シラーの美的観念論

Friedlich Schiller (1759-1805)

 「われわれは新しい神話をもたねばならない。…そしてこの神話は理性の神話とならねばならない」(1)とは、『ドイツ観念論最古の体系プログラム』の宣言である。それは美的理念を、真理と善をも統一し、包括する理念として最高位 におき、理性にもとづく感性的宗教、芸術の信仰共同体を構想する。

 宗教が統合理念としてのその地位を喪失してしまった現代、いわゆる「神なき時代」に住む吾々にとって、芸術をその救世主とする美的な共同体の構築というプログラムは切実に響く。現実にも、これまで述べてきたように、ウィリアム・モリスの工芸社会主義、柳宗悦のギルド共同体、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」にもとづく羅須地人協会の実践例などがあり、美的活動において、真理と善の統合と実現をめざした点では、ある種の共通 性をもっている。

 しかし、これまたすでに述べたように、ガダマーによれば、普遍と個別が分裂・対立する教養社会にあっては、救いを求める世界の要求は、芸術家の個別 性においてしか実現されず、その芸術家がたしかにひとつの信仰共同体をつくりえたにせよ、それ自体が個別 的であり、人々を結びつけているのは、美的教養という普遍的な形態でしかない。いずれにしろ、それは生じつつある崩壊を証しするものだと批判する。このとき、ガダマーの批判の鋒先となっているのが、上述の体系プログラムであり、またシラーの美的教養論である。

 たしかに現実的な実践の敗北を見るにつけても、ガダマーの批判の意味はわかるが(というよりむしろガダマーが結果 からそう意味づけたに過ぎないが)、しかし、それでも『最古の体系プログラム』やシラーの美的教養論を、アクチュアリティのあるものとして積極的に評価するのが、前にも述べたハーバマスである。そうした把握はハーバマスの独自性というよりも、晩年に「美的次元」へと至ったマルクーゼや師アドルノ、それにホルクハイマーらのフランクフルト学派の思想の正当な継承とでもいえるものかもしれない。

 彼はいう。「シラーは芸術こそ、未来の〃美的国家〃において実現される一種の対話的理性と捉えていたのである」(2)、「シラーの美的ユートピアは、生活環境を審美的にすることを目的としていないのはいうまでもないが、了解、意思疎通 の状況を革命的に変革する目標はもっている」(3)。このようにハーバマスは、自己分裂をおこしたモデルネ(近代)の宥和をになうコミュニケイション的行為の一つとして芸術の役割をあげるシラーを高く評価する。

 いずれの立場に立つにせよ、近代の自己分裂の問題に切実に対応せざるをえない限りは、シラーの思想や最古の体系プログラムの問題提起が、アクチュアリティをもって吾々に迫ってくることはたしかだろう。  この小論はこうした問題意識を引き継ぐものであるが、しかし、ここでとりあえずの狙いとする所は、カントとの継承と対照(コンテクストとコントラスト)において、シラーの美学思想をつかみ、そのことによって、カントと混同されがちなシラーの独自性をうきぼりにすることである。そのことによって、シラーこそがヘーゲルの歴史意識を準備したことが示唆されるだろう。

1、「美は自由理念の間接的表現である」
−−カントの到達点 概念なき合規則性、目的なき合目的性

 カントが判断力批判で本来意図したことは判断力がア・プリオリな原理をもちうるかどうかということである。  判断力とは特殊を普遍のもとに包摂する能力であるが、既に法則や概念が与えられておれば、何の原理も必要とはしない。しかし、科学的認識や道徳的な判断とちがって、美的判断の場合、普遍的な概念や法則(原則)が与えられておらず、反省のための主観的原理が必要となる。

 美というものはこのように、対象の概念にも主体の目的にも関係せず、いいかえれば、悟性概念による自然認識でもなく、また主体の対象への目的意志をもった働きかけ、行為とも直接には関わらない。たしかに美は、感性と悟性を通 じての対象の表象であるが、対象的自然そのものの認識ではない。

 たとえば絵画は、物理的には色の集積でしかなく、絵具と画布にすぎないが、ひまわりならひまわりの絵を見て、美的な判断において人は、このひまわりは美しいとうけとる。実物ではないにせよ、人はひまわりを表象の内で造形しているのである。この美的な判断の内では、従って、ひまわりという形式が作用しており、換言すれば、悟性の概念が規定的ではないにせよ、反省的に働いて、判断する主体に適意を生じせしめている。構想力の総合した形像は、客観的な認識におけるひまわりの概念と偶然的に一致しており、合規則的なのである(概念なき合規則性)。

 この形式・形像作用の構造をもう少し詳しくみてみよう。美は形式、形像にかかわるものであるから、根源的に感性を通 じての構想力による造形作用が前提されている。即ち、構想力の総合がそこに働いているのであるが、しかしこの構想力は認識判断とちがって、美的判断の場合、この総合による形像をカテゴリーの支配に供給しないり構想力は対象からの触発にまかせて、己れの自由な自発性にもとづき、造形する。そうしてこの形像が悟性による再認によってそれ自体規則性をもち、あたかも「吾々がこれらのものの根底に目的に従う原因性、即ち、ある一定の規則の表象に従ってそれらの対象や行為を配置しておいたような意志を想定するかぎり、その可能性が説明、理解されうる」ような合目的性をもつのである。もちろんそれは実践的行為における目的ではない(目的なき合目的性)。

 構想力は自由な遊びをいとなみ、しかも悟性は自由な合法則性(目的なき合目的性)をもって「構想力につかえ」、構想力の自由が無形式になることをおしとどめる。この関係が「調和」と言われる。感性(構想力)と悟性をつなぐ判断力は、美を判定する主観的原理として、かかる構想力と悟性との自由な働きによる主観的な合目的性をもつ。この判断は論理的判断ではないから、対象の表象を概念のもとに包摂しない。これはあくまでも対象の規定にはかかわりなく、主観と表象との反省的な関係の内にとどまる。とはいえ、この構想力と悟性の調和、合目的性という原理そのものは、ア・プリオリなものであり、そのことによって普遍妥当性を要求できるのである。


(1)Das aelteste Systemprogram(1796/97) in; Schelling, Texte zur Philosophie der Kunst, Reclam, 1982. S.97
(2)Habaermas, Der Philosophische Diskurs der Moderne, Frankfurt, 1985, S.59
(3)Dasselbe, S. 63

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