筑後川

1、

 鈍色の空。黒ぶちの大きな窓ですかし見た。筥崎宮の杜を眼下に、僕は県立図書館の三階、郷土資料室に立っていた。歩きながら、思いとまった本をとり出し、頁をめぐって、斜めに読む。

帰リ来ッテ河水ニ笑ヒ
刀ヲ洗ヘバ
血ハ奔端ニ迸ッテ
紅雪ヲ噴ク
頼山陽「筑後川ヲ下ル」

 

 南北朝の争いのもと、忠臣菊池武光が、血のりで染まる太刀を洗ったゆえんで、太刀洗の地名となったという。ここはまた先の15年戦争でも幾多の悲しい記憶をその飛行場にもっていた。

−廿一年夏六月壬辰朔、甲午、
近江毛野臣、衆六万を率いて(中略)
任那に合せんとす。
ここに筑紫国造磐井、
ひそかに 叛逆をはかりて猶予し
年を経ぬ
「日本書紀継体紀」

 

 石人石馬の芸術性のすばらしさ、その質量感は日本の伝統美術の流れのうちに例を見ない。質実剛健の武勇、磐井は、しかし、村おこしの旗手として、古代の白装束で丘陵に甦る。

  岩戸山古墳沿いの道を北へ上り、広川を通ってさらに行げば久留米国分の町へ至る。

古今稀なる大戦さ、
わが大君の御威徳は
神州男子の魂と、
共に念なく発憤し、
陸海軍人引続き、
遼東指して出征す
旅順満州蹂躙し、(中略)
世にも名高き敵国は、
ウラルの西に退きて
金州半島風凪ぎぬ
ああ大日本帝国民、
ああ四十八連隊
万歳万歳万々歳
「明治三八年福岡県戦時事績」

 

 そののち同所に第18師団司令部と第56歩兵連隊がおかれる。現在の自衛隊はそれを襲うものである。軍都久留米ゆえにこそ、ゴム、化学工業が発達し、商都久留米を支えた。もとは筑後地方の農民の野良着として重宝された久留米絣を全国にひろめ、その令名を高めたのは、西郷戦争(西南戦争)帰りの官軍兵士たちであった。

  こうして筑後の歴史をふりかえるとよい。すると人はみな戦さをうたう。誇りをこめてであれ、反省をこめてであれ。たしかに戦乱は常ならぬ ドラマをもち、人の可能性の極限を垣間みせる。感情の沸騰点と氷点のいづれをも同時に示して、ダイナミックである。だけど僕はそれでも問い返したいのだ。たとえ軍神や忠臣や開拓の義民の石碑の前であったとしても。曰く「平和のうたはないものか」と。

  平和のうたとは退屈なものだ。今こうして歩いている晩秋の午後のひかりの中のようなものだ。陽のひかりは冬至を前にして、斜めに弱い。風強く、雲を散らしとばしちまったが、そのおかげでの澄みわたる蒼空だ。

  歩くときは水天宮の下がいいと思ったのはもう何年も前の話か。土と草の感触が足に愉悦をもたらすどころか、今ではすっかりコンクリートかラバー・コートのたぐいがひたすら靴底をすりへらす。長門石の方に沈む夕日は島育ちの僕にはとんと縁のなかった大平野地帯の醍醐味を味わわせてくれたのに、このところ人工的な直線のマンションなるものが醜怪にそびえ立つ。

 平和なときというものはこんな産物で満たされるのか。いや断じてそうではあるまい。歴史のドラマトゥルギーが戦乱に代表される有為転変の波濤ではあるとしても、平和の民心は、河底でゆっくり揺れる小石や砂粒のように丸い角のないものだ。筑紫次郎のたゆたいを見てみるといい。鋭角のカドもときほぐれて、いい女のからだにも似た蛇行を示す。たまには時化るし、洪水もあるが、それで昔は田畑をこやした。

 久留米なんぞ、昔は人の住む処でなかった。田中吉政が柳川に城を置いたのは、あまりの河の氾濫に、はながら久留米に居城する気がなかったからという。 灰色のコンクリートとダム、悪名高い筑後大ぜきで制御されたあとは、河岸の菜の花を咲かせても、もはや田畑に奔流することはない。化学肥料と除草剤と農薬が、地味をおとし、伏流水を汚染する。万衛門車(1)を踏む農夫も消えた。瀬渡し船のおっさんもいない。川を渡り切る子どもの姿もない。まあしゃん(2)も鯉をとることがない。平和のうたはどこへ行った?それともこれが平和のうたなのだろうか。

  戦争が終わり、外地の者が九州へ引揚げ、筑後へ戻ってきたとき、地の者は引揚者をねめつけたそうだ。農地解放で大地主たちから肥沃な大地が小作人や小農たちへと移った。みな中農に成り上る。かつての土地持ちへのねたみが、今度は持たざるものへのさげすみとなる。 八女出身の五木寛之は、デラシネの哀しさをよく語る。福岡に帰りたいとは思っても筑後に寄る気は全くしないとまでいい切る。土地持ちに入るはずの詩人の松永伍一ですら、同じ感慨をもつという。八女出身の彼は人に問われたらつねに「柳川出身」と答える。中農の心の哀しさ、心の貧しさを知っていたのだ。

  僕の友人、同志ともいえるTさんが、生まれ育った鹿児島をあとにして、この十月田主丸へやってきた。貧しいシラスの土地を耕す百姓育ちの彼にしてみれば、ときおり所用で訪れた田主丸の平野と山辺の緑の厚みが信じられぬ くらいの驚きだった。住むならばここと決めて出てきたTさん、だけどあんた土地持ってるのかい。借地じゃ肩身も狭かろう。

 平和は土地をもたらした。しかし、うたをもたらすことがないのだろうか。筑後川沿いを歩く僕の感性は、この問いを僕につきつける。 聞くところによると、この岸の土の奥深く、さらし首にされたされこうべの師父たちが眠っているはずだ。神にも仏にもならず、それでも百姓の尊厳かけ立ち上り、平和のうたを末代にのこそうとした師父たちが。 (2へ)

(1) 万右衛門車 川から田に水を運ぶ足ふみ水車
(2)鯉とりまぁしゃん 田主丸町にいた有名な鯉取り名人。冬に川底深くでじっとして動かない大きな黒コイを潜って抱きかかえるようにして取る。

 

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