フィヒテ初期知識学における「総合」の問題 
- 構想力と理性

Johann Gottlieb Fichte(1762 - 1814)

はじめに

 カントが『純粋理性批判』で、純粋理性の本来の課題を「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か?」と言表化したように、フィヒテ知識学も、その本来的課題は総合の問題にある。即ち、自我の根底にあるところの「事行(Tathandlung)」の活動を意識の上に昇せること、即ち自覚することが課題である。

 フィヒテによれば、総合(Synthesis)とは定立(Thesis,Setzen)と反立(Antithesis、Entgegensetzen)を合一する働きであり、活動である。定立と反立という相矛盾する働きが一つになって、己れの内にこの対立の緊張関係を動的に含む統一として、総合がある。それゆえ、静止的なものではなく、自己発展する活動として、それはあると言ってよい。

 この基本的構図と問題意識は、もちろんへ一ゲルにも受けつがれて、例えば、論理学におけるような、自己否定の契磯をもつ概念の自己展開といったものが挙げられるところからすれば、自我(統覚、自己意識)の根源に存するこの総合の活動の反省という問題は、ドイツ観念論の全体を貫く問題基軸といってよいのではあるまいか?

 ところでフィヒテの知識学では周知のように、この反立の役割をになうものとして、非我(我でないもの)が要請されているのであるが、この非我をめぐって、フィヒテ知識学の最大の欠陥がここにあると論争されたのも周知の哲学史的事実である。だが、それらの議論はいずれも焦点が非我そのものの可能性に向けられており、「全知識学の基礎」の第一原則と第二原則の乖離を糾弾することに急で、第三原則、フィヒテ的総合の重要性が軽視されたきらいがあった。この小論では、主として、理論的知識学の総合の働きを材料にして、フィヒテ的総合のもつ意義を明らかにしようと思う。

 

1、知識学とは何か

a.事行という活動

 知識学とは何か?フィヒテによれば「知識学の対象は、結局のところ人間の知の体系である」(『知識学の概念』I.50、ページ数は I.H. Fichte版全集による。どの版にも載っている。以下『概念』と略記)。「人間精神の内に学とは独立にあるものを吾々は人間精神の諸活動と名づけることができる。この活動があるところのもの(Was)である。それが一定の限定された仕方(Art)で生起し、この限定された仕方によって、一つの活動は他のものから区別 される。このことがあり方(Wie)である。人間精神の内にはそれゆえ、その知以前に根源的に内容(Was)と形式(Art)があり、両者は不可分に結びついている」(a.a.O.)。

 この人間精神の根源的にある活動を、それがもつ形式、法則に即して、超越論的な反省によってとり出し、その形式、法則を言表化し、命題の体系としてまとめたものが知識学なのである。

 「各々の活動はまた限定された仕方で法則に従って生起する。この法則が活動を限定している。これらの諸活動全てが相互に連関し、普遍的な、或は特殊的な、そしてまた、個別 的な法則のもとにあるときには、観察者に対して、体系もまたある」(a.a.O.)。

 即ち知識学は普遍的な法則のもとにある、最も普遍的な人間知の体系である。この知識学の限定されたもの、ある特定の領域へ応用されたものが各々の学間となる。ちなみにフィヒテは、一般 的原理としての『全知識学の基礎』(以下「基礎』と略記)を1794年に著したのち、1796年には『知識学の原理に従った自然法の基礎』、1798年には『知識学の原理に従った道徳論の体系』という、法論と徳論の二つの特殊領域へ応用された特殊な知識学をものしている。

 『基礎』は、この人間精神の活動を最も普遍的に言表化したものである。「知以前の、根源的にある内容と形式」が不可分に結合されている活動は、『基礎』では「事行(Tathandlung)」と呼ばれる。己れのもつ法則、仕方によって生起し、活動(Handlung)とその発現としての為したこと(Tat)は同一であるために、まさしくTathandlungなのである。この根源的な活動は、「吾々の意識の経験的規定のもとにはあらわれず、またあらわれることもできず、それどころかむしろ、あらゆる意識の根底にあって意識を可能にするもの」(『基礎』1.91)である。これは、自己発展する活動であるため、それ自身、展開の原理をもっており、その言表化が、『基礎』における三つの原則となっている。

 即ち、1)「自我は根源的に自己自身の存在を定立する」換言すれば、「自我は自我である」2)「自我に対して、端的に非我が対立する」3)「自我は自我の内で、可分的自裁に対して可分的非我を反立する」。

b.三つの原則

 ここで注意すべきは、この三原則をそれぞれ切り離して考えてはならないということである。これは一つの、人間精神内の総合の活動を命題にしたものであり、それぞれの契機即ち、同一性、否定性(或は矛盾)、そしてその総合、フィヒテの別 の言葉でいえば、Thesis,Antithesis,Synthesisの三つのアスペクトを各々言表したものに他ならないからである。

 フィヒテがこのようにして、一つの根源的な活動を三つの命題で表わし、三つの原則としたのは、二つの方法論的な理由からである。まず一つは、フィヒテの体系の統一性の貫徹という要求である。

 『知識学の概念』の§4で述べられていることであるが、フィヒテによれば、学の完全性というものは、唯一の根本命題(原則Grundsatz)から他の命題が導出され、一切の命題が又、必然的にその第一の原則に還元できるという形の、命題の完結せる体系のときにのみ、保証される。命題の体系は、そのことによって、一つの円環となり、閉じることになる。その内にある命題は、それぞれ、他の命題と制約−被制約関係にあって、隈なく根拠づけられている。この命題の体系の始元をなす命題は、従って、一切の命題をひき出しうるものであり、かつ一切の命題がその原理の粋内で妥当しうるもの、そういう意味で一つの統制的原理でなくてはならない。そのような他のあらゆる諸命題を制約し、統制しうる原理として、第一の原則「自我は自我である」を始元の命題としたのである。

 もう一点として、上のことと関連するが、前提として一般的な形式論理学の体系を用い、その同一律、矛盾律、根拠律からそれそれの原則を導出したという理由もある。以下、この点を少し詳しく述べる。

 フィヒテによれば、知識学こそが人間精神の活動の最も普遍的な体系であって、その他の学問はみな知識学の体系によって根拠づけられる特殊な人間知なのである。論理学もその例に洩れない。『知識学の概念』の§6で、彼は、論理学は内容と形式を併せもつ知識学の体系から内容を捨象し、ただ知識学の形式のみを己れの内容としたものとしている。逆に言えば、論理学の諸命題は知識学の抽象的形式であり。そこからその命題にひそむ総合の働きを椎論することができる。

 『基礎』の叙述のさい。フィヒテの採った方法がそれであった。この方法はいわば、超越論的反省によって、既にある意識の働き、自然的反省を対象化してゆくというものと言ってよく、換言すれば意識の根底にあって意識そのものを成立させる総合的・根源的な活動を、哲学者の反省によって意識の上にのぼらせるという作業なのである。(この方法についてはフィヒテ自身、理論的知識学の末尾の所で述べているので、吾々もあとで又触れることにしよう。)

 さて、この作業をなすに当って、フィヒテは論理学の命題を手がかりとする。論理学こそは万人が認めざるをえない真理としてあるからである。この点については、判断表からカテゴリーを導出していったカントと同じである。その論理学の命題の中でも、同一律こそはこれ以上遡ることのできない無割約な命題であるために、フィヒテは知識学の最初に、この同一律に働いている活動の内容を第一原則としてとり出したのである。即ち、A=Aという同一律の意味する内容は「もしAがあれば、それならAはある(Wenn A ist,so ist A)」ということである。Aが実際にあるかどうかはどうでもよい。論理学の命題は「形式」のみを表わすのであって、適用された「内容」には関知しない。それゆえ、ここにある活動は、「A=A」の「=」のみであって、命題でいえば、「Wenn〜、so〜」という関係のみである。

 この「Wenn〜、so〜」関係こそは、必然的な関係であり、同一律あるところ必ず存する働きである。この活動はもとより、自我の内に存する。いかなる命題であれ、判断であれ、主語と述語を結びつけるものは、自我であるから。それゆえ、「A=A」のAは、意識の内に採られた偶然的な内容であって、自我によって制約されている。制約されていない内容といえば、ただ自我のみであるので、Aのかわりに、「自我=自我」とすれば、形式においても内容においても無制約に妥当する命題となる。かくして、形式と内容が無制約な、自我の内なる活動が、言表化され、命題化されたのである。

 これは形式的には「自我は自我である」と言ってよいが、活動の内容としては「自我は根源的に自己自身の存在を定立する」と言表される。この第一原則は、最も普遍的な命題であり、最も普遍的な言表である。内容としてはこれ以後の展開全てに通 ずる始元としてあるので、全てが含まれているといって良いが、また、始元であるがゆえに、もっとも抽象的な普遍でもある。この原則は、従って、それそれの学の性格と位 置づけにおいて、一定の内容と役割も果たすのである。  理論的知識学では、カント的に言えば、統覚の総合的・根源的統一の意味で使われたり、また理性の統制的原理としても作用する。実践的知識学では、絶対我の理念をあらわし、カントの定言命法と同じ内容をもつものとされたりする(『基礎』I.260)。

 ところで、事行という総合の活動があり、この根源的な総合から一切の人間精神の諸活動が展開され、導出される以上、そこには当然、限定(規定)を与える契機が必要である。根源に普遍があるとしても、それが限定されないと特殊が生成することができない。限定という活動のためには、否定性の契磯が必要である。全ての規定は否定だからである。それゆえ、自我の同一性を脅かすものとして非我が自我に反立するという矛盾・相剋の状態が限定のために必要になってくる。

 フィヒテはこの契機も又、論理学の矛盾律を用いて導出している。即ち。「非AはAではない(一A ist nicht A)」という命題は、内容の上では非AということでAということが既に前提されている。Aの定立ということが先行し、AはAであるという自同性が意識されていなければ、非Aということは意味をなさない。しかし、これがAでないということ、Aの反対であるということは端的であり、無制約である。それゆえ、既に第一原則による自我の自己定立に対しては、非我の反立ということが端的に働く。「自我に対して、端的に非我が反立する」。そしてこの第二原則は、それ自身独立させると、たんなる否定性の契磯を表すにすぎず、無であるので、これが働く局面 には、上で見たように、自我の定立、即ち根源的同一性が働いており、そこに同一性と対立・矛盾の絶対的な効立が生じていることになる。

 だが、意識の同一性、自我の同一性は「事実」として破壊されておらず、(もし破壊されているのならば、一切の自己意識、知は存在しない)非我による否定を受けながらも意識の自同性は保たれている。この事実の根拠として、当然に、そこに矛盾と同一性の総合の活動が存するはずであり、それが第三原則として言表されたものである。この総合の活動の内に、自我の自己定立と非我の反立、そして限定という活動が合一されている。

 第三原則は、その形式と内容が第一と第二の原則から導出でき、従って前二者によって制約されているということで、第三番目に来るけれども、それは、無制約的な唯一の命題から下位 の命題への展開という体系構成・叙述上の順序によるものであって、内容としては人間精神の総合の活動のより具体的な自覚にほかならない。最も抽象的な自同性の契機のみを呈示した第一原則も、もとよりこの総合の活動「事行」の言表化であるが、この第三原則はそれよりも、ある意味では深化、具体化された言表なのである。とは言え、これもまだ抽象的で一般 的な命題にとどまっている。その意味でまさしく「原則」なのである。

 さしあたり、総合の契機、展開のための動力となる契機は全て尽されている。これを理論的能力としての自我の活動と実践的能力をもつ自我の活動とに展開していくだけのものは全部そろえたわけである。これは、上に見たように、論理学の疑いえない三つの命題を介して得られたものである以上、妥当する原則であるはずである。この原則によってなされてゆく総合の働きの道程全体によっても又、この原則の妥当性がためされてゆく。(続く)

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