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2014年12月31日

旧大阪商船ビル(門司港)

 あっというまに12月31日を迎えた。来年はいよいよ還暦である。人生の一区切りになる年齢になるが、自分ではちっとも熟達した気分がない。まだまだ未熟でわからないことだらけの子どものままの感覚である。

 12月は最初は仕事に追われたが、後半は休みが多く、その点ではゆったり過ごせた。年齢もあってリストラ対象で、予備校では講習会のコマが削減されたからである。それでも何のかんのとすべきことはある。

 9日は筑紫女学園大学のドイツ語の授業で、例年やっているシュトーレンの味見とアドヴェンツ・カレンダーの抽選を行った。今年はパウルのシュトーレンにした。これをナイフでカットしてみなで分けて食べ、ドイツのアドヴェンツ・カレンダーを希望者に抽選で渡す。アドヴェンツ・カレンダーは女子大生になってもかわいく感じるようだ。

 10日は、協会で支援している廣岡夫妻の里親委託取消裁判の久しぶりの公判で、同じく協会の会員のKさんといっしょに山口市へ行った。最初だけ公判で、のちは非公開の書面のやりとりが十数回続いたが、ようやく証人尋問で公開の裁判となった。

 廣岡さん支援の者が34名も駆けつけ、傍聴席をほぼ占めた。私は事務局長として、裁判所前集会、昼休みの県庁行動、繁華街でのビラまきなどの段取りを行った。県庁では正門前で街宣を行い、県庁職員と押し問答したが、それはそれで面白かった。抗議の意志を県庁に示せたのはよかったろう。朝10時から二時間の休みを挟んで夕方の5時半まで続く長い証人尋問になった。最後は会議室で集会もでき、裁判での成果も合わせて充実した一日だった。報告は協会会員の鍬野さんが書いて下さっている。

集会であいさつする廣岡夫妻

山口県庁前の街宣行動

 13日は、福岡オルタナティブ研究会での講演を西南大学の一室で行った。20名ほどの参加者の前で、デンマークの民主主義について語る。今年は、1月、4月、5月、8月、12月とデンマークのことを話してくれと要望があった。それだけ民主主義のあり方についての市民の関心が高まってきているのだろう。

 27日は、宗像市の街道カフェ「暖」で、政治思想カフェの忘年会を兼ねて映画「戦場のアリア」鑑賞会をし、「徴兵制と良心的兵役拒否」について報告した。本当は、拙著『フィヒテの社会哲学』がフィヒテ賞(日本フィヒテ協会)を受賞し、その副賞にフィヒテが学んだシュール・プフォルタのワインをもらったので、これを飲んで受賞のお祝いの会とするというのがメンバーの意向だったが、面はゆいので映画会と忘年会を主にした。いつものメンバー以外の人も来て盛会だった。映画は初めて見た人が多く、感銘を受けていた。

 29日は息子と小倉と門司港のイルミネーションを撮影しにいった。二年ぶりになる。夜の門司港は港町特有の雰囲気をもち、海になじみの深い私には懐かしい感じだ。

小倉のイルミネーション

 

旧三井倶楽部(門司港)

 今日31日は84歳の義理の母も来て、家族で年を越すことになる。こういう高齢者がいると一家の柱ができる感じになり、よい年末ではないか。

 今年をふり返ると、妻と3月ドイツ、デンマークを旅して旧友を訪ねたのがまずは思い出される。その後はやはり8月のラダックへの旅、そして岩手への旅だろうか。わっぱの会の訪問もよかった。また、川内原発再稼働阻止の集会などに関与して少しは貢献できたのもうれしいことだ。

 仕事は変化があり、日程がきつくなったが、あまり成果が出たとはいえない。シュミット研究書の翻訳の初校が出たものの、なぜか今年中には出なかった。出版社と監訳者の都合があるのだろう。拙著がフィヒテ賞をもらったのもよかったが、書評が二つ出て、とくに学会誌『フィヒテ研究』の書評で専門家の杉田さんの評価が高かったのは嬉しいことだった。解釈の方向としては全面的に同意してくれているようで、自分の考えが独りよがりではないことがわかったのは自信になる。

 来年は、3月にまたドイツ、デンマーク、イタリア(ヴェネツィア、ヴェローナ)に行く。イタリアは95年以来である。そして8月にはラダックでの会議がある。そろそろ人生の整理をすべき年齢になろうというのに、なかなか落ち着きそうにはない。

 

2014年11月30日

光明寺(太宰府)

 レギュラーの仕事が9月から始まるとこれに時間をとられ、余暇もさまざまな活動などで埋まるので、更新の時間がとれなかった。もう11月の終わりになり、あっというまに三ヶ月が過ぎた。

 近い順に出来事を記せば、11月23日は久しぶりにフィヒテ学会に出た。昨年出した拙著『フィヒテの社会哲学』が今年度のフィヒテ賞をいただくことになり、授賞式に出よとの依頼を受けたからである。30回の記念大会ということで同志社大学で行われ、国際フィヒテ学会会長のde Rosales教授(スペイン通信教育大学)と前会長のZoeller教授(ミュンヘン大学)の講演や記念出版など盛りだくさんであった。

 賞にはフィヒテの学んだギムナジウムのあるシュールプフォルタのワインや立派な額入りのフィヒテの肖像画(複写)などをもらった。受賞理由も「エポックメイキングな著作」などと高い評価でおもはゆい心地がした。あいさつは授賞式だけかと思っていたら、夜の懇親会でもいわされ、冷や汗を二度かく羽目になった。

 フィヒテ学会は、2006年以来で8年ぶりの参加である。同志社大で学会があると、ドイツ留学時代に知り合い、お世話になった工藤先生(同志社大教授)とお会いできるのが楽しみだ。今回もいっしょに昼食を食べ、懇親会でも語るなど、暖かいお人柄に触れることができ、よい時間を過ごせた。

 スケジュールがびっしりつまり、休憩時間などに同志社大の文化財になっている校舎や隣接する相国寺の紅葉でも見るつもりが、まったくできなかったのが残念だ。まぁこの時期の京都はどこにいっても芋をあらうような人出なので、無理にでも行く必要はないのだが。

 10月28日は妻とマリボール歌劇場(スロヴェニア)のオペラ「アイーダ」福岡公演にいった。場所がアクロスなので、舞台が狭くアイーダのようなスペクタルを売りにするようなオペラには向かない。去年の北九州市民オペラの方が大がかりでまだアイーダらしさが出ていた。しかし、歌手の力量はもちろんこちらが上で、とくにオーケストラの演奏がすばらしかったと思う。指揮者と演奏者にブラボーである。

「アイーダ」(カーテンコール)

 二年前にバイエルン州立歌劇場で、ケント・ナガノの指揮する「ヴァルキューレ」を聴いたときも圧倒的な演奏だったが、ヨーロッパの歌劇場と日本でのオペラ公演の大きな違いはオケの技量の差もあるように思われる。秋の夜のオペラ鑑賞としては十分に楽しむことができた。

 10月30日は、ズービン・メータの率いるイスラエル・フィルのコンサートにいく。イスラエル・フィルはこれまで避けてきたきらいもあるが、演奏がときにはベルリン・フィルやウィーン・フィルをしのぐうまさという評判があり、今回初めて聴いてみた。しかし、さほどでもなく、メディア戦略、一部のファンなどの工作で実力以上に評価されているオケだということがわかった。予備校の同僚のMさんなどの意見も、なぜあんなにブラボーが飛ぶのかわからないという点で一致した。

イスラエル・フィル(カーテンコール)

 それ以外では、九響のコンサートを、9月4日の北九州定期、9月14日の宗像ミアーレ音楽祭、9月24日定期、10月21日定期と聴いた。この中では、14日のミアーレ音楽祭でのラフマニノフのピアコン2番、9月定期の定期でのシューマンのピアコン、10月定期のショパンの1番がよかった。

 期せずして、ピアノ協奏曲ばかりになったが、九響は概してコンチェルトの伴奏はそんなにはうまくない。しかし、この三つはほどよい調和で、ピアノを引き立てるとともに、自分の主張もしており、少し見直した。何よりもソリストがみなよかったというのもある。

 10月定期のショパンは、萩原麻未ちゃんでまん丸笑顔の愛らしい姿もお気に入りだ。「リアルのだめ」の評判通り、ピアニッシモの音の繊細さが抜群で、多少のミスはあるものの何かしら琴線に触れる演奏だと思う。

萩原麻未さんと九響

 今日は妻と毎年恒例の下関長府の紅葉を見にいく予定であったがあいにくの雨で断念した。地元や太宰府の紅葉でがまんすることにしよう。

光明寺(太宰府)

 例年は秋には絵画展などもいいものがあり、何回か訪れるのに、今年は行っていない。興味を惹くものがないからだが、コンサートにせよ、オペラ、バレエ、絵画展と年々海外ゲストの質が落ちている気がする。行政や企業の補助金の削減が大きな理由だろう。予算内で収めるには、小ぶりのものになり、それがまた集客を悪化させ、実績を下げ、次年度予算が削減されるという悪循環である。これでよいのかという気もする。

 例年は宗像の秋を満喫するのだが、仕事に追われたせいもあって、今年はほとんど散策などの余裕がなかった。さつき松原をツーリングして鐘崎に寄ったくらいだろうか。

鐘崎港

 9月26日は、福岡市の小出裕章講演会に行く。私も主催者の実行委の一員で、小出さんと面識があるという理由でコンタクトを私がとっていた。今ではすっかり全国区になって多くの人が小出さんの人柄を知るが、昔は知っている人は少なかった。その頃から小出さんに会うと俗塵が落とされるようなさわやかな気分になるのだが、今回もそうだった。福島の事故が自分の中でも風化しつつあるのを改めて痛感させられ、初心に返って被災者たちのことを思いやる必要を気づかせられた。

懇親会時の小出さん

 懇親会が終わって最後は、主催者代表の青柳さん、小出さん、そして私でホテルのバーでワインを飲んで労をねぎらう。これは青柳さんが望んでいたことだ。人気者の小出さんは懇親会に来た全員と個別に語るように配慮し、最後に三人でしんみりとグラスを傾けることを期待していたのである。あいにく予定より遅くなり、終電の時間がある私はじっくり話す時間もなくて早退したが、よいひとときだったことは間違いない。

 12月10日はこの間準備してきた廣岡夫妻の里親不当取消裁判行動が山口地裁である。仕事が一段落する時期でもあり、気持ちを新たにして、そちらに集中しよう。

 

2014年9月22日

盛岡市の中津川

 8月後半からも、また忙しかった。16日は、下関で、廣岡夫妻の里親取消裁判支援の会の事務局立ち上げの会議を行った。9名ほど参加して、夏の日の午後に充実した会話が繰り広げられた。話は深刻なのだが、集まったメンバーのみなさんがよい人たちで、弱者に降りそそぐ暖かい視線が感じられ、よい雰囲気だった。

 22日からは、岩手行きである。一昨年から始まった予備校の同僚Kさんといいずな書店による高田高校支援ワークショップに参加した。今年で最後である。三年目なので、慣れもありスムーズに移動する。夜はいいずな書店のみなさんと懇親会をして、翌日の担当社員が決まる。私のワークショップは、身体を動かすので若い社員が3名つく。

懇親会で(Kさんの写真)

 23日午前が本番である。デンマークのイドラット・フォルスク(民衆の体育)、日本のトロプスを休み時間を入れて3時間した。今年は例年より参加者が少なく、14名だったが、教員や社員、飛び入りの子どもたちも入れて20名ほどで楽しく終えた。ふだんは部活をしている生徒ばかりで、休み時間も休まずに身体を動かしていた。さすがに59歳にもなると敏捷性は彼らには叶わない。

イドラット・フォルスク

 午後は、例年通り陸前高田市、大槌町、釜石などの復興ぶりを見学する。参加者の一人がぽつりと語った「ゼネコン・パラダイス」という言葉があてはまる気がした。それでも、大槌町は住民参加の復興がある程度できているらしく、ここは希望がもてた。

陸前高田市の土砂を運ぶコンベア

大槌町

 24日は午前にみなさんと別れて、盛岡へ向かう。昼頃、盛岡につき、15時からの盛岡協会談話会へ行く。盛岡の会員の及川さんは岩手デンマーク友好協会の副会長とは聞いていたが、実際にお会いしてみると地域の病院長であり、福祉施設カナンの園の理事長でもあった。若い頃にコペンハーゲン大学へ留学されてからのデンマークとの縁である。

 会合は主に友好協会のみなさんが来られて、20名を超える盛況ぶりだった。協会会員のKさんもお出でになり、また参加者の岩手大学のK先生も協会会員になって下さった。最初はいつも身体の遊びで始まり、リラックスした雰囲気でデンマークの話をする。その後は参加者全員が自分のことや意見を語り、アットホームなよい会合になったと思う。

盛岡での協会談話会

 懇親会も手配していただいて、談話とお茶と食事というホイスコーレにふさわしい半日になった。あとで知ったことだが、カナンの園は知的障害者施設としては全国的にも知られるところらしく、事前にしっておれば、見学などもできたのにと少し残念だった。及川さん他、お世話になったみなさんに心から感謝したい。

 翌日の25日は、会員のKさんからご紹介を受けた「視覚障害者の手でみる博物館」にお邪魔した。一般の民家の二階を全部使い、さまざまな剥製、モノ、模型などを展示している。もとは桜井さんといわれる視覚障害者の方が始めたそうだが、その後、親交のあった川又さんが引き継いだ。娘さんが館長で、川又さんは理事長である。

手でみる博物館

 11時前に着き、1時間ほど見学して帰るつもりが、川又さん家族とのお話が実に有益で楽しく、3時まで実に4時間もいた。しかも初対面なのに、昼食までごちそうして下さる。視覚障害者が触れることで対象を知ることの重要さを教えていただき、こういう視点のなかったことを恥じた。

 しかし、メルロ=ポンティの思想などに親しんでいたこともあり、視覚障害者のもつ新しい世界はよく理解できる。私自身、世界の感じ方がより拡がった気がした。障害は制限ではない。それはそれまで知らなかった世界の感じ方を教えてくれる。

 その後は、去年見ていなかった盛岡の街を歩いて回った。盛岡八幡に結婚当時啄木が住んだ家など。夕食も地元の人がいくという定食屋さんを探してみる。女将さんの愛想のよさが評判だそうで、たしかにその通りだった。盛岡は去年に続き、二度目の滞在になるが、落ち着いた街並み、穏和で親切な人たち、豊かな地方文化で暮らしやすい街だと思った。あいにく曇りで自慢の岩手山が去年も今年も見えなかったのが残念。

盛岡八幡宮

啄木の住んだ家

盛岡信用金庫

 26日は朝の内に花巻空港に移動して、レンタサイクルを借りて、花巻を観光した。といっても、あまり時間もないので、羅須地人協会とイギリス海岸を見ただけである。花巻農業高校にある羅須地人協会は2003年以来で11年ぶりになる。家は同じだが、賢治の銅像や庭園ができるなどして少し変わっていた。今回は中に入ることもできた。イギリス海岸も11年ぶりだが、看板ができるなど観光化していた。

賢治像と羅須地人協会(花巻農高)

羅須地人協会

羅須地人協会の中

 夕方に名古屋の小牧空港に着き、協会の会員の坪内さんの出迎えと夜の食事のお招きを受ける。ベジタリアンのレストランで夫の斎藤さんと三人ですてきな食事に舌鼓を打つ。

 翌日は、わっぱの会のそれぞれの施設を坪内さんの案内で見学した。何度も来ているというのにじっくり見るのは初めてである。わっぱん工場から、支援センター、職業開発校、リサイクルセンターとあちこち回り、最後は理事長の斎藤さんのインタビューで終わる。

 知的障害者、身体障害者が健常者と分け隔てなく共同体として暮らし、財布も一つにするわっぱの会の理念はすばらしく、日本の福祉の最先端を走っている。しかし、組織が大きくなり、社会への貢献は増してはいるものの、それに伴う問題もまた新たに出てくる。試行錯誤しながら進むわっぱの会の経験こそがあとにつづく市民団体には大きな指針となるだろう。

わっぱの会

パン工場

斎藤さんと坪内さん

 カナンの園がすぐれた施設だということは、ここで教わった。というのも、わっぱの会もカナンの園の評判を聞いて、見学したことがあるからである。その両者の理事長を福祉関係で動いていなかった私が知っているというのも不思議な話だ。昨年から福祉との縁が強くなったが、何か今後を暗示しているのかもしれない。

 30日は、山口の周南市に講演に行く。昔の徳山市と周辺の町が合併したらしい。九条の会などの市民団体が主催である。30名ほどの参加者で、話を詰め込みすぎたがとりあえず好評であった。懇親会も楽しく、集まったメンバーはみなそれぞれすごい活躍をされている人ばかりで、こちらが学ぶことが多かった。これは6月に小倉で、福祉関係者に話したときとよく似ている。翌日の31日が鹿児島の川内市での再稼働反対集会なので、早めに切り上げて戻った。

周南市での講演会

 韓国からのゲストの相手をしろといわれているので、朝5時に起きて、福岡市まで移動し、韓国人ゲストらと合流して川内へバスで向かった。集会が始まる頃に川内に着き、集会に参加した。川内での集会は、元川内原発反対現地青年部のみんなの協力を得て、私もそこそこ関与して実現したものだ。彼らと実行委の中心メンバー、青柳さんと記念の写真を撮る。デモになると人数が増えた。グルントヴィ協会の旗をもったKさんやTさんの姿もあった。

川内市での再稼働阻止集会

元川内原発反対現地青年部の仲間たちと

デモの先頭

 8月は前半がラダック、後半は岩手、名古屋、周南市、鹿児島川内とあちこちに飛び回る日々であったが、出会った人たちがすてきな人ばかりなので、充実していた夏だったと思う。

 ラダックでの来年のデンマークのオルタナティヴ教育にかんする国際会議の準備を進めていたら、予定したゲストのオヴェもヨーンも来てくれるという。SEBOLの会議では、私にも来てもらいたいということで、予定の5月を私が行ける8月に変更した。期待されるのはうれしいが、またラダックに行かねばならなくなったようだ。

 

2014年8月15日

川内駅前のカノコユリ

 しばらくぶりの更新である。7月は猛烈に仕事に追われた。予備校の仕事もすぐに講習会があり、大学は試験とその採点があった。その合間を縫って原稿を三本書き、また川内原発再稼働反対集会の会議で川内に行き、グルントヴィ協会の仕事(裁判支援の呼びかけ、盛岡協会談話会の準備)そして27日からのラダック行きの準備など、すべきことがありすぎて、ほとんど休む暇がなかった。こんなに忙しかったのは何年かぶりである。おかげでコンサートなども行く時間がなく、ゆとりのない月だった。その分、充実はしていたので、悪い気分ではない。

 やはり書くべきは27日から8月8日までのラダックへの旅だろう。兵庫の高砂の児島一裕さんの企画したスタディツアーであり、現地のNPOとの交流ワークショップも入れたものだ。去年から、なぜか私の参加が必須だと強い勧誘を受け、自分自身には行く必然性がなかったものの、こういう強い誘いでも受けないと多分生涯行くことはない場所だろうと考え、話に乗ってみた。

 27日に成田空港で参加者と合流する。日本人5名、アルゼンチン在住のチリ人一人という構成である。28日の朝5時の飛行機でデリーからラダックの州都レーに着く。かなりの強行日程だった。

 ラダックは標高3,500メートル以上なので、まずは高山病対策と言うことで宿のZIKZIKでゆったりする。初めはそうでもないかなと思っていたが、午後から体調が悪くなり、休養に務めた。

宿のZIKZIKから見た風景

 翌日もあまり回復はしないが、現地のNPO、SEBOL(社会に関与する仏教者たち・ラダック)との交流プログラムに参加し、彼らの学校の建設予定地の視察と私のデンマークのオルタナティブ教育の講演などした。後者はかなり刺激を与えたようで、議論や意見があいついだ。ラダックもインド政府の行う詰め込み教育、上昇志向の教育のために地元を去る若者が多く、地域の伝統や文化の崩壊が懸念されている。地域の民衆文化に立脚するホイスコーレ運動の教育のあり方はまさにこういう場所にこそ必要なのだ。

SEBOLとの交流ワークで話す

 ZIKZIKにいると、けっこう日本人の客も来ることに気づく。ここが、東京でジュレーラダックを運営するスカルマ・ギュルメットさんの親戚でもあるので、ジュレーラダック経由のツアー客はみなここを利用するのもあるが、私が思っていたよりもラダックは観光地化しており、日本でもツアーガイドが出ているくらいだった。日本人がこれだけ来るのだから、チベットに関してはより関心が高い欧米人はもっと多い。レーの街を歩いても欧米人の姿が目立った。

 翌日は芸術とアートのNPOを訪ね、その後はレーの街の観光をした。観光で来たわけでもないのでお土産なども買うつもりはなかったが、ガイドを読むとインド産のカシミアの生産地と書いてある。中国産よりも品質がよいと聞いたことがあったので妻への土産として買った。こういう場所のつねであるが、値段は交渉しないといけない。値切りなどできない性分なので早めに諦めて相手のいい値で買うことになるが、ツアーの仲間には半分まで下げる強者もいた。

 31日はレー郊外の孤児院に泊まり、子どもたちと交流する。ここでは子どもたちとイドラット・フォルスクとトロプスをすることを依頼されていた。二番目の出番である。日差しが強くて暑いので、夕方の涼しい時間にすることになり、それまでは仲間たちが紙芝居やケン玉遊びなどをして、50人くらいの小学生から高校生までの男児と交流した。イドラット・フォルスクは通訳を介してなので、あまり複雑なルールのものができなかった。しかし、子どもたちにも好評だった。

話を真剣に聞く子どもたち

イドラット・フォルスク

 8月1日は、スカルマさんの家に泊まり、家族のみなさんの接待を受ける。お母さんが貫禄があって、マニ車を回し、数珠を繰っていた。日本の昔の家族、一家に芯があってどっしりとまとまっている姿を思い出す。

スカルマさん(右端)の母(左端)と叔母

 2日からは車で5時間以上かかるワカ村へ移動し、ホームステイをする。私とY君がお世話になったのはタヤスさんというまだ30代の教員夫婦の家だった。

ワカ村

 2日はスカルマさんの親戚の子どもの誕生を祝う伝統的な行事にみなで参加した。100人ほどの親戚が集まり、食べたり飲んだり踊ったりを朝から夜遅くまで行う。楽しい催しだったが、ここで何かにあたったか、嘔吐してしまう。ホームステイ先の家に戻っても下痢が続き、ほとんど胃の中が空っぽになるまで苦しんだ。こういう状態だったのでホームステイ先のみなさんとはあまり交流できなかったのが残念だ。それでも気を使っていろいろ配慮をしてくれた。

伝統行事に集まった人々

 3日にはこの村にある学校でイドラット・フォルスクのワークショップをする予定になっていたが、オーガナイザーでもあるスカルマさんはSEBOLに話したデンマークの教育の話が気に入っており、彼の発案でイドラット・フォルスクよりもデンマークの教育の話をすることになった。体力が落ちていたので、こちらで助かった。対象は高校生の子どもたちだったが、教員たちの方にインパクトを与えたようだ。

紙飛行機を飛ばす子どもたち

 その後はまたシェイ村に戻り、チベット仏教の寺院などを見学する。 5日はSEBOLの人たちが、お礼にとメンバーをレストランへ招待してくれた。ここで来年の5月にデンマークからゲストを迎えて、彼らが日本のNPOとやっているWisdom Forumという会議の場で、デンマークの民衆教育の会議をすることを提案された。友人のオヴェやヨーンに来てもらえれば大いに意義がある。さっそく引き受け尽力する約束をした。私も来てほしいということだが、5月はまず仕事で長期の休みがとれないので、これは断らざるをえなかった。

ティクセ寺院

 こういう打合せに気を取られているとツアーの仲間たちが、私の誕生パーティをしてくれた。ツアーの最初の日にたまたまそういう話になり、8月の5日が誕生日だとうっかり告げてしまったが、みんな忘れていたと思っていた。それがケーキにキャンドルにほしいと思っていた数珠のプレゼントで、こんなにうれしい誕生日は人生でもめったにない。ツアーの仲間に大感謝である。

ラダックのフォトアルバム

 6、7日はデリーに出て、インドの今の姿を見る。人が多く、活気があり、成長している国はこうなのかとそのエネルギーに圧倒される。とはいえ、インドはその潜在力からすると発展は遅すぎるほどなのだが。

 ここでも仲間が買い物をするというので、時間つぶしに靴磨きを頼んだ。ラダックでほこりにまみれて白くなった黒革のウォーキングシューズを見て、通りで次々と靴磨きの人たちが「安くしとくよ」「これは磨かないとダメだ」とひっきりなしに声をかけてくるのに疲れたので、じゃあ磨こうかとなったのである。最初は50ルピーといってきたが、20ルピーでないと磨かないというとそれでいいという。50歳くらいのおじさんで、道具は粗末だったが、仕事ぶりは丁寧で30分かけて磨いてくれた。相当に汚れて傷んだので、日本に帰って買い直すしかないなと思っていたら、新品同然にきれいになった。磨いているあいだに世間話をして、彼の家族のことなども聞く。四人の子どもがいてみな独立し、これで十分に家族を支えてきたそうだ。仕事に対する誇りがあった。終わると「いい仕事ぶりだ。釣りはいらないよ」といって50ルピーを渡すと彼はニヤリとするのだった。

ガンジーが凶弾に倒れた場所

 デリーでは他には、ガンジー博物館へいった。ガンジーが晩年を過ごした住まいが博物館になっている。展示自体はあまりたいしたものではないが、彼が暗殺された場所に行くとやはり感慨にとらわれた。展示の文字の中に「インドが生みだした仏陀以来の偉大な人物」というものがあった。やはりインド人でもそう思っているのかと妙に納得した。倫理的な生き方だけではなく、彼の社会思想、コモンズに立つ経済思想に学ぶところは現代こそ大きい。

 8日に日本に戻った。ツアーの仲間たちとも名残惜しく別れを告げる。観光ではなく、一つの使命をもって行った旅なので、あまり休暇にはならなかった気がする。またラダックのことをよく知らず、また多忙ゆえに知る暇もなくいったので、吸収すべきものを吸収していないということもあるだろう。体調的にも前半は高山病、後半は下痢嘔吐といまいちだった。しかし、何かを与えてくれた旅であったことはたしかだ。

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