2002年7月31日

 私だけかもしれないが、この年になると音楽を好んで聴くということはなくなる。それよりは絵画の方が自分のペースで見ることができるので、コンサートや音楽鑑賞よりも美術館巡りが好きだ。

 若い頃は人並み以上に音楽ファンでクラシックからロック、エスニック・ミュージックまでよく聴いたものだ。凝り性なのでそれなりに詳しく、音楽に割く時間も多かったが、どこかしらマニアというのは病的なところもあるな、とか要するにヒマだからこういうことができるのだという気が心のどこかでしていた。

 住民運動や学生運動に関わるようになって忙しい日々が続き、ほとんど音楽など聴く時間もなくなった。あるとき一週間くらい家を空け、厳しい活動の日々が続いて心身ともに疲れ果てて戻ったときがあった。何気なくステレオのスイッチを押して、音楽を聴いてゆったりしたいと思った。何の曲かは忘れたが、まさしく乾いた心にしみ通るという感じでじわじわとした感動におそわれ不覚にも涙を流した。そのときに、これが音楽を聴くということなのだと思った。

 平和で退屈でヒマをもてあまして四六時中聴くよりも、何かに打ち込み、緊張ある日々を送るなら、ごくたまに耳を傾けるだけでいい。よい音楽ならそのときにこそ本領を発揮してくれる。そういうことがわかった気がしたのである。それ以来音楽をぱたりと聴かなくなってしまった。嫌いになったわけではない。私なりに音楽とのつきあい方がわかっただけである。

 今はかつてのような緊張感あふれる日々ではなく、まったく弛緩しきって平凡と俗塵にまみれているが(体型も少し弛緩してきたか。^^;)、それでも最近この若い頃の体験と似たようなことがあった。

 場末の食堂でお昼の定食を食べていると有線放送の音楽が流れていた。若者向きのJポップスというのか、そういうたぐいの音楽で、ぜんぜん興味のないものだ。ところがある曲になり、別段聴いていたわけでもないのになぜか耳がそれを聴いてしまう。とてもせつないがしかし同時にあたたかく優しい曲だ。音も悪いので歌詞が何といっているかも聴き取れない。しかし雰囲気が抜群によく、どんぶり飯を掻き込みながら、いつしか不覚にも涙をこぼしてしまっていた。

 今の歌をまったく聴かない私であるが、直観的にあれは元ちとせの歌ではないかと思った。聴くでもなく聴いてそれであれほど感動させる力業をいまどきの若手歌手はとうていもってない。奄美の島唄を知る私は、島唄の歌い手ならそこらのカラオケ上がりの若い女性歌手と違って本物の歌い手であることは知っているからだ。彼女にかんしては新聞や雑誌で奄美の島唄の唄者出身と書いてあるのを見たことがある。それでさっそくCDを借りて聴くと案の定そうだった。大ヒット曲「ワダツミの木」だったが、それすら私は知らなかったのである。

 これは本物だ。ブルースなのかレゲエ風なのか今の音楽にうとい私には形式はわからないが(彼女の唱っているのは島唄ではない)、魂がこもっている。宇多田ヒカルなどが黒人シンガーを意識して形だけまねたものは娘がよく聴いているが、聴くに堪えない下手さというか、魂がないこと、口先だけを真似していることがすぐにわかる浅薄さで、心を揺さぶられることもまったくない。むしろスイッチを切ってしまうほどだ。

 それに比べ元ちとせの何という歌のうまさ。雲泥の違いだ。これは家庭と虚飾の音楽産業に乗っただけの貧弱な個人的身体と民俗文化の身体の違いでもある。足腰がそもそも違うのだ。もともと奄美の島唄はフランスなどのヨーロッパでも評価の高いワールド・ミュージックであるが、元ちとせの歌は良質のライー(北部アフリカのアラブ音楽にヨーロッパ風なポピュラー音楽の混ざったものとアラブの連中に聞いた)などと同じで、あちらの人間に聴かせても普遍的な評価を得ると確信する。

 しかし「ワダツミ」とは何と懐かしいことか。琉球弧の人間に負けず劣らず対馬育ちの私にとっても「ワダツミ」は心象風景と切っても切れない。海彦、山彦、トヨタマノヒメの世界に生きていたのだから(ちなみに上のリンク先の情報は和多津美神社を木坂の海神神社とごっちゃにして間違っているのでその旨了解されたい)。

手前の女性が民謡日本一になったと聞いた。
すごい美人だった。 向こうの中学生くらいの娘さんも
もちろん上手だった。島唄は子どもの頃から練習する。


 島唄はほんとにすごいのだ。若くても伝統の力で魂を動かすだけの歌唱力をもっているし、名を知られたものは小さい頃からすごい練習と伝統の中で育っている。元ちとせが出てきたときにさまざまな賞をとったということで、二年前に笠利で聴いたあの美人シンガーかと思ったくらいだが、違っていた。あの女性もきっとメジャーデビューすれば、元ちとせに負けない(美貌は勝っている)評価を得るに違いないが、それでも静かに埋もれている。奄美にはそういう人がけっこういるのである。そして私はそんな人たちが大好きだ。それが島の人間だからだ。きっと沖縄もそうだろう。

 それにしても元ちとせのCDは実に質が高く、いまどきの音楽シーンにこのような歌がでてきたことが信じられない。八月踊りや浜降りなどのシーンが思い浮かぶような歌詞もいい。昔いろいろな場面で出会ったシマンチュの顔が思い出されてくる。

 

2002年7月19日

 中国映画がいいといわれて久しいが、最近も秀作が相次いでいる。なかなか映画館にいく暇もないので、私には珍しいことだがビデオで見てみた。暇をもてあますということがないのでレンタルビデオを利用することはほとんどないからだ。借りたのは、去年見に行くつもりが見られなかった「山の郵便配達」である。同行した女の子が「A.I.」がいいといってお流れになってしまった。「A.I.」自体はまぁただの暇つぶしという程度の映画でしかなかったが。

 さてこちらの方は、少し感情移入が強いかなとは思うものの、しんみりと味わい深いいい映画だった。映像のよさはいうまでもないが、ああいう丘や田園風景を見たことがあるぞ、と幼い頃の記憶がよみがえるような気がした。中国にはいったことがないけれど、東アジア・モンスーン地帯の風土文化は同じだとも感じられた。

 非常勤でいく九州女子大の私の講義には多くの中国人女子学生がいる。姉妹校の大連の外国語大学の日本語学科から来ているそうで、話も読み書きも上手だ。なぜか私の講義は日本人学生よりも彼女たちに評判がいい。自立心は日本人学生よりもあるようで、自己表現も明快である。ドイツ留学時代も中国人、韓国人留学生には受けがよく、親切にしてもらった。そういうこともあってか、私の方でも中国や韓国の人たちにずっと好感をもっている。

 とはいえ、女子大の留学生は日本人学生との間では少し摩擦もあったようで、日本人全般が好きだというわけではないらしい。私が受ける理由を聞くと「日本人の悪い側面(どうやら、閉鎖性、つるむこと、あいまいさ、自律していないことといった意味らしい)がないから」ということであった。

 田舎者ゆえ外国や都市部(東京など)が嫌いで(ドイツやデンマークとの縁は必要やむをえずというか、なりゆきであり、自分が希望したわけではない)田舎にのんびり隠れたがる私なので、中国などにも行きたいと思ったことはなかった。しかし人との交流ができると関心も出てくる。映画のような人々がいるわけではないので、映画に憧れてそこへいくようなことはしないが、等身大の中国の人たちに出会い、仲間として感じたいと思う。狭いとはいえこれまでいろんな国の人に出会った私の経験からしても、人種や民族、文化に関係なくヒューマンな連帯感、仲間意識、友情は世界共通だと確信しているからだ。

 

2002年7月14日

飾り山
博多人形で飾ったものだが、これは担がずに
15日間展示をする。(クリックすると
大きくなります)

 博多の町はいま山笠ムードでいっぱいである。この祭りは古い伝統を誇るにもかかわらず、博多っ子らしいオープンさをもつ。各流れの世話役に頼めば誰でも祭りに参加でき、山笠を担ぐことができる。ドーナツ化現象で都心部に若い男性が少なくなったという時代の流れもあるが、それでなくても自由闊達な博多の人間の性格がそうさせているのだろう。

 知人に典型的博多っ子がいるが、人情に厚く世話好きで、とてもオープンである。彼らに私も担ぐよう誘われたことがあるが、場所が遠いのと年齢を考えてそのときは辞退した。それなりのトレーニングを積んでからでないととても対応できないからである。
 
 この祭りは最後の追い山に向けていろいろ行事があるが、それがちゃんとクライマックスに向けてトレーニングになっているのだという。世間の肩書きも地位も関係なく、祭りの経験の多い者が世話役としてとりしきり、その日の行事が終われば直会(なおらい)と称するねぎらいの酒盛りで対等にコミュニケーションをはかり、みなで盛り上げる。子どもは参加する中で大人社会や規律、マナー、助け合いを知り、世代間の交流としても昔ながらの地域のよさを維持している。
 
 いよいよ明日15日がフィナーレの追い山である。私もいつか参加して走ってみたいものだ。

 

2002年7月2日

 6月27日は全国一斉の株主総会の日であったが、私は九州電力の株主総会に出た。別に株に興味があるわけではなく、いわゆる脱原発株主、株主オンブズマン的株主として出るのである。

 最初に出たのが1983年で、原発や巨大火力発電に反対する地元住民と支援者が株主として総会に出ることを目的とした運動だった。住民が会社にいってもせいぜい課長くらいしか対応せず、「私には責任がとれないので上に報告します」の一点張りのために、社長に会える場は総会しかなかったのである。総会は取締役が対応しないといけないと商法で定められており、あちらは逃げるわけには行かない。

総会で発言する提案株主

 90年から98年までは私が事務局長をつとめ、15万株以上の賛同者を集め、会社の議案に対して原発の廃止や社外監査役の増加といった会社の民主化などを求める対抗議案を出してきた。今は脱原発株主運動として全国で行われているが、もとは九州から始まった。現在は「九電消費者株主の会」という名称をもつ。

 もう20年も出ているが(99年と01年は欠席した。99年は死者が出たあの大雨のため交通機関がマヒしてしまったので)、この間社外監査役や自然エネルギーの開発、グリーン電力料金や原発に依存しないためにインターネットなどの経営の多角化など、こちらが議案として出したことがどんどん会社の方針となっている。もちろん取締役会はこちらを敵視しているので直接に言い分を聞いたわけではないけれど、それだけ当方の方が時代を先取りして的確な意見をいってきたことになるわけだ。

 当初は旧態以前のシャンシャン総会で総会屋と思われる者がこちらを恫喝したり、大動員された社員株主が圧力をかけてきた。当初の数年は機動隊まで呼んでいた。しかしそれにもめげず当会は地道に主張を貫き、今ではかなり民主的な株主総会にした功績をもつ。会社側も社員株主にヤジを飛ばさせないようになり、また恫喝する総会屋も減った。

 かつては役員選出にも私や代表の中津在住の作家松下竜一さんなどを候補として出したこともある。もちろん否決されたが、こちらの意見が時代の要請となるのを思えば、九電も採用していたほうがよかったのでは(笑)?。

 

2002年6月25日

 非常勤でいっている北九州市の県立歯科大の3年生の講義の出席者がすごく減ってきた。前任者の先生から出席をとらないと減り方は激しいよとアドバイスは受けていたがこれほどまでとは思わなかった。

 学生に聞けば、3年ともなれば必修科目の履修に追われ、5分の一は留年するほどの厳しさなので、出席をとらないこうした教養科目(倫理学)は息抜きとして休むのだそうだ。試験もせずレポートなので出せば最低単位はもらえる。

 初めの頃あまりに内職をする学生が多いので、わざわざ講義に出て内職をするくらいなら出なくてもいいと喝を入れたが、言葉通りに受けとってしっかり出なくなった。実験のレポートや英語の予習など他教科の要求がかなり厳しいらしく、若者として人並みに遊べばほとんど時間が足りないのである。

 他の大学で倫理学を教えているが、こちらは出席をとらずともそれほど減ることはなく、楽しくやっている。だからある程度は内容に自信をもってはいたが、まじめなはずの歯科大なのに、課題の多さに教養や面白さは二の次で必須科目についていくのが精一杯なのだろう。

 それにしても高等教育が大衆化した現代、教養や知への好奇心などはほとんど死滅しているといわざるをえない。受験勉強に資格試験など、勉強は目先の利益、就職のためにやむをえずするものという意識が蔓延してしまうと、単位だの出席だの目先にニンジンをぶら下げないとなかなか動いてくれない。

 もともと向学心に燃える層なんてどの時代もごく一部で、昔はそうした人間が大学に多くいったと思われるが、半分以上が大学へ進学する今では、はなから期待する方がおかしいのだ。専門学校と思って、目先の利益のために学ぶという姿勢で教える方もいた方がいいだろう。

 そうすると私の担当している倫理学や哲学なんて専門学校には無用ということになる。福祉だの看護だの情報処理といった教員の需要は多く、専門学校化する大学にはふさわしいと思うが、それでも教養科目として哲学などを置いているために、教える側としてはなんとも居心地の悪い思いをしないといけない。

 高等教育が大衆化した現代は思想や文学などは中高年になって初めて目覚める科目になっている。社会が高度化したのか幼稚化したのかはわからないが、社会人講座での手ごたえ、聴講者の真剣さ、熱心さを思えば、こうした人たちといっしょにやれる制度が欲しいと思う。

 

2002年6月18日

 6月9日に家族で下関と門司港へいった。娘が動物が好きで将来はイルカなどのトレーナーになりたいとかで、去年だったかオープンして評判のいい下関の水族館である海響館にイルカのショーを見にいったのである。

海響館でのイルカショー

 下関らしく水族館の魚は珍魚よりもフグやタイ、メバル、チヌ、イサキといった食卓になじみ深い魚を多く見せており、漁師の生まれとしては何かしらふるさとに帰ったような気もちになる。日本の魚を磯から沖合いまで知るにはいい施設ではないだろうか。もちろん熱帯魚やアマゾンの珍魚アロワナといった水族館らしい魚もあり、展示として他の水族館よりも劣るというわけではないが、水産の街下関の雰囲気がよく出ているのが私にはいい。

 イルカショーもダイナミックで大人も子どもも楽しめるものだった。とくに子どもにはいい思い出になるだろう。ただ私には空いている空間から見える関門海峡の美しさが印象的だった。借景としてはこれは最高のロケーションである。

関門海峡(向こうは門司港)

 関門海峡をボートで門司港から渡って下関に来るが、小さな船で潮風や波しぶきををじかに感じ取れるのが好きだった。前は乗客も少なくさびれていたが、海響館ができてからは観光コースに入り、黒字になったという。

 博多の港町そして門司港と、どうしても港町が好きなのは生い立ちから来る。だが最近はウォーターフロントなどといって若者がたむろするレジャーの場所としても流行しているのを見ると港町のよさは普遍的なのだろう。そういえば函館や小樽といった港町も情緒ありそうで観光気分をそそる。それらに並ぶような素敵な港町を近くにもつというのは幸運である。

 

2002年5月28日

 この時期大学の講義で学生に映画を見せながら思い出したことがあったので、日記特別篇その4として書いてみた。どうぞごらん下さい。ちなみに今どきの学生たちはこの感動的な映画を見ても「ツマラナイ」という顔をしている。何かが変だと思うのは気のせいか。

2002年5月19日

 エッセイのページに昔書いた小説「去りゆく海に」を加えたが、これは当時の懐かしい思い出が書かれた半分事実半分フィクションの作品である。

 志布志湾は大きく変わり、また開発も途中で時代遅れになって変更され、県の意図したようにならなかったが、それでもきれいな海は失われ、帰ってこない。

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