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 二十歳が人の一生の中で、いちばん美しい瞬間(とき)だなんて、誰にもいわせまい。そんなことを言っていたポール・ニザンの台詞とともに、この物語は始まる。そうさ、青春なんて憂さと辛さが多いのだ。今このように、呻吟している。

 その時私は白い砂の上にいた。ジリジリと背に首に、熱したニクロム線のような光が刺していた。俺がいくら八月生れで、向日葵の花咲く頃に声を上げたからと言ったって、暑いものは暑いのだ。行きがけの店でラムネを買ってそれを飲みのみ歩いていた。ふと立ち止まり、ラムネの壜をかざし泡つぶの中に水色の太陽を見た。一九七八年、七月の末。

 右の方には、どこまでも続く海が見えた。鹿児島県志布志湾。足許には十七キロに及ぶ砂浜が横たわり、弓なりの海岸線のまん中に、少し開いて檳榔(びろう)島が様に浮かんでいた。左手には、広大な大隅の台地が拡がる。カライモ畑の緑のカ―ペットの中に、杉やけやきが点在していた。

 ここに「新大隅開発計画」が鳴り物入りでやってきて、人々が色めき立ったのはもう幾年前だろうか。一九八七年の今を話せば、右の風景と白砂青松は失われ、寒風と灰色雲の下に、三つの巨大な埋立地の工事とクレーンとケーソンが、汚濁の海に浮んでいるだけだ。

 難航する開発計西の、なしくずし工事として、県の始めた志布志新港改修工事。これに対する闘いを築き上げようと、宮崎大、熊本大の自主講座の学生連中とともに、意識調査のアンケートを廻って取ったのが、今から八年前の夏だったのだ。
 
 なかなか集まらぬアンケートの束を小脇にかかえ、涼を求めて歩いていた。木陰を求めて来たところが宝満寺。白い砂利をひいた境内の右手に磨崖仏があり、その崖を一面に緑陰が覆う。砂利と岩肌との境目に、濃い影のおちた堀があり、冷たい水の中を鯉が泳ぐ。乳母車を押す主婦が私の前をよぎる。磨崖仏は子安地蔵が多かった。赤い腹がけに毛糸の帽子。こんな片田舎にも、と思わせる美しい寺だった。
 
 ほっと涼しい溜息も出た。ところが私の前を砂利をけ立て、白いほこりを上げて、一台の車が騒々しく急停車する。そして勢いよくドアを開け一組のカップルが白いスカイラインから出てきたのだった。
 
 (このくそ暑いのに、車をスピン・ターンさせやがって。暑苦しいぜ。こちとら、アンケートもとれずイライラしてんのに)。
 (あ。気にくわねえなあ。赤い服の女。このくそ暑いのに)。
 
 二人は私の斜め前を通り、大きな公孫樹(いちょう)の木の下のベンチに腰かけた。女の白い肌の肩にある赤い紐が無性にせつなかった。そういえばこの一週間むさ苦しい野郎どもと合宿状態だったのだ。活動家に女は要らないなんて、活動家でもないくせに、そんなセリフを又つぶやいて歩き出したとき、「何してるの?」と女が呼び止めた。
 
 どうするかちょっと迷ったが、私は黙って、アンケートをちらつかせ、平気な顔してベンチヘ歩いた。そこで説明書を見せて、志布志新港改修の住民意識調査をしてるのだと答えた。彼女はふんとうなづいて、説明書を読んだ。私から鉛筆を取って回答をしてくれた優しい女だった。
 
 男は何かとりとめのない事をいいながら煙草をくゆらしていたけれど、申し訳ないが今の私には顔すらも記憶にない。夏だというのに、殆ど日焼けの跡もないすきとおる白い肌にほのかに葉影が揺れていた。血の流れも見えるくらいのうなじと肩があえかな色気を感じさせた。アンケートを終え、私に戻しながら、彼女は頬笑んでこう言った。
 
 「だけど私、来年からサン・フラワー・フェリーに就職するんだけど、まずいかな。でもここ私のふるさとだもの。頑張ってね」。
 
 こんな田舎の夏の日に、こんな美しいお寺があって、ひときわ濃い光のコントラストの中で、美しい女の人と逢ったなんて、まるで小説か映画のように、あまりに出来すぎていると私は思ってはみたけれど、ひとまずその幸運と幸福、それに彼女の心持ちに感謝しつつ境内を出る石橋の方へと向ったのだった。川向うには、陽で焼けた瓦屋根がひしめき合って続いていた。(2へー右下のGoをクリック)

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