「コミュニケーションとしての身体表現」
- 今子どもたちに必要なもの


デンマークのフリースクールでのワークショップ

 管理される身体、無視される身体

 予備校や大学で教えているということで、若者と接することが多い。目立つこととして彼らの姿勢が悪く、生気がないことだ。ちょっとしか時間がたっていないのに、いつの間にか力なく机に突っ伏して、寝ているのか起きているのかわからない。

 彼らが仲間内で話したり歩いたりするときもそうだ。背筋が湾曲し、せっかくのスマートな背丈もだいなしになっている。若い女性も顔が小さく、手足が長くなり、見た目はスタイルがよくなっているというのに、やはり前屈みになり、格好悪い。

 理由はいろいろあるだろう。腰を少し落とした姿勢が大事な稲作の歴史的・文化的伝統だという人もいれば、出る杭は打たれるので目立ってはいけないとばかり前屈みになる共同体の意識・ムラ社会の伝統からという人もいる。でも、一つの身近な原因としては、ペーパーテスト中心の学校教育があるといえば、思い当たる人も多いのではなかろうか。

 子どもはもともと姿勢がいいものだ。幼児の内はみな背筋は伸びている。それが小学校へ上がり、高学年になり、だんだんと机に座る時間が長くなると変わってくる。とくにひどくなるのが受験生活が始まる中学校からだ。

 35人から40人の子どもたちを詰め込み、統率するためには彼らの身体を束縛しない限り授業にはならない。ペーパーテストやドリルは彼らの身体を一番管理しやすい方法だ。全員一斉の授業やテスト、それに集団規律中心の体育や朝礼で徐々に子どもたちの身体をコントロールし、制御しやすくしていく。

 隅っこにじっとしている子どもがいる。何かを訴えたそうだが、額に汗をかくだけで思いを言葉や行動に表せない。運動場の片隅でアリを一匹一匹棒切れでつぶしている子どもがいる。何かぶつぶつ言っているのだが、聞き取れない。笑いかけても無表情で何も応えない少年がいる。

 そんな子も幼児の頃は、おやつの時間は声をあげて喜び、飛び跳ねたことだろうし、クレヨンで書いた絵を示して、これはなに、あれはなに、と説明してくれたかも知れない。どうしてそのような豊かな表現が失われてしまったのか。

 学校教育の中で、身体へのまなざしが欠けている。身体の表現について教えることがない。体育は、個人やチームの競争力を増すか、あるいはマスゲーム優先で、大人を基本としたスポーツの技術を教えるか身体の管理のことしか考えていない。音楽とて、合奏や合唱ばかりで、人に合わせることをもっぱら教えている。教室では、子どもたちが無理矢理教員の視線に合わせて演技していることを知らずに、静かで素直で教えやすいからいいと安心している教員がいる。

 

 表現的存在としての身体

 私たちは「身体」というとすぐに健康やファッション、あるいはスポーツのことしか思い浮かべない。たしかに健康であることは身体が資本の現代、豊かな生活を営む基本だし、また苦痛の少ない老後を送る必要条件だろう。ファッションやスポーツは若者や庶民のかかせない話題であり、現代の文化消費でもっとも重要なものだ。そこから私たちは、身体とは労働を担い、スポーツをして競争やエネルギーの発散の喜びを味わったり、健康を維持したり、ときにはファッションや化粧の土台として他者との差異化を楽しむものとしてもっぱら考える。

 挨拶したり、握手したり、視線を送ったり、髪を掻いたり、貧乏ゆすりをしたり、下を向いたり、頭を抱えたりといった感情や意志のコミュニケーションを担うものとしての身体は日常至る所で目にしながらも、あまりにそれが感情と身体とが一体になったものであるために、意識の上では全然気づかず、学校や社会で叩きこまれるスポーツや保健、栄養学、あるいはファッション、化粧の対象としての身体ばかりに注目がいく。たまに演劇や舞踊(あるいは少ないが茶道や武道など)やる人が表現の媒体としての身体を意識するが、それとてすでに確立された高度な身体技法にいかに近づくかばかりを考えるために、コミュニケーションとしての身体の側面にまで気づく人はそう多くはない。

 このような現状の中だからこそあえていう。身体とはコミュニケーションのためにあり、人間は表現的存在なのだと。身体は長生きするためにある道具ではなく、すてきな服が似合い、他人の目を引くためにある武器でもない。他人よりすぐれた体格で、スポーツや戦いを有利に導くためのモノでもない。それは何よりも、他者との身体的な共存の中で、喜びや悲しみなどの人間的な感情をわかちあう「コミュニケーションの場そのもの」なのだ。

 人がこの世に誕生するとき、仏陀のように「天上天下唯我独尊」といって生まれてくるのではない。何よりも身体的存在として、生まれ落ちた赤ちゃんは泣き、手を動かし、足を蹴り、産湯の中でにっこりほほえむのだ。このとき、身体は意識と未分離で、身体が即こころでもある。  虚空に手を伸ばす赤ちゃんは、身体によって空間の広がりを知り、おかあさんの胸に抱かれ肌で対話することで、自己の存在の揺るぎなさを得る。何でも口に入れたり手で触ったりして、触れることで世界の広がりを獲得していく。ほかの子どもを見て、同じ動きをすることで他者と出会い「身体的な共存」を自覚する。目の前の子どもが泣いていると、思わずつられて泣いてしまう子ども。身体的な共存は共感の関係でもあるのだ。

 

  身体の詩学

 別の言い方をすれば、子どもの体はそれ自身ポエジー(詩学)をもっている。彼らは感情を体で表すことの快感を知っている。嬉しいとき、広い空間でのびのびできるとき走り回る子どもたち。悲しいときに身体で雄弁に表現する子どもたち。われわれ大人が子どもたちの運動会や遊戯の発表会あるいは地域の伝統的な子どもの祭や、校庭や公園で遊ぶ子どもたちを見て何とも嬉しい気持ちになったり、泣いている子どもを見ておやおやどうしたのと思わず寄って声をかけたくなるのも、彼らの身体が表現するポエジー、意図しない作品としてのドラマに心打たれるからだ。

 彼らの身体も可塑的で可変的である。子どもの身体は柔軟でどんな動きでもたいていは可能だ。スポーツやピアノ練習あるいはバレエなどで、幼いころから大人を規範とした一定の身体規律を過度に当てはめることはその可能性を奪うことでもある。彼らの身体の可塑性、大人の日常の身体技法から自由な動き、あるいは逆の意味でそれらから自由な障害者の身体技法などはそれ自体新しい解釈の可能性をもっている。それは物語や作品を相手にしたときの解釈と同じなのだ。そういう意味でも彼らの動きは「身体の詩学」なのであり、日々新しい物語あるいは再編された物語を身体で織りなし、表現している。

 

 「コミュニケーションとしての身体表現」に向けて

 いうまでもなく、身体へのまなざしは演劇や舞踊に関わった人ならある程度は意識されたことがらである。だがそれを確信をもって貫き通すにはあまりに環境が不備だ。わが国にはびこる「競争志向」「評価志向」「技術志向」の影響が強すぎるからであり、学校教育の場ではとくにその傾向が顕著だからである。業績や技術の高低は誰の目にも見えやすい。学校演劇でも規範としての商業演劇が意識されていないというわけではないし、あるいはコンクールでの入賞などをした表現活動を一つのモデルとして仰ぐのはどこでも見られることだ。「作品至上主義」あるいは「技術至上主義」の考え方はここでも支配的である。

 表現活動を既成の芸術やスポーツを基準にそこから編成しないようにしよう。日常生活の中で営まれる身体による表現活動を、芸術の原初的形態あるいはコミュニケーションの発露としてそれ自体を理解することが重要だ。まずは既成の価値判断を括弧に入れる。いわば表現に関して「現象学的還元」をすることが求められている。

 だが遅ればせながら、わが国でも「コミュニケーションとしての身体表現」という考え方が少しずつ浸透してはきているようだ。心理療法でのさまざまなワークショップや野口体操などの心身のワークショップの隆盛の中で一部そうした点に気づく者もいるし、あるいはヨーロッパに見られる「コミュニティ・アート」の流れの中でコミュニケーションとしての芸術表現という観点を学ぶ人も出てきた。あとは日常生活の中に芸術につながる「コミュニケーションとしての身体表現」を見出すまではもう一歩である。

 上に挙げたような根本的な発想の転換をいますぐ期待できるものではない。しかし比較的に楽にできる実践を通して、こうした認識を深めることはできるだろう。各自が現場でそれぞれ工夫して、よりユニークなプログラムをつくっていけばいいのである。それがこれからの教育現場や地域で求められていることだ。

 手始めにその実践の具体例を示すとすれば、シアター・ゲームを初め、心理療法でのさまざまなワークショップやCAP、アサーティヴ・アクションといった社会派でのロールプレイング・ゲームのワークショップ活動などがあるだろうが、ここでは私のよく行うものとして影山健さん(愛知教育大学名誉教授)たちの提唱する競争のない民衆のスポーツ「トロプス」とデンマークの「イドラット・フォルスク」について語りたい。

トロプスの一つ「人間知恵の輪」

 「トロプス」とはSportsの綴りをsを取ってTropsと逆にしたものだ。これには既成のスポーツがあまりに競争主義になっているのに対する批判が込められている。本来身体を動かして遊ぶ楽しさと、仲間とともに行うことで生き生きとした共同性・連帯を自然な形でかもし出すことを狙いとしている。影山さんは日本の昔ながらの遊びや世界の子ども遊びあるいは演劇ゲームといった様々な遊びやゲームそれに非暴力トレーニングなどから、それらを取捨選択したりアレンジし直したりして、みなで実践できるようにした。炯眼な体育教員などはすでに実践しているはずだ。

 デンマークの「イドラット・フォルスク(語義的には民衆の身体運動)」はデンマークの農民文化に伝えられていた民衆の遊びを復活したものである。近代化とともにスポーツ、芸術的な舞踊・ダンスの流入で、すっかりすたれてしまった地域の子どもの遊びや祭にあったゲームなどのことである。これにも競争の要素がなく、みなでいっしょにやることで生き生きとした連帯感、親睦感を生み出すものが多い。技術的にも誰にでもできるものなので、上手、下手、身体能力の優劣がさほど左右せず、また動物になり切ったり、西部劇のような演劇シーンなど演劇的要素もはなはだ大きい。「トロプス」ともよく似ているが民衆のわらべ遊びや祭のゲームが起源なら似通うのも当たり前である。それらは民衆の生き生きとしたコミュニケーション形成にあずかっていたのだから。

 「イドラット・フォルスク」の復権はゲァレウ・フォルケホイスコーレ(フォルケホイスコーレとは「民衆の高等教育学校」という意味でデンマーク特有の全寮制の成人・青年教育の学校)」が中心となったが、文部省の推進政策で現在はデンマーク中の小学校や中学校で授業に取り入れられている。わが国でいえば、地域ですたれた缶ケリや竹馬遊びや馬乗りが学校の体育で自由に行われているのを想像すれば、その意義がわかるのではないだろうか。  スポーツやゲーム性よりも芸術的要素や心理的要素に重きを置いたものの代表例がシュタイナー教育での「オイリュトミー」だ。これについては市販の文献も多いので詳しくは触れないが、芸術的ワークショップ活動の例として大きな意義をもつものだと思う。

イドラット・フォルスクの一つ
中に鬼 がいて、アイコンタクトで周りの
人間が走り回る

 うちの協会での催しなどではよく上の二つのワークショップを行う。たとえば「トロプス」の中では「キャタピラ」という名の、寝そべったみんなの体の上をゴロゴロ転がる遊びをすると、大人も子どもも互いの体が触れ合って、何とも近しい気分になる。「イドラット・フォルスク」なら「牛追い」だ。牛に扮した鬼を一本のロープを輪にしてその周りをつかみ、みなで牛の角に突かれないように協力しあって逃げ惑うゲームである。これらをすると初対面の人間同士でもすぐに打ち解けあい、大人も子どもも楽しめて、何ともいえない連帯感が湧いてくる。相手の身体に触れることは友好的なコミュニケーション形成の第一歩なのだ。

 身体に触れ合い、気持ちが通い合う。そんな機会を学校や地域で取り戻す。そうすれば、想いがすこやかに表情や姿勢にあらわれる若者や子どもたちが多くなるに違いない。いわゆる「キレル」子ども、少年たちの心の闇も、こうした経験の欠如、教育現場や家庭での身体へのまなざしの欠如に一因があると思うのは決して私だけではないだろう。

参考文献

影山 健、岡崎 勝編『みんなでトロプス - 敗者のないゲーム入門』風媒社 1984年  
清水 満『共感する心、表現する身体 - 美的経験を大切に』新評論 1997年

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