櫨(はぜ)並木

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 追い込みの季節には、自習室や図書館で、黙々と勉強している受験生の姿を見かけるようになる。その光景を見ると僕は映画のワンシーンを思い出す。

 映画自体は鮮明におぼえているというのに見た日がいつだったのか僕は思い出せない。秋だったろうか。親友のフランクに誘われて彼が勧めるのならということで、同行したのだった。「Himmel ueber Berlin(邦題、ベルリン・天使の詩)」。同じ頃日本で、ヴィム・ヴェンダースのこの佳品が好評を博していたとはつゆ知らなかった。脚本はペーター・ハントケ。ドイツ語圏の作家としては今最も優れた一人の手になるものと聞いては、少々身構えざるをえなかった。

 キリスト教世界では、天使は知をつかさどるのが習いだ。ギリシアの伝統と邂逅して以来、知性(intellectus)こそが神を捉えるものとなる。そんな訳からか、映画の中、天使たちは図書館に一杯いて、人々の思索を見護っていた。

 ある人が行きづまるとさり気なくヒントを与える。これがインスピレイションというわけだ。彼らの姿は人には見えない。肉体を持たず霊的な存在だから。永遠の生命を持ち、死ぬ ことはない。死とは肉体ある者、この世に在る者にだけおとずれる。

 彼らはあらゆる所に存在する。居間でも街頭にもディスコティックにさえも。でも一番多いのはやはり図書館なのだ。この伝ならば受験生の耳もとで、それは違っているよと囁いている天使たちが、自習室や図書館にもきっといるだろう。

  映画では一人の天使が主人公だ。羽根を持つということから、サーカスのブランコ乗りの女性に恋する。でもそれは天使には禁じられたことだ。なぜならば、彼には肉体がないから。

 感性というものは有限な肉体を持つ者にだけ与えられている。愛することの喜びと情熱(passion)は、はかなきこの世に在る者しか持つことができない。人は永遠の生命を持つかわりに、この世に霊の宿る身体を持つことになった。

  そこで彼は天使から人間となる。永遠の生命とひきかえに、感性的存在・身体をもらう。これは他の天使のあまり好むところではないけれど、彼女を愛した以上、この世に在る者となるしかない。でないと、彼女の頬にふれもできず、僕は君の前に、と語りかけることすら叶わない。

 とたん、白黒だった画面がカラーになる。黒のコートを脱ぎ捨てた彼は、原色まじりのキッチュなフレザー姿になる。彼はこの世に在ることが嬉しくてたまらない。道行く人とあいさつをかわし、インビス(ハンバーガーなど売る店や移動販売車)でコーヒーの熱さに痛くも感動し、堕天使の先輩ピーター・フォークと握手をする。何か無性に叫びたくなる。僕はここにいろんだ、とうとうここへ来たのだという気持ちが言葉にならぬ 叫びとなる。

 感性を持つということは、つねに外からの働きかけを受けるということだ。それによって様々の感情が内に喚びおこされる。あるときは感動、あるときは苦悩でもある。ちなみにドイツ語の苦悩、(Leiden)は受動という意味でもあるし、passion(情動)とpassive(受動)は同じ語幹である。

  私たちとともに常に世界というものが現前する。その世界が自己を捉われなく現わし出すときに、世界は美しい。花はありのまま咲くときに美しさを現わし、樹々は光の中で空を覆う如く力の限り枝を伸ばし葉をつけるときに、美しい。眼に緑の光が入り、耳に鳥の声に川のせせらぎの音、香り高い杜の薫風が肌をさするとき、心はこの世にあることの喜びで満たされる。

 ときには、外からの働きかけが私たちにとって疎遠なものとなり、どうにもならぬ 不条理さをもって押し迫ることだってある。このときが悩みだ。余りに過剰な重さにときとしてつぶされることもあるけれど、これもこの世に生きてあるしるしなのだ。

 外からの働きかけが一方的でなく、恰もゴムまりのような弾力性で、はたらきはたらきかけられする相互的なものならば、互いに能動的でありつつ受動的であることができる。自由で伸びやかな感情というものが可能になる。それは相手が人間であってはじめて成立するようなものだ。これを愛と呼んでもかまわない。だとすれば、愛はこの世に在る者に許された自由な感情と言えるだろう。

 地上に降りた天使は、だから恋した彼女を捜した。彼女との出会い、もちろん彼女の方もこの人が自分の会うべき人と予覚していた。こんなふうに人がめぐり逢えるならば最高である。映画を観ていた誰もが胸のときめく場面 だったろう。

 この映画は僕のドイツ滞在の想い出が一杯に詰ったものとなった。一つには人との出会いと別 れ、それに全身で、ベルリンも含めて中欧のめぐり移る四季を味わい濾過して、きめこまやかなイメージの連なりをえた過程がこの映画のストーリーにつながるということもあるけれど、ずっと心中考え抱いてきた思想のモチーフと同じものがスクリーンでも語られた嬉しさがあったからだ。見も知らぬ ペーター・ハントケと旧知の友人になった気がした。

 僕がずっと考えてきたこと。人がこの世に遣わされたことの意味。死が怖いわけではないが、たとえ彼岸に救いが待ち受けていたとしても、目を閉じた瞬間、透明な水面 、水うちはねるセキレイの姿、幾重もの同心円の軌跡を残し泳ぐアメンボウ、七色に変化する叢雲、散乱するさざ波のような木洩れ日、大きな楠の下の杜に佇み両手をあわせる老婆、その背中に鎮守の森の録をいっぱい瞳に映した赤ん坊、これらすべてを包む半円球の蒼穹、その中に撤きちらされる虹色の光のかけら、こうしたくさぐさのものを二度と見れなくなることが哀しかったのである。

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