道徳論の体系(1812)
J・G・フィヒテ

System der Sittenlehre 1812
Johann Gottlieb Fichte


 道徳論は哲学の一部門であり、知識学ではない。道徳論はそれゆえかくかくあるという事実から出発する。それ以上の証明にかかわりあうことはない。全体からその事実の証明や演繹は知識学のすること。だからここにあるのはただ一つの前提だけで、この前提から帰結するものを示すことが道徳論なのである。道徳論はそれゆえ導出であり、しかも一つの哲学的な派生の学問である。つまり、知識論、意識の事実の理論なのである。しかし、道徳論がたんなる前提の分析であるということから注意をそらすべきではない。なぜならそのことによって、道徳論は明晰性やその範囲の限定において得るところが大きいからである。


I 道徳論の事実

 概念は世界の根拠であり、自己が世界の基礎であるという絶対的意識をもっている。すなわちこの関係の反省をもってということ。われわれが関わるべきはこの主張の分析である。すなわちいかにしてこの主張は可能なのか、何をそれは前提としているのか、そしてそこには何が含まれているのかを問うことである。1、概念は、世界の対立物としては、たんなる映像である。この映像には何者も対応しないし、対応するものがないものとして意識に現われる。それゆえ、概念の内にあるこのようなもの、つまり絶対的に形像的なものにわれわれは注目する。概念はわれわれにとっては純粋に自立した映像であり、コピーや模像ではない。絶対的に最初のものであって二番目のものではない。

2、概念は自己が根拠となるべき世界の模像ではない。というのも、概念がまさに世界の根拠であるから。それゆえ世界は概念が世界の根拠にならなければ存在しない。それゆえ世界は概念があることで存在するのではなく、概念が根拠となるから存在し、そうなることによって世界も存在するようになる。われわれは世界つまり存在ーそれの根拠は概念であるがーをここではあらゆる世界、存在として、絶対的で唯一可能な存在として考察する。というのも、道徳論は少なくとも概念によって根拠づけられた存在以外のものを知らないからである。

3、同様に概念はほかの世界あるいは存在の模像ではない。なぜならば、そうだとしたら概念は世界の根拠ではないからである。そもそも最初のものではないだろうし、このほかのより高い世界が概念を介して、そして概念を通すことによってこのより低い世界の根拠になるというようなことになるからである。しかし立てられた命題にはそのようなものはない。この命題はa)自分自身を超えていかないし、自己を制約された相対的なものとして説明することはせず、ここでは絶対的で、われわれの学の限界を記述するものとしてある。それは概念と世界をこの関係において知っている。b)それが根拠について語るときは、絶対的根拠、第一の自立的な原理を語っている。

 それゆえ、われわれが語ったように、概念からつくられる存在が道徳論にとってはあらゆる存在であり、それ以外の存在はない。

 哲学全体では、この概念や映像が最高存在からの映像にすぎないということは見て取れるかもしれない。実際知識学がそれは神の映像であるとしたように。しかし、道徳論はそれを知らずまた知るべきではない。道徳論が立っている反省の立場では概念は神の映像ではない。ただ道徳論はこの立場を表現するだけであり、他の学の扱いは混乱させるだけである。道徳論は神については何も知らず、ただ概念自体を絶対的なものと見なさなければならない。そこまでが道徳論の反省が及ぶところだからである。
 私はこのことを二重の観点から注意した。1)学問の純粋性と区分に対する学問的な公理として、2)そのことによって道徳論は哲学でなく、その最高原理を道徳論とする哲学は完了しなかった(カントのように)ということを示すためにである。
 そこでここではさらにこのことにかかわろうと思う。道徳論は、一つの可能な意識において概念のみを考察する。この可能な意識では、概念は概念あるいは映像として現れ、それゆえ概念は映像の概念一般に包摂されねばならず、したがって、そこにある概念は単なる映像以上のもので、映像の表示ないしは実例であり、規定され、質的でかくかくの性質をもった映像である。そのような意識において概念が考察されるのである。

 主要な注
 したがって道徳論は純粋で絶対的な映像、あるいは理念的形相(Gesicht)の上に立脚する。この映像はすでにいったように対応するものをいっさいもたない。道徳論と道徳を主張するものは絶対的で自立的な映像の世界を主張することになり、またそうしなければならない。このことをつねに洞察できるようにするために私はそれゆえ事柄をとくに単純にかつ個別的に示したのである。道徳性にとっては精神が第一のものであり、唯一の真なるものである。この精神から、そしてこれに従って初めて世界が道徳性に対して生じる。このことを受け取らずして道徳をいかにして語るのか、私は知らない。しかしこのことはすぐに明晰になるので、これ以上語ることはやめよう。

II 概念は世界あるいは存在の根拠である。世界ないし存在はここでは映像の対象、もしくはある映像において模像されたもののこととをいう。これは意識においては模像されたものの映像として現れるが、それゆえ模像された当のものががなければ存在しないものである。それに対し、模像されたものはこの映像なくしても存在するものとして形像されている。したがって世界、存在は純粋ではないある映像の対象のことをいう。

 注
 他では書かれないようなことがわれわれにおいては多く記述されること(たとえばここでは存在を定義しているが、ふつうは存在は定義されないという命題が妥当する。しかしこれがあらゆる誤りの源泉だったのだが)そしてその場合、他の哲学者におけるのとは違った記述になっていることは知識学においてはそう驚くべきことでもない。

 ここでは、あらゆる個別の学においてそうであるように、現象(das Phaenomen)は純粋に事実として記述され、それはそうあるのだと語られる。その結果、学ぶ者はただそれを見て承認する必要があり、そのような記述において再発見しなければならない。それに対し知識学は演繹し、そうであるとはいわず、そうでなければならないという風に語る。

a)われわれはここではそれゆえあらゆる概念の二つの映像をもつ。自立的で純粋な映像と客観的なAbbild(模写)、模像である。各人は直接的な意識の中でその性格、つまりある時は映像一般として、ある時は映像の外にあるものに関係あるものかつ関係ないものというより細かい規定をもって、その性格を携えている。両者はそれゆえただ対立においてのみ可能であり、すなわち相互に相手を通じてのみ概念把握される。

b)それゆえ存在はここではその客観的な映像、すなわち概念のうちに解消される。別の言い方をすれば、概念によらなければ、存在は規定できないし、意識にあらわれることもない。その意識はもともと概念によるこの存在の根拠づけがあらわれるべきところなのだから。それゆえ立てられた命題は次のように表現できるだろう。「純粋概念は意識においては客観的な概念の根拠となる。一つの意味における概念は別の意味では自分自身の根拠となるのである」。[生命としての純粋概念と概念の対象化としての存在]

III、概念は存在の根拠である。存在はたんてきに概念によって生成し、創造される。あらゆる存在は概念によって創造される。概念によらずして存在はない。それゆえ、道徳論では概念の世界、精神の世界が第一のもので唯一にして真なるものである。存在の世界はただ二番目のものにすぎず、精神の世界があって初めて存在するものである。したがって道徳論は純粋な精神界を主張しなければならず、唯一にして真なるものとしての精神界から出発しなければならない。道徳的そして倫理的とはただこの精神的なこと、精神のうちにあることをいうのである。

 精神的なものを第一のものとして認めない者には道徳性の言葉なんぞ何ら意味がないであろう(ここではごく簡単に、私の思うに非常に明瞭に語られれば、このことがただ本来的なまじめさとして受け取られねばならない)。自然哲学では道徳性の言葉は意味をもたず、世界が最初のもの、真なるもので、概念は世界の模像にすぎない。自然哲学が概念の原因性を示すためになしている仕方はたんなる仮象にすぎないのである。自然哲学にとっては概念は客観的な世界の概念である。世界はそれゆえ概念を迂回してまた自分に戻るだけである。この哲学はたんてきにいかなる道徳哲学にも対立している。しかし概念によっては創造されない存在が世界と並んで存立できるのはいかにしてか、これはいかなる意味において存在しているのかを説明することは、われわれの分析の道がなすことである。

 「概念が存在の根拠である」という立てられた命題は、「理性あるいは概念は実践的である」というようにも表現されることができる。この命題なくしてはいかなる道徳論の思想も不可能である。われわれの命題「概念はあらゆる存在の根拠である」によってほんらいはもっと多くのことを語ったのである。二つの表現がいかなる関係にあるかが示されねばならない。
 注
 法論での根本命題には、ひとつのSollがあった。つまり、多数の自由な存在者が互いの自由を邪魔することなく、相互に生存すべきであるというsollである。道徳論ではそれはなく、それゆえに演繹されなければならない。[これはおそらくイエナ期でもそうであろう]
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 われわれは「概念は世界の根拠である」という命題の簡単な分析を与えた。しかしその際、「それがそうであるという意識をもって」という規定も付加した。ただこの付加条件を介してのみ道徳論はあらゆる哲学─少なくともわれわれが立てる─から分離されるのである。

 そうするとわれわれには新しい課題が生じる。意識の形式の中で概念が世界に対する関係を示すこと、あるいはまた概念が根拠の存在であることの意識を記述するという課題である。われわれは最初の課題にかかわることで、後者の課題が同時に明らかになるだろう。後者ではまさに根拠存在はこの意識の形式における根拠存在であるからだ。われわれの課題はそれゆえかかる意識の分析ということになる。

 注意すべきことは
 1)われわれはここではただ道徳論だけにかかわるのであり、これをすべての知と見なし、それ以外には何も知がないかのように振る舞うということである。それゆえ他の観点からも考察できることを、ここではただこの道徳論の観点からのみ扱うのである。

 2)しかし道徳論は特殊な学の系列においては高い位置を占め、それよりも高いのは宗教論だけであり、それ以下には法論と自然学をもつ。道徳論から得られた観点は実際にもっとも真理で正しく深いものであるだろう。道徳論で得られた反省点がまさに他の学の誤りを正するのであるから。それゆえ道徳論を立てるという本来的な目的を抜きにしても、この研究からまったく新しい光を一般的な知識学の真理に当てることもありえるだろう。このことが生じる場合には、私は途中で指摘するだろう。

 問題は、概念の根拠であることを意識の形式において記述することである。

一般論:
 この根拠存在の関係と根拠存在そのものであることはその反射(Reflex)を伴っている。あるいはより正しく、鋭く深くつかむために、われわれは両者の中間点に入ってみよう。関係の存在とこの関係の反射はたんてきに分離できない統一である。存在は本来的にはただ反射のうちにあり、しかもその投影としてある。逆に反射は実在的なものとしてあり、すなわち存在を定立するものである。

特殊論:
1)あるものの根拠存在、ここでは概念の存在は、直接的な意識(直観)においては非存在(すなわち根拠存在ではないもの)から存在(根拠存在)への移行として、つまり原因性としてあらわれる。いたるところでそうであるように、ここでもまた直観は直観されたものの生成(Genesis)の中へと自己を措定し、直観は存在が非存在から存在へと生成するのを見るのである。直観は根拠存在を直観的となすために根拠存在に対し非根拠存在を必然的に前提する。直観それ自身は両者の間の手段(仲介)の映像、一方から他方への移行の映像である。

 概念が自己を根拠として直観するということは、それが根拠存在の行為において自己を直観し、まさに否定から肯定へ自己を引き離すこととして、その存在に行為を付け加えるということである。「行為」それはまた存在と非存在の媒介、移行を表すのに適した表現だろう。

 かくしてこの形式において概念はその根拠存在の所与性(事実性)を直観するだろう。そして本来、この直観によって存在は一つの所与性(事実性)となる。それゆえ客観的に直観されたもの、見いだされたものは変化するだろう。それはすなわち概念の非原因性から原因性への移行である。
2)より高いところにあるもの、そして第一のものによって初めて導かれるべきだったことは、すなわち前提に従えば、概念はたんてきに自己自身による根拠なのである。なぜならそうでなければ概念は根拠ではないだろうから。根拠存在の概念のうちに「自己から、自己により、自己によって無媒介に」ということが含まれている。この根拠の概念を理解する者は誰でもそう理解するだろう。

 概念が自己を根拠として直観するというのは、概念が自己自身において根拠存在に対する無規定性から根拠存在に対する規定性へと移行するとして自己直観するということ。それも他者によるのではなく(その場合はなんら移行ではないし、行為的自立的なものではないだろう)たんてきに自己自身によってという仕方での移行である。それゆえ概念が自己自身による根拠として自己を直観するとは、根拠存在に対して自己規定するものとして自己を直観することである。

 概念はそれゆえ根拠存在という直接的な意識において自己規定するものになる。それはいわば概念の内容によってではない。なぜならばこの内容はたんてきに前提されるからである。そうではなく、根拠存在となるということは、たんてきに自己自身によって根拠存在の可能性からその現実性へと押し流すもの、まさに絶対的に現実性へと自己創造することである。この自己規定が所与性(出来事)における客観的な移行の根拠であることとして今や再び直観される。それについては私が1)で語ったとおりである。

 今や集中的なより鋭い分析へと移る。そこではあなたがたはこのことを一緒に行い正しさを確信することが要求されている。

 概念が存在根拠として直観されるということは、それが不活動性・非作用性から作用性へと移行するものとして直観されることである。これは一つの所与性(出来事)であり、それによって作用性と非作用性が相互に結びつけられる。そこにおいて、直観は非作用性から作用性へとその移行点を通じて受動的に一緒に進められる。今や再び概念は、作用性をめざす絶対的な自己規定によってこの所与性(出来事)の根拠である。この自己規定はたんなる可能性から作用性への創造的で絶対的な昂揚を含んでいる。この[最初の移行とは]まったく別物である二番目の移行もまた直観され、直観のこの二つの主要部分は、原因と結果、絶対的に見られたものから見て取られたものという形で再び結びつけられる。意識全体は五重性をもち、それぞれ二つの部分を移行としてもつ二つの主要部分とそれらを結びつける五番目の部分である。ここには意識あるいは映像の絶対的な創造能力がある。われわれはそれゆえ意識のあるいは映像の絶対的な創造の力を見いだす。このことが論理学において講義された変化の学説、つまり自己現象とその形式によって根源的な現象が変化するということの一つの事例を与える。

 この直観の本来的な中間点が現実的な根拠存在である。ところで直観、あるいは直接的な映像の形式、反射の形式が本来与えるものは、根拠存在のたんなる一つの可能性であり、根拠存在の現実性に対する一つの開始点にすぎない。(能力と可能性は現実的なものではなく、ただわれわれの思惟の系列にそれを取り入れるために現実性よりも前に考えるものにすぎない)。いわれたことをよく銘記してもらいたい。われわれはそれゆえたんなる可視性によってもたらされた根拠存在の可能性に注意を向けることにしよう。

 以下に述べることとこの研究の全体を明らかにするために注意を一ついっておこう。

 われわれは語った。「概念、概念そのものが根拠であり、他のいかなるものも根拠ではない」。この公式における特別なものは比喩的かつ形像的に語られているだけではなく、まさに言葉通りに理解されねばならない。その分析に全学問がかかっているのだから。

 この字義的な意味に常識は逆らい、それに取り組もうとせず、聞き逃し、いわれたことを別のものに置き換えてしまう。概念は根拠であるということを常識は直接には理解せず、概念は死せる思想であると考える。カントが一度素朴に問うたように、思想自体が再び考え、その上行動できるのか?と。もちろんそんなものではなく、概念は人間の中にある思惟しかつ力のある実体を介して[初めて]根拠であると常識は考える。誰がそのようにひどく誤解するだろうか(誰もしない)?カントの「理性は実践的である」という公式も同じように受けとられ、誤解されてしまった。(もっともカント自身もそれをいかに受けとるかについてはいつもはっきりしていたわけではないが)。さてわれわれにおけるように「意識において」ということがそれにつけ加えられれば、誤解は完結する。「わたしがもつ意識それゆえ私の意識において、概念は私自身によって、一つの自我によって現れ、それを介して概念は根拠となる」。しかし、まさにこの推論の前提がもともと間違っていたらどうだろうか?自我が意識をもつのではなく、意識が自我をもち、意識が自分から自我を創り出したとしたらどうだろう?こういうものは知識学なら別に驚かない思想であるが。そしてわれわれによって立てられた道徳論の原理がもっとも適切な洞察をなすところの一つであるならば、どうだろうか?人はそのような拙速の飛び越えによって、われわれに与えられた教えを奪われるのではないだろうか?われわれの語る概念が、意識の形式と意識における自我の形式、思惟する力に満ちた実体の形式を受け取るものそれ自身であるならば、概念がこのことをいかになし、その変化をどのように被るかを最初に見る必要はないだろうか?それゆえ定式を文字通りに受け取らねばならないのではないだろうか?

 このことはまさに私が常にいってきたこと、すなわち「哲学は純粋な思惟である」ということなのだが、しかし人々は一般にまったく認めず、それゆえ彼らは哲学を理解しない。人が彼らに何をいおうとも、与えられた例の通り、彼らは直接の直観形式でそれを理解する。この直接的な[日常の]直観形式が彼らにとっての事実であり、これらの生成に入り込み、純粋な思想がそれらといかに関連し、直観形式にくるまれるか─まさにかかる洞察に哲学の本質があるのだが─を見るために、何よりもまずその直観形式から距離を置くべきなのだがそれをしない。一般的に語るのはここまでにして、本論へ行こう。

 われわれが見いだしたことは、概念の自己意識はその原因性においては、原因性への絶対的自己規定の直接的で内的な直観であるということだ。客観的直観におけるその原因性はその内的直観に直接的に対応し、内的直観から生じている。これがさきほどの五重性の意識の核であり中心点で、意識の事実である。

 私はさらにいおう。この意識はすでに述べたように、いくつかのことを前提する。この意識はおのれの可能性のためにいくつかのほかの分肢を措定する。意識の絶対的な存在、つまり概念の原因性を意識の形式に絶対的に受け取ることによって、意識はそれらの分肢をもつのである。この前提されたもの、あるいは間接的にはこの措定された分肢とはいったい何か。分肢は最初は複数ある。のちにはわれわれはこれらを統一にもたらすだろう。これはわれわれの先の問、意識一般の形式の問に従属する課題である。

 概念はたんてきに自己自身を現実的な原因性として、つまりたんなる原因性の可能性から現実性へと高める形で規定する(意識の発言によれば。私はこの定式をいつも付加するのではないので、あなたたちがそうすることが期待されている)。それゆえそのような概念の自己規定が必要なのである。それがなければ、概念の存在だけでは概念は根拠にはならない。しかし、概念はそのたんなる存在だけで、絶対的な自己規定があればそのような現実的な根拠となりうるという可能性(能力)はもっている。[形式的生命?]

 したがって概念は意識の形式においてはたんなる存在の場合、生命一般、形式的生命である。それは、自己自身によってたんてきに現実的生命、自己を外化する生命となれる可能性をもっている。それは絶対的に自由な生命であり、生き生きと自己を外化もしくはしないことができる生命である。

 しないことができるということに注意しなくてはならない。自己を外化するしないはそれがたんなる存在による形式的生命であること、つまり自己規定の能力であり、それだけで可能である。前提のこの分肢によって今や概念は生命と総合され、具体化される。その結果生命に貫かれ、それは生ける概念、概念把握するつまり概念の形式にしたがって現れる生命となる。

 意識の可能な事実によってひとつの概念の原因性に前提された諸分肢はまた統一へと把握されうるだろうということを前に言ったが、私はここでそれを思い起こさせたい。この統一、そこにおいてひとつの概念の意識の全統一形式が原因性のうちにあるのだが、それが発見されたのである。それは概念を生命性の形式の内へとうけとること。概念と生命性の総合である。概念の原因性を直観するために意識の形式がたんてきに概念に付加しなければならないものが、まさにこの生命なのである。それはまたちょうど原因性から直接に明らかになるように。

 ここで知識学の中心点が明らかになるだろう。たんなる形式的な生命が一定の質をどのようにして得るのか、またどこから得るのかという問いは知識学のもっとも困難な課題の一つである。現象は現象一般ではなく、自己規定する概念の現象、つまり絶対的な神の現象であるのと同様の問である。ここにそれがある。純粋概念の絶対的内容とそれとの具体化によって、生命はこの内容、概念の内容をもつのである。概念はその概念形式をただ現象の自己把握によって獲得するが、それゆえにこそ純粋な生命の規定としての質、内容は概念から純粋なままにとどまる。これを把握すると知識学の大いなる理解の利益がある。

 したがってこの自己把握する生命はたんてきに自己規定する。何のためにかといえば、現実的な原因性のためにである。現実的な原因性は自己規定によって、そしてそれと同時に直接に(意識の発言によればそのように現象するのである)可能性から現実的な原因性、原因性の現実性への移行として生じる。それゆえ現実的な原因性への可能性(能力)は前提されており、しかもたんなる概念の存在だけによって措定されている。生命はたんてきに実在的な原理であるという可能性(能力)のことである。

 それゆえ実在的な原理一般があるがそれは形式的意味においてである。形式的と私はいうが、その意味はそれが現実的にあるという意味ではなく、たんなる自己規定によってそのようになることができる(可能性)ことを意味する。

 大事なことはそれが通例生じるより以上に実在的な原理とは何かをはっきりと洞察することである。人は一般にはそれを存在の根拠、世界の根拠などと説明する。そこでわれわれの研究を始めてみよう。今やこの根拠存在が完結されたとしたら、それ以前になかった新しいものとはいったい何だろうか?概念の外、その生命の外で概念と作用性の写し取られたものがあることになるだろう。写し取られたものは概念がただ自己の内にあったために、以前にはなかった。これが今や概念の外にある。いったいこれは何であるか?それはたんなる受動的で客観的な直観のうちにあることになるだろう。したがってわれわれは上の定式に戻るのである。すなわち、その形式の一つにおける概念、純粋な概念は、別の形式、つまり概念から独立した存在のたんなる模像として概念が考察されるところの客観的な形式において、自己自身の根拠であるということである。それゆえ、概念が自己自身の根拠ということは、自己の内的な存在を自己の外、客観的な存在のうちに措定することである。実在的な根拠になるという能力をもつということは、一つの映像、概念の内的な本質を刻印されたものを自己の外へもたらす能力をもつということである。すなわち概念は絶対的に自由で、かつ実在的で客観的な力である。

結論:生命は自己自身を内的に規定する能力であるが、この自己規定によって絶対的に自己の外に存在を創造する根拠となる能力である。

 お気づきのように、われわれはこれまで、概念の根拠存在の形式一般から、意識に生じるものを記述してきたが、しかしその際、この概念がつねに一定の質的なものであることを無視してきた。この規定された概念が根拠であるべきであり、生きた自己規定する自由な存在創造の力が与えられるべきである。ここから意識の形式に対して生じるものは何か?概念の原因性の意識の形式についての中心課題が完全に解明されるために、今からはこれが問題となる。
 
 前提された力は、それの根拠になることはできるが[現実に]その根拠であるように一般に自己規定してはいない。その結果、自己規定においてはただ行為の形式のみがある。つまり力はただ形式的に自由なのであるが、自由から生じるものは別の法則のもとにあるのだ。以上のことは明らかであろう。あなた方も知っているように、そのようなたんなる形式的な自由はあらゆる反省のうちに現れる。そこでは現実に拘束された見視作用はその拘束性から自己を自由にできる。しかし新しい見視作用は、見視作用自身の自由によっては形像されず、別の法則によって見視作用に与えられたものである。ここではいわば反省においてあるように、能力に拘束された生命は絶対的な自己規定によってこの拘束性から自己を自由になり、そして生じたものはまさに他の法則にあるのだろうか?今までは少なくともそのように見える。またわれわれの叙述もここまでのところではそのような考えを許容している。

 それではいかなる関係だろうか? 規定された概念は根拠である。すなわち、この概念に従って原因性へと生命は自己規定する。この規定された産物aはあらゆる可能な非aを否定しながら、自己規定へと歩み、この結果行為へと進む。さしあたりそこから生じるのは、力は、存在の原理と固有の内的な自己規定の原理の二つの観点においてみられると、力はまた実質的なもので質的にも自由であり、まさに意図された作用をもたらすために無限に規定されつづけることが可能であるということだ。はっきりいえば、「質的なものは多様なものの有機的な統一である」ということである。この多様なものの一つが異なったものであれば、全体も違ったものとなる。力はそれゆえたんてきに多様な部分のそれぞれを規定できなければならず、多様な部分によって規定可能なものでなければならない。そこには最初のものとほかの低次のものがあることになろう。(そこから多くのことが同様に生じる:結局は人間の身体の有機体と分肢はこの命題に基づいている。これについてはすでに『道徳論の体系』でしめしたところである)。
 
 それゆえもたらされるべき産物aの予定像は、自己規定する自由と徹底的に合一し、融合していなくてはならない。思うに、この予定像が自由の支配と所有のもとになければならないということが重要なのである。まさにそれに従って力が規定されるならば、それは力強い決定(nervus decidendi)である。これによってわかりやすくするための卑俗な表現を用いるならば「自由はこの予定像をもたねばならない」。ところでこの予定像はたんてきに徹底的に、前提された純粋で絶対的な概念のうちに規定されてある。そうすると自己決定と行動の予定像としてのこの概念は自由な力の所有でないといけないだろう。自由な力はそのものとしてはこの概念を構築し、それと総合的に統一しなければならないだろう。というのも、その力は、概念にしたがって実在的な力の行動と自己規定を構築しなければならないからである。
 
 私が諸君によい手助けを与えるところではしっかりつかんでほしい。というのも道徳論そして哲学一般にとっては今いるこの点をはっきりすることが重要だからである。行動は少なくとも一つの多様性の有機的な統一であり、力はその統一に従ってこの多様性を規定し、整理するものである。統一はこの多様性、力をすでに直観し、眺望しているのである。この多様性にαβγδの点をおいてみるといい。ここで明らかなのは、実在的な力はαからβへと自己規定しなければならない。けっして可能なマイナスβへとはいかないし、βからγへと行くがマイナスγにもいかない。力はこのことを一つの予定像にのみしたがって行う。

 その予定像において、行動によってはじめて継続的にもたらされるべきαβγδなどはすでにして完結し、その統一において把握されているだろうし、実在的な力、それゆえこの諸要素の総合的な統一は二重の観点で見られる。その二重の観点とは観念的すなわち映像の中ということ(その場合はこの映像が完結しているだろう)そして存在の中に模写像をもたらす力としての実在的なものという二つである。この模写像をもたらす力はその継続において最初のもの(観念的なもの)に従って方向づけられ、それはまた二つに分岐する。つまり行動と観照である。

 この力はさらに映像の中における総合的な統一としての高次の観点において、実在的な作用におけるこの総合的な統一として把握されねばならない。それはこの高次の映像において後者が前者によって規定されることで可能になる。一言でいえば、つねにそれに随伴する眼がすでにはめ込まれている力なのである。見ることと生命が絶対的に同一化されたものが自我であり、それゆえ原因性の概念の生命は意識においては必然的に自我の形式をとり、概念は原因性においてはそういうものへと変貌する。
 
 眼が取り付けれられた力は自我、自由、精神性の本来の姿である。それに生きた正しい像を与え、これを固定し、この種類の物についての判断の根拠にそれを置くことができる者は多くを得たのである。見視が力を随伴する、すなわちそれがαβγδと超えていくということはそれが直接に見えるようになるということである。見視は力を導く。見視は力が記述しなければならない道を記述する前に見る。それはαに遂行がとどまっている間にβを見る。というように導きによって力を規定する。この見視、力のあるもの、生きたものはαβγδ等を通して進むように、実在的な力はそれに直接に従う。実在的な力はまさに見視そのもので実在的な生命の形式にあるからである。すなわち、このことは、そして概念は直接の根拠とは以下の意味であった。見視は直接に自己自身によって創造する生命である。実在性は事実の中において目を向けられる。私は「目を向けられる」というが、それは何か別の器官の適用なくして実在性として目を向けられるのであり、たんなる映像としてではない。というのも、それはまさに他の客観的な直観形式にとって実在性だからである。
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(2へ続く)     ___System der Sittenlehre 1812:hrsg. I.H.Fichte

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