最近いくつかの場所で講演や談話に招かれました。そこで話したことを再構成して再録します。

0、はじめに

 昨年ですか、.拙著『共感する心、表現する身体』(新評論)を贈った先輩が面 白いコメントをよこしてくれました。それによりますと私がこの本の中で書いた「美的経験」の概念が、見田宗介の『現代社会の理論』(岩波新書)での「必要なき消費」の発展に当たるのではないかというのです。さっそくその本を買い、また著者が根拠としたフランスの現代思想家バタイユの本もついでに読んでみました。見田氏は、現代の際限ない物質的な消費、環境破壊や発展途上国搾取の上に成り立っている現代の消費を、バタイユが提起した「至高体験」の概念を使って、いわば「消費しない消費」に転換することを提起しているのです。彼はそれを「生きることの歓び」としています。いい文章ですので、以下に引用しましょう。

 「生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般 に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬ ことよりもよいという根拠はなくなる。どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般 には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも本源的なものである」(141ぺージ)。

 このような基本的な歓びが現今の必要や物質的消費に変われば、人間はまだ生存可能であることがこの書で示唆されています。この部分と私の本との関連を示してくれた先輩の指摘になるほどと思いました。基本的に私のめざしていた方向と同じだからです、私自身は社会的歴史的位 置づけまで考えていなかったのですが、博学な見田氏は多様な理論の蓄積をもとにこうした方向にしか情報化・消費社会の未来がないことをこの本で論じてくれています。ある種の確信をもらった私は、拙著で書いた美的な経験、表現が人間の生きる歓び全般 とどのようにかかわるのかという問題関心をもつようになりました。今日お話するのはその一部です。

 

1、アドルノの言葉

 またまた引用で恐縮ですが、アドルノという現代ドイツの哲学者の言葉にこんなものがあります。 「若い時分には無限に多くのものが人生の約束として、先取りされた幸福として感じられるものだ。それから年をとるにつれて、その時のことを思い出し、本当はそうした約束の瞬間こそ人生そのものだったと悟るのだ」。

 こういう経験はみなさん、おもちではないでしょうか。子どもの頃、若き日の頃、自分が夢をもってやれるようなこと、好きなことをするとき、約束された将来を夢見たことはありませんか。もちろん現実に夢見た将来を可能にしている人は少ないし、可能にした人にせよ、現実にその世界に住むとちっとも期待したほどではなく、苦労も多いというのが人生の常です。たとえばタレントになりたいと思って、歌や踊りのけいこをした人が現実にタレントになっても、競争の厳しさの中で売れなくて、失意のうちにあるかもしれません。でも、その人が子どもの頃ステージを夢見て歌を歌ったりしていたときに、どこまでも希望に満ちた未来が広がるような幸福感を味わったとしたら、それが人生の幸福そのものだとアドルノは語っているわけです。

 そんなのではあまりに淋しすぎる、という方もおられることでしょう。そういう人は目の前に現実的に幸福が名声や地位 や物としてなければならないということのようです。それではしかし恵まれた人、幸運な人だけに幸福が独り占めされてしまいます。アドルノのいう子どもの頃の「先取りされた幸福」こそは、誰もがもちうるものであり、どんな人間にも可能な幸福です。それは物質的なものではなく、ただイメージにかかわるものであり、心の持ち方一つで誰にも近づきうるものですから。大人になってあの頃の夢が果 たせず、たとえ失意のうちにあるとしても、子どものとき夢見た瞬間の幸福感は事実として残り、あれは確実に私の人生の幸福な瞬間の一つだったと思い出して、再びその懐かしさに豊かな気持ちになれるのです。それもまた人生のかけがえのないものとして存在することはたしかだと思います。(2へ)

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