいたが、それも住所がお互い変わることでしばらく中断していた。ご無沙汰をお詫びし、気持ちのよい談笑の時間をもてた。これも村田さんのおかげだろうか。

 ともあれ、この一ヶ月、これまで縁のあった人たちとの交流が形になってありがたい思いをした時期だったように思う。何にも勝る財産であり、喜びである。

 

2012年9月4日

猿ヶ石川(花巻市)

 あっというまに9月になった。もう今年もあと4ヶ月しかない。月日の経つのは早いものだ。ようやく朝夕が涼しくなり、少しは過ごしやすくなった。

 8月は前半はあまり仕事がなく、自由な時間ができた。今年は6,7月が何かといろいろな書類書きできつかったので、リラックスの時間に充てた。何も制約がないという日が続くと9月からの仕事に耐える精神の余裕ができる。ヨーロッパの人たちが夏の一ヶ月のヴァケーションにやたらとこだわるのも、それが理由だ。この時間は交友と論文書きに使った。

 4日には、ウィンドファームを訪れて、久しぶりに中村隆一さんと会い、またスタッフのみんなにアラビア式コーヒーをふるまった。ドイツの親友アミンにもらったアラビア・コーヒー豆とコーヒー鍋をもっていき、煮出しコーヒーをつくる。

 このスタイルは中東ではおなじみで、日本ではトルコ・コーヒーとよばれたりもする。また政治的には対立しているイスラエルのユダヤ人たちもこのコーヒーを飲む。ここでつながればよいのに、と思う。

 このとき、中村さんから14日に津屋崎で彼の仲間の東京からの避難者家族のキャンプがあるから来ないかとさそわれて、いってみる。東京や福岡の子どもづれ家族で、原発に反対する活動やセミナーをしている。鹿児島県知事選の向原さんの応援や山口県知事選の飯田さんの応援にもかけつけたそうだ。元気だ。

 4日に中村さんに会ったとき、水巻の村田さんが末期ガンと知らされたが、14日には亡くなったと聞かされた。偲ぶ会はあるそうなので、それにいくことにする。村田さんは、彼が九州住民合宿運動の事務局をしたときに手伝ったつき合いがあった。最近はずいぶんとごぶさたしていたが、急な死で驚くばかりだった。

 フィヒテの博士論文で指導教官になっていただいた北九大の中道先生が来年で定年ということで、退職記念紀要論文の寄稿を頼まれた。中道先生はカール・シュミットの権威の一人である。指導していただく中で、自発的にシュミットも読み始め、今回の論文を書くまでになった。

 シュミットは60年終わりから70年代に一時期ブームとなったが、その後すたれた。しかし、フランスで90年代に再評価され、左翼シュミット主義が生まれ、またイタリアのアガンベンも彼をよく採りあげるため、例によって日本でもフランス経由で輸入されている。そういう動きとはまったく別個に、ドイツの社会思想史(カント、フィヒテ、ヘーゲル、マルクス)に置いてみるとたいへんに興味深い。その文脈でいろいろ調べ、論文を書いていった8月の前半は、なかなかに充実していた勉学の日々だった。

 16日は家族で好例の誕生会をする。5日が私の誕生日で57歳になったからだ。20日と22日にはFacebookで連絡をとってきた元教え子と食事会をする。20日は去年の生徒で現役大学生。22日は昔の生徒で今はもう40代半ばで、テレビ局の幹部社員にまでなっている。ずいぶんと対照的な組み合わせになったが、これもまた一興だろう。

 受験勉強を教えるのは嫌なので、こんなに長く予備校の仕事を続けるとは思っていなかった。昔はある意味自由な授業ができたから、まだましだったが、最近の点数至上主義、上昇志向、権威志向には閉口する。生徒のみならず、講師もそうである。経営者にすり寄る姿勢、人気があるとすぐに自分がえらいと勘違いする思い違いなどひどいものだ。この教え子二人は受験勉強ではないほんとうの勉強を理解してくれたので、連絡をくれた人たちだったのではないか。

 27日から31日は東北の岩手にいって来た。最初の三日は、大船渡に滞在して、高田高校の生徒たちにボランティアのワークショップをするという企画だった。これは予備校の同僚のKさんが主宰者で去年からやっているものだ。

津波で破壊された高田高校校舎

 今回行かないかと誘われ、内容が受験指導ではなく、得意なワークショップ形式だったので、参加してみた。他に講師が6人、出版社の人たちが7人参加した。私はもちろん、デンマークの「イドラット・フォルスク」と「トロプス」である。40人の生徒さんが体育館に集まり、3時間楽しんだ。

代表的なイドラット・フォルスク「ねずみと猫」

現在の高田高校、大船渡市にあり、
旧大船渡農業高校の校舎を使っている

 感想を書かせてみると「最近は思いっきりはしゃぐことも少なくなっていた」とか「高校に入って、みんなで体を動かすことがなかった」と書いてある。震災後、快活になる機会が乏しく、重い気持ちで生活していたのではないかと推測されるような文言だ。そんな彼女ら、彼らもこのワークですっかり気分を解放し「とても楽しかった」と続けていた。彼女ら、彼らに心からの楽しい時間を与えることができたならば、それだけで成功といえる。

 このワークの前後に、陸前高田、大船渡、気仙沼、釜石の被災状況をみんなで見学した。鉄筋ビルの多い気仙沼、釜石は被害を受けた階を修復し、すでに商売を始めていた。釜石造船所も船舶があって、工事をしている様子が伺えた。被害の爪痕がたくさん残っていても、人間が働き、生活している姿があると安心できるし、励まされる。

気仙沼の陸に上がった船

手前の民家は被害を受けて基礎だけになっている

釜石港

 しかし、陸前高田市は市街地が壊滅して、そのまま復旧はできず、高台移転や土地のかさ上げが必要なので、時間がかかる。山に近い奥部の道路脇にブレハブやコンテナの仮の商店はできているが、全然町らしくはない。まだまだ時間がかかり、長い困難の道が待っていることがよくわかった。

陸前高田市の被災後

体育館か市民会館と思われる建物

「奇跡の一本松」

 瓦礫を片づけて被災時そのままではないにせよ、やはり自分の眼で見て初めてその悲惨さがわかる。報道ではなかなか実感が伝わらない。被災後にボランティアで行きたい思いはたくさんあった。しかし、最近は懐具合が厳しく、遠方への旅がむずかしくなっている。今回は幸い旅費、宿泊費が出るというので、自分でも参加できた。たいしたこともしていないが、現地を見ることができただけでも、ためになった。

 その後は遠野に寄り、カッパ淵や伝承園をみんなで訪れた。みなとはここで別れ、一人遠野に宿泊する。小さな地元の旅館で、宿泊客は合宿型の自動車学校の学生でみな若い女性ばかりだった。岩手県内、あるいは首都圏から遠野の自動車学校に免許を取りに来ているらしい。食堂でいっしょになったが、挨拶もしてくれるし、感じのよい娘さんたちだった。旅館の食事もすごい量で食べきれないほどだった。残すのも悪いので、無理して食べるとここだけで2キロ近く太ったようだ。

遠野のカッパ淵

伝承園の曲り屋

オシラ様

工芸館で土産物をつくるおばあちゃんたち

遠野の街並み

むかし話村にある柳田国男らが宿泊した部屋

 翌朝は遠野の一部を観光して、北上へと向かう。遠野の町は落ち着いたつくりで、露骨な観光化は感じさせず、九州のひなびた城下町、大分の杵築、宮崎の飫肥にも似ていた。若い頃、民俗学を独学で学び、旧版の柳田国男集などを買い込んで、あれこれ読んだものだ。遠野にはそこまでの憧れはなかったが、一度は寄ってみたいと思っていた。『遠野物語』のせいで、牧歌的な農村部というイメージが先行するが、実は交通の要所で文化も高い城下町だったことを知った。遠野から北上へ向かう列車の車窓から見える農村風景がすてきだった。

 北上では協会会員のI さん、Kさん、そしてI さんの友人の方と私の4人で I さんのお店(喫茶店)で談話会を行う。I さんとは 9年ぶりに会う。2003年に田沢湖ホイスコーレをしたとき以来だ。K さんは今回初めて会うが、多彩な活動をしていて、その話を聞けた。R-DANにも加盟しており、放射能の講演で岩手県内を飛び回ることが多いそうだ。彼の話で岩手の南部の放射能汚染のひどさを知る。そのせいもあって帰りに岩手のおみやげを買うことを断念した。

北上での協会談話会

 31日は、飛行機の時間まで間があるので、花巻を見て回った。空港でレンタサイクルを借り、賢治記念館まで行く。暑い日で、坂道があって大量の汗をかいた。車でないと行けないような場所に賢治記念館があるのはどうかと思った。子どもや老人が気軽に行けないのだ。賢治が生きていたらこういう施設を毛嫌いしただろう。

 その後は近くの新渡戸記念館にも寄る。しかし、ここも先祖の展示が主で、稲造に焦点を当てたものではない。稲造は盛岡で生まれ育ったので、直接には花巻とは関係がない。この二つは2003年に花巻に来たとき、時間不足で寄れなかったから今回来てみた。しかし、来る価値があまりない場所だというのが結論だった。行政が金を使い、広告会社、企画会社が利益をえたといえるような場所だ。賢治と稲造の精神にふさわしい場所はこんなところではないだろう。上のKさんの里山生活学校などがよほど賢治と稲造の精神にかなう場所だと思う。

花巻のかかし

 今回の花巻では、自転車でずっと国道を回ったが、ごくふつうの田園風景と農家の様子、あるいは川べりの景色がよかった。自転車道があるところもあり、歩道が広い点など、快適なサイクリングができた。昔、北海道の大沼公園を自転車で回ったときを思い出した。

 

2012年7月31日

さつき松原

 夏本番の暑さである。仕事が午前までだったので、午後今年はじめて海へいってみた。爽快のひとことである。

 

2012年7月29日

西都原古墳群公園

 27日、28日は宮崎に行った。27日午後に宮崎南高校で小論文の講演があったからである。依頼は日帰りだったが、この年になると日帰りは疲れが残るので、自腹を切って宿泊し、28日は宮崎交通がやっているワンコイン・ツアー西都コースに参加した。

 宮崎はたいていの場所を訪れ、行ってないところは西都市くらいになっていた。古墳群で有名だが、北部九州も古墳のメッカでそんなにめずらしくはない。私の育った対馬でも小学校への通学路の山は大きな前方後円墳であった。だから何度か宮崎に寄っても、西都はあとまわしになっていた。しかし、なぜか予備校や大学の教え子に西都出身者が何人かいたり、九電前のテント村の常連メンバーに西都市出身の女性もいた。西都という地名が脳裏に出てくるようになり、今回の宮崎訪問は西都市にでもいってみるかと考えていたのである。

 アクセスを調べるとここは公共交通では時間がかかり、わりと不便である。しかも宮崎市内からの路線バスは価格も高い。バスの路線や時間をしらべるために宮崎交通のサイトをのぞいていたら、ワンコイン・ツアーの広告があった。見てみると何と500円で西都市まで行けるという。片道でも1000円以上し、しかも古墳群まではタクシーなどを使うことを思えば、格安である。ツアーだから自由に動けない制約はあるにせよ、安さと手軽さの魅力で応募してみた。

 今回は30人くらいの参加者だった。添乗員によれば、平均は40名くらいだという。有名ホテル前をいくつか泊まって客を乗せるので、私のようなよそものが多いのかと思っていたが、実は私以外はみな宮崎の人たちだった。それぞれ最寄りの集合地点に集まっただけのようである。

 このツアーは古事記編纂1300年記念ツアーということで、古事記にまつわる場所を訪ねるものであった。最初はイザナキ、イザナミを祭神とする江田神社、そしてその近くの「禊ぎの池」だ。ここでイザナキが黄泉の国から帰り、ミソギを池でして、アマテラスオオミカミ、ツクヨミ、スサノオを産んだといういわれの場所である。ミソギ池は手入れをしているのか、端正な池でドイツの公園にある池のようだった。

江田神社でガイドの話を聴く

ミソギ池

 その後は西都市に向かい、そこで昼食をとったあと「記紀の道」を歩いた。都萬神社から始まって、コノハナサクヤヒメとニニギノミコトがであったという水取の場所、住んだ八尋殿、子どもを産んだ室、その子を洗った池などを歩いて訪ねる。この「児湯の池」の水が透明で澄んでおり、最近ではめずらしくなったアメンボが泳ぎ、シオカラトンボが舞う。おそらく地区の人々が水草などで濁らないように手入れしているのであろう。最後は「鬼の窟(いわや)」という古墳の石室に入り、そこから前方に広がる男狭穂塚、女狭穂塚や古墳群を遙かに眺め見た。

児湯の池

鬼の窟へ

 古事記関連ツアーなので、西都の一番の売りである古墳群はちょっとだけしか見なかった。もう少しじっくりいくつかの古墳や資料館を見てみたかった気もしたが、これはツアーの目的上仕方ない。わずかな時間ではあったけれど、自分で夏の広大な台地を歩いてみた。緑陰の濃さと照りつける光の強さとのコントラストに、これが夏の醍醐味だなという気持ちよさがあった。

左の丘が男狭穂塚、右が女狭穂塚

 最後は宮崎市へ戻り、青島に行く。ここは有名な観光地で、きっと観光地特有のみやげもの屋の喧騒があるだろうからと宮崎に来てもこれまで敬遠していた。たしかに典型的な観光地の雰囲気ではあったものの、青島自体はその自然、地質、植生、神社など興味深いものがあり、さすがに観光名所になる価値があった。おのれの軽率を自戒した。

青島海岸

 ツアーには宮崎市内と西都地区双方に地元のボランティアガイドがついた。とくに宮崎市内のガイドの方は歌が好きらしく、自作のものも交えてサービスたっぷりに何度も歌を披露した。お二人とも退職後の第二の人生をガイドとして活躍をされているようで、こういう人生もいいなと思わせた。バス会社の添乗員も昔の観光バスガイドさんだった。還暦を超えた身であっても、かつてと同じく張りのあるきれいな声で案内をする。添乗員、ガイドのみなさんユーモアも豊かで、参加者一同みな大笑い。終わったときには誰もが満足げな表情をしていた。私も何度もスタディツアーを主催し、ガイドしたり、冗談をいったりという似たような経験をもつ。だからこそ、このツアーの工夫がよくわかり、成功だったと断言できる。

 それにしても、これだけのツアーが500円では、30人乗ってもわずか15,000円である。これでは燃料代や高速料金代にしかならないであろう。無料のボランティアガイドを使い、また退職者の添乗員にするなど、経費を抑える努力はしているにせよ、利益はほとんど出ないはずである。安いツアーにありがちな土産物屋や飲食店に強引に連れていくということもない。これを契機に会社がやっている他の旅行に応募してもらうという宣伝効果を狙っているのかもしれないが、よく継続できるなと思う。利益云々よりも、ボランティアガイドや添乗員などにとって生きがいのためのツアーにもなっているのがいい。

 ツアー客とは地元の方お二人と昼食が同席になり、それが縁で青島では植物園の中の売店でマンゴーアイスをごちそうになった。50代の娘さんに70代の母という組み合わせである。とても感じのよい親子であった。運転手、参加者も含めて、宮崎のみなさんの人柄のよさあってこその大満足のツアーになった。

 行きと帰りの飛行機はプロペラ機で頼りない感じがした。だが、幸い天候に恵まれ大きな揺れもなく、快適な空の旅だった。いつもは見ることもない外の景色も、夏空の雲がすばらしく、タラップを乗り降りする昔ながらのやり方もまた飛行機を身近に見ることができて、わくわくした子ども時代の旅の経験が復活したような気がしたものだ。この夏はまだ8月終わりに岩手への旅が待っているが、とりあえずすでに夏の旅を満喫した気分である。

 

飛行機の窓外

積乱雲

搭乗したプロペラ機

 

2012年7月27日

庭のカノコユリ

 ずいぶん間が空いてしまった。もう庭のカノコユリが咲く季節になった。

 前の日記に書いたように、6月は仕事で忙しく、余裕がぜんぜんなかった。予備校の小論文のテキスト製作でマニュアルを書くのに休日が全部つぶれるのだ。それ以外は予備校や大学の授業をこなすのが精一杯というところだった。

 6月で記憶に残るのは、2日に山田にホタルを見にいったことか。宗像市の山田地区にはホタルがまだ生存し、今は保護・繁殖が積極的になされ、ホタル公園なるものもつくられた。少し人為的すぎてこれまで行くこともなかったが、なぜか今年は妻といっしょに見ることにした。

山田(山の谷間にホタルが出る)

 おそらくホタルを見るのは子どもの頃以来だろうか。いや、ひょっとして大学時代どこかの田舎にいって見た記憶もあるような気もする。しかし、さだかではない。小学生以来というと40数年ぶりということになる。子どもの頃はとくにめずらしいものでもなかったので、今回見てもあたりまえという感じで、感慨というほどのことはなかった。

 5日と10日はコンサートに出かけた。5日はパーヴォ・ヤルヴィとフランクフルト放送交響楽団、10日は九響の「天神でクラシック」の第一回公演である。パーヴォ・ヤルヴィは去年のパリ管のコンサートがすばらしかったので期待をしていたが、今回はさほどの感動を受ける演奏ではなかった。新聞の音楽評で東京でのコンサートも平凡なものだという記述があったから、今回は全体にいまいちだったのだろう。

ヤルヴィとフランクフルト放送響
(カーテンコール時

 九響の「天神でクラシック」は定期会員になっている。サンサーンスのヴァイオリン協奏曲とドヴォルザークの「新世界」で「初夏の輝き」という副題がついていた。ドヴォルザークの「新世界」はさすがにこれは秋の曲になるから、タイトルに合わないなと思っていたが、サンサーンスのヴァイオリン協奏曲3番が副題にぴったりで、意図がようやくわかった。この曲は聴いたことがなかった。だから事前にiTuneで購入し、あらかじめ聴くことにした。

九響の「天神でクラシック」

 第二楽章は、オーボエ、フルートやクラリネットが弦にからまり、若葉の季節にふさわしく、緑濃い水辺に鳥がたわむれるような光景が目に浮かぶ曲想だ。実演ではそれに各楽器の位置の違いもあって、ほんとうに鳥がさえずっているようだった。このコンサートはとても満足した。帰り道の旧福岡県公会堂貴賓館前を通るときなどは、この曲を聴いた帰りにふさわしい雰囲気があり、6月の数少ないさわやかな一日を演出していた。

サンサーンス ヴァイオリン協奏曲第3番第2楽章

旧福岡県公会堂貴賓館

 27日は九電の株主総会で、会場前で抗議行動などにまずは参加する。その後、私は株主なので、中へ入った。しかし、入っても言葉こそは謙虚な表現をするが、誠実な対応をしない取締役の態度に不愉快な思いをするだけなので、ほんとうは入りたくはないのだ。仕事に行く時間もあり、途中で抜けた。株主でない人たちは外でデモを継続していた。

総会の間周辺をデモする

 7月になっても日々追われる状態は変わらない。小論文の高校講演が入り、その準備も加わって。疲れがたまる日々だった。

 北部九州では今年は水害がひどかった。私の住まいは高台なので、大雨のときの被害はほとんどないが、被害を受けた人たちのことを思えば気持ちは晴れることはない。おまけに大雨で交通が乱れ、仕事でも支障が出た。趣味のコンサートにも行けなかったが、これはとるに足らぬどうでもよい問題だ。

 25日は東京から来た知人らと懇親会があり、うまくて安い魚を食べた。酒が飲めないので居酒屋で宴会というのは苦手だ。しかし、今回は酒よりも料理に凝る店で、幹事をしたMさんのごひいきの場所である。

 前に彼と行き、昼食を食べたことがある。私は漁師の子どもなのに魚を食べるのが下手くそだ。店のおかみさんにそれを揶揄され、ここは客に説教をする店だなと思ったものだ。Mさんも似たようなエピソードをもっていた。だが、こういう店は自信があるからその分よい店なのである。4人で料理に舌鼓をうって楽しいひとときを過ごした。

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