1、コルチャック先生を知っていますか?

ヤヌシュ・コルチャック(1878-1942)

 コルチャック先生を知っていますか?この数年アンジェイ・ワイダの映画や近藤夫妻による伝記が発表されて知る人も多いでしょうが、念のためかんたんに紹介することにします。

 ヤヌシュ・コルチャックはユダヤ系ポーランド人の医者であり、教育者として1930年代に活躍した人です。彼はワルシャワに、戦災種児や政治犯たちの子どもなどを受け入れた寄宿学校を二つもち、幾人かの協力者といっしょに維持経営しました。

 今世紀初頭はスウェーデンのエレン・ケイやイギリスのおなじみサマーヒルのアレキサンダー・ニール、それにイタリアのマリア・モンテッソーリなど、通例「子ども中心主義教育」と子ばれる教育観が登場しました。コルチャックもその系列に教え入れられます。

 しかし、彼は体系的な教育学を残さなかったし、他の人にありがちな「子どもの理想化」の傾向、(つまり教育ママとは違った意味で)子どもに大人の願望を投影したり、子どもを聖化することで大人の世界を批判しようとする傾向をもちませんでした。彼は医者として冷静な日で子どもを観察し、そのずるさ、悪賢さ、裏切り、いじめなど、隠さず記録しています。

 若い頃は社会主義者でもありとくに宗教的な人間ではありませんでしたが、トルストイとタゴールに傾倒したせいもあってか単なる近代主義者、リべラリストではなく高い精神性をもっていたようです。

 彼は子どもの自治の力や自然の中での生命カ、治癒カというものを体験的に知っていました。自然の中で子どもたちが生活をともにすることから、経験の共有、自主的に道を切り開くたくましさを発揮するようになるのです。彼が郊外で催した休暇村は別名「生のための学校」と呼はれ、フォルケホイスコーレとの偶然の一致に思わず笑みがもれてしまいます。

 ナチスのポーランド侵攻以後、ユダヤ人はゲットー(強制的に定められたユダヤ人居住地区)に閉じ込められ、食料も満足に供給されないような悲惨な生活を余儀なくされます。コルチャックも子どもたちといっしょにゲットーへ移ります。彼の名望もあってかゲットーの中では比較的ましな環境をあてがわれますが、食料や医薬品あるいは暖房その他生活に必要なものを入手するために、かなりの辛酸をなめさせられるのでした。ワイダの映画でも、コルチャックがそのためにとったシタタカさを忠実に描いています。

 戦況がひどくなるにつれ、ゲットーの中では盗みや暴力などが横行するようになります。しかし、コルチャックの学校ではこうしたことがはとんど起きなかったといわれています。それどころか、時々催すコンサートや芝居には多くのユダヤ人が来て、慰められ、人間としての誇りを取り戻して帰っていったというふうに伝えられているのです。

 収容所送りがささやかれるようになり、コルチャック自身覚悟を決めたのでしょうか、子どもたちとタゴールの『郵便局』という芝居を上演します。「結局は、死の天使を、やはり子どもたちもやさしくやすらかな気持ちで迎え入れることを学ばねばならないだろうから」とその理由を語っています。

 1942年8月初め、ついにトレブリアンカの収書所への移送が決まりました。協力者のステファ夫人は子どもたちに晴れ着を着せ、希望をあらわす緑の旗を先頭に子どもたちは整然と行進したといわれます。悲惨な状況の中で「まるで天使たちがあらわれたかのようだった」という目撃者の談も残っています。

 コルチャック自身は有名人でしたから、ユダヤ人の実力者が手を回し、収容所送りを免れる手配を受けました。ですが、彼はそれをすべて断り、子どもたちといっしょに死路へと旅立っていきました。アンジェイ・ワイダの映画は、こうした最後の場面をいきいきと描いています。コルチャックと子どもたちがかつて過ごした森の中へと列車から飛び際リ駆けてゆくという幻想のラストシーンにして、希望を今につなごうとしていたのが印象的でした。

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