2000年6月30日

 半月ぶりくらいに書く。

 最近続けてまとまった本を読んだ。日ごろはあまり読まない。この年になると断片的な情報を追うのに手一杯で、きちんと一冊読み上げるということが少ないのだ。

 読んだのは『ユングという名の<神>』(リチャード・ノル、老松克博訳、新曜社 1999年)と『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク、松永美穂訳、新潮社 2000年)である。どちらも毎日新聞の書評欄で最近知ったもので、前者はユングをカルト教団の指導者とする伝記、後者は今評判の小説だ。『朗読者』の方は4月に書評で見たあと書店で探したが、品切れで見つからず4刷目でやっと見つけた。新聞で大々的に広告していたので、やっとタイトルを正確に覚えたということもあるかもしれない。

 内容はというと、後者の小説よりも前者がはるかに面白かった。両者を比べることそのものがおかしいといわれそうだが、「事実は小説よりも奇なり」である。後者の小説に対する川本三郎の書評は、新聞には珍しいくらいの激賞で、これはきっと素晴らしい小説に違いないと期待させたのだが、実際読んでみると評論家をあれほど感動させたものが何であるのかがわからない。

 書評ではこの小説のよさとして、ナチスの戦犯として裁かれる者をただ糾弾することなく、関係をもった者としての痛みを描き、通常のワンパターン的な叙述を免れているというようなことが書いてあったかと思うが、多くのドイツ人に残るアンビバレントな感情を思えば、こういうことも当たり前という気がする。もちろん戦後ドイツではこうした感情をもちつつもそれを表明できなかったという事情はあるが、私の留学したときを思えば、普通のドイツ人に揺れ動く複雑な感情があったのは否めない。推測だが、川本三郎はドイツの戦後処理の優等生ぶりをマスメディアからの情報で受け売りし、一般人も厳しい反省をしているというイメージをもっていて、そこからこの小説の人間的な書き方に心を打たれたのであろうか。
 また主人公の女性が文字が読めないことも意外で重要なプロットとして書評では評価されていたが、 ドイツには日本人の想像以上にこうした人々は多いのである(そういえばグドルンも彼らにドイツ語を教えていた)。

 前者はアンチ・ユング派からの学術的な伝記である。著者の書いている内容からユングをカルト教団の親玉と決めつけるにはまだ不充分とは思うけれど、ユングが危うい世界に入り込んでいたことは確かに証明されている。とくに実在する諸人物とユングとのやりとり、かかわりを、現存する彼らの手紙や手記などから掘り起こし、再構成しているところは圧巻である。ロックフェラー家のような有名な財閥の人間が仕事を忘れていともたやすくユングに心酔し、彼の教義の普及に財政的な面でも貢献したというくだりなどは、隠れた歴史の真相を示して、まるで推理小説を読むような面白さだ。社会派的な内容に隠されてはいるが、ともすれば平凡な恋愛小説(ルソーの『告白』にも似て、年上のヒロインによって男として成長する主人公という古典的な設定)にも堕しかねない『朗読者』を読み進めるよりも、こちらのページをめくるのがはるかに楽しかったことは事実だ。

 私は古典は読んでも今の小説を読むことはほとんどないが、『朗読者』が今年一番の収穫として評論家に激賞されるのを思えば、現代の小説の置かれている状況が分かるような気がする。

 

2000年6月16日

 梅雨に入ったというのに、夏の陽射しが続く。

 さて、下にも書いたように、12-13日と鹿児島へ行った。時間がなくて大学時代にお世話になった人とは会えなかったが、子ども劇場の人たちと7月16日の奄美での講演の打ち合わせをした。いずれも気持ちのよい人たちで、小料理屋で家庭の味を思わせる料理の数々に舌鼓を打ちながら、談笑に花が開く。

 日記特別篇にも書いたが、どうして南の国はこんなに人の心をなごませるのだろう。北九州は雨が降らずに暑い日々が続いたが、こちらは前線がかかってずっと雨模様だったという。この日も互いに傘を差し合いながら、しとしと降る中をみなで歩くのだが、うっとおしい天気とは反対に気分は晴れ晴れとして、みなの顔も明るく弾んでいた。

 中心の鹿児島市ではなく、あえて離島でフォーラムを開き、本土の人たちに来てもらうことで、島の人たちが日ごろいかに中央に来る手間ひまがかかっているかを知ってもらうという。鹿児島県の有人島すべてに舞台芸術を運び、歓びを伝えたいという彼女たちの思いは真剣だ。離島の生まれ育ちの私としても一肌脱がないわけにはいかない。

 6月に入り、気持ちのよい日々と出会いはまだ継続している。

 

2000年6月6日

 6月になった。5月は疲れることの多い月だったが、後半は人との出会いがよくなって、気心しれた人たちとの語らいが心にしみたときだった。熊本、大阪、東京と旅を伴い、とくに熊本の清和村へいくときは緑の濃い車窓の風景に体が清められる思いがした。

 清和村の人たちの歓迎を受けて、楽しい思い出話に花が咲く。都会のように神経をとがらすことなく、ゆったりした雰囲気で、腹の底から笑えるような会話が続いた。

 熊本ではうちの協会の熊本の会合を古美術店兼カフェで行った。そこは漱石や小泉八雲が五高にいた明治期の熊本の雰囲気を思わせて、とてもここちよかった。Fさんは熊本の教育市民団体の幹部でもあるが、すてきな中年女性で、彼女と八代から来た好男子で昔からの活動仲間Mさんとの語らいはノスタルジックで暖かく、渇いた心をうるわすに充分だった。

 下に書いている大阪での会合も穏やかな午後そのもので、思いやりに満ちた人々のまなざしに囲まれた。時間の経つのが早すぎて、押し迫る飛行機の時間のために辞去するのが惜しまれたほどだ。Mさんの「え、もう帰っちゃうの?」という子どものような言葉が彼女の気持ちを表していて、うれしかった。

 東京は仕事で行ったのだが、前日、私をよく知るJさんと会い、品川の夜を過ごした。それほど語らずともこちらの気持ちをわかってくれる人というのはありがたい。この間疲れる私を励ましてくれていた人でもあった。

 来週は鹿児島へ講演の打ち合わせに行く。ここにも素敵な人たちが待っている。

 旅、これ人に会うことなり。あちこちに私を知る人たちがいて、暖かく迎えてくれる。その人たちの力によって、味気ない私の日常も美しい彩りを帯びて、無駄なものではないことを実感するのである。

2000年5月30日

 グルントヴィ協会の関西の会合で大阪に行ってきた。せっかくの機会なので、友人Sさんとちょうど大阪市美術館で行われているフェルメール展を訪ねた。

 フェルメールは12年前の出会いが衝撃的で、それ以来のファンである。留学時代、アムステルダムへのエクスカージョンがあり、国立美術館にも寄った。私は当然ながらここのメインのレンブラントの「夜警」を期待して見に行ったが、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」や「デルフトの小路」を見たとき、「夜警」以上の衝撃を受けたのである。もちろん画集などでこれらの絵を知っていたが、本物がここまで素晴らしいとは思わなかった。彼の比類ない技量とラズメニアン・ブルーはじかに見ないと画集ではその鮮やかさが半減する。

 今回は日曜日ということもあって、たいへんな人出で混雑したが、マウリッツハイス美術館のそれは見たことがあっても、アメリカのワシントン美術館やメトロポリタン美術館所蔵のものは、おそらく今後も見ることがないと思われたので(アメリカに行ったことがなく、また行く気もしないため)、その点では行ってよかったかもしれない。

 「地理学者」や「天秤をもつ女」など、最盛期の彼の絵は想像通り素晴らしかった。メインの「青いターバンの少女」は、私はこれは未完成というか、習作の一つと考えているが、顔の部分は見事に完成しており、さすがというほかはない技量だった。

 フェルメールの静けさはしかしこのような雑踏には似合わない。またアムステルダムやハーグで、静謐さの中で、ゆっくりと対面するあの至福のひとときを味わうことにしよう。

 

2000年5月15日

 このところあまり楽しくない日が続くが、唐津からJetteが遊びに来てくれた。彼女はデンマーク人の友人で、27才。昨年11月から1年間の予定で唐津に来ている。

ふっくらとして、穏やかな彼女と話しているだけで、気持ちが和む。彼女は典型的な「癒し系」なのだろう。庭で家族とバーベキューをし、翌日は、私がもっている大学(福岡教育大学)の授業で、ゲストとして話をしてもらった。

 彼女はオーフス大学で主専攻が日本学、副専攻が経営学であるので、日本語ができる。そこで講義も日本語交じりで行った。昨年は関西外語大学にも交換留学で来ており、日本とデンマークの教育、大学生活といったトピックである。

 学生の質問はデンマークにうまいこと行くにはどうしたらいいか、といったものが多く、肝心の教育や社会の違い、異文化の問題には迫らず、彼らが将来の教員となると思えば、少々不安を感じた次第であった。

 

2000年5月7日

 今年の連休は天気に恵まれた。とはいえとくに行楽にいったわけではない。この季節は人も多いので、行楽地はどこも一杯だからである。

 いつもいくのは八所宮という近くの神社である。ここはとても美しい藤棚があるが、訪れる人も少なく、鑑賞にはもってこいの場所だ。この神社からさらに数キロいったところに藤棚で有名なお寺があり、みなそちらに流れるので、ここは誰も来ない穴場なのである。

 私は桜よりも藤の花が好きだ。花見の季節よりもこの新緑の時期に、藤棚の下でくつろぐと心安らぐ。一年で一番天然の美を感じるときである。

 薄紫の藤の花は昔から高貴な色とされ、貴族に愛でられてきた。別に貴族趣味だからいいというわけでもないが、彼らの感覚のよさには共感するものがある。桜があれほどに愛でられるのに対し、現代の人々はどうして藤の花を忘れてしまったのだろう。私のこのページも紫を基調とするのはそんな古典的趣向の現われなのかもしれない。

 

2000年5月4日

 半月以上更新をしてなかった。仕事が始まるといろいろ忙しく、余裕がない。おまけに、この8年以上同じことの繰り返しで、変化に乏しくなった。年は取っていくので、体中から元気ややる気がみなぎるという若者の頃のような現象もない。何だか面倒くさくなっていやになったというのが正直なところだ。ユンケルとかのスタミナドリンクはあまり飲まないし、スッポンエキスだの青汁だのにも縁がない。しかし、最近のやる気のなさからすれば、飲んだほうがいいのかな?でも、別の方面で元気が出ても困るので(笑)、これは遠慮しておこう。

 いい季節を迎えた。地元の教育大学で「道徳教育」の講義を担当しているが、そこへ行くときゆるやかな並木道を通る。今はツツジが美しい。

 さて、去年、東京の生活クラブ生協の書評紙に書いた本の紹介が、一冊の本の中に入った。これはNewsの方に載せるので、そちらをごらんいただきたい。

 

2000年4月15日

 先輩の浜渦さん(静岡大学教授)より訳書(クラウス・ヘルト、浜渦辰二訳『20世紀の扉を開いた哲学、フッサール現象学入門』九州大学出版会、2,200円 ISBN4-87378-625-8)をいただいた。隠れた無名の私にまで献本して下さるとはありがたいことだ。頭が上がらない。

 浜渦さんは学問的にもすぐれた人だが、人間的にも尊敬できる人で、ざっと読んでみても、丁寧で正確な仕事ぶりであることがわかる。現象学の難解な業界用語をなるべく廃して、その精神を伝えようとする姿勢が心地よく、ぜひ関心ある人にはお勧めしたい良書となっている。

 今度の本は彼のドイツ留学時代の先生であるヘルト(Klaus Held)のレクラム文庫版フッサールの論文集の解説の訳である。ヘルトはヴッパタール 大学の教授で、現象学の世界的権威である。私も留学時代お見かけしたことはままあるが、現象学にはうとかったので、講義やゼミには出てはいない。当時、ヴッパタール大学はヤンケとヘルトという二枚看板をもち、お隣の老舗のケルン大学よりもいいと評判で、ケルン大学の学生が講義やゼミにも多く駆けつけていた。両人とも人間的にも立派な人たちで、留学生にも親切で、とくにヘルトは親日的で知られた。

 原著者を知り、訳者が知己であるという本なので、私にとって親しみがわくものではあるけれども、それを抜きにしても内容的に読みたくなる本だ。かつてはページを開くとわくわくするような気持ちがした本も多かったが、最近ではそうした楽しみを忘れていた。これは久々にあの良書を繙く楽しみを感じさせるもののようである。

2000年4月7日

 3月の話だが、26日知人の太陽光発電の完成式パーティに行った。これは原発に対抗して自分たちでエネルギーをつくろうと始めたものである。その太陽光発電を設置した場所は、福岡県の二丈町の曹洞宗の名刹龍国寺で、住職の妻の甘蔗珠恵子さんは、チェルノブイリ原発事故のあと、その不安をつづった冊子『まだまにあうのなら』がベストセラーになったことでも知られるお人だ。

 せいぜい300年程度と思っていたら、何と800年の歴史を誇るんだそうで、二丈町の観光名所で、8月には平氏をとむらう中世の都風の盆踊りという古くからの行事もあるそうだ。

  禅寺だから、庭がきれいで、春の風情を楽しんで来た。ときには野生のニホンザルも出るとか。

  会合の終ったあと、関係者だけになり、陶芸をするJetteとMartinが来ているので、寺宝に貴重な茶碗でもあるのではないかと思い、尋ねてみると、出るは出るはさながらミニ博物館ツアーとなった。

  約800年前(1203年)の創建で、糸島の城主原田治郎大夫種直が壇ノ浦で滅亡した平氏一門の菩提を弔うために建立し、種直の妻が平重盛の養女であったゆえで、重盛の着衣の一部が宝として残っていた。古びてはいるものの、絹と思われるその布きれは美しく、意匠もモダンで、また色合いも落ちず、いかに昔の人々がいいものを着ていたかがしのばれた。まったく絵巻物の世界である。 昔ドイツのエッセンのフォルクヴァング美術館で古代ギリシャの壺をたくさん見たとき、それがまるで現代のイラストのようにモダンであることがわかり、本当によいものは今でも通 じるモダンさがあると思ったが、そのときとまったく同じ感慨を覚えた。

  また維新の女傑として有名な野村望東尼の直筆の恋文や絵なども残されていて、読めないくらいの達筆。学者の読解したものを読んで、その心持ちがわかり、女傑の揺れる女心、まるで歴史ドラマの世界である。

  唐の時代の茶碗や、百済の観音仏像などもあり、お宝鑑定団に出したらいくらになるか見当もつかないね〜とみなさんいいあっていた。さりげなく価値ある仏像が置いているので、気づかずに触っていると、「実はそれは寺宝の一部で県の文化財なんです」といわれて、「え〜知らなかった、今までずっとさわってた〜」という感じ。オープンで仰々しくない甘蔗夫妻の人柄である。

 のどかな春の一日で、気持ちのよい人たちに囲まれ、こころ安らぐひとときであった。

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