表現の哲学者としてのフィヒテ

Johann Gottlieb Fichte(1762 - 1814)

 初めに

 イエナ期のフィヒテの思想の要諦の一つが相互主体性(間主観性)にあることはこれまでにいろいろ指摘されてきた事柄である。だがヘーゲルとの関連で相互承認論の文脈ばかりが強調されたきらいがあり、フィヒテの独自性、思想の豊かさがまだ充分に伝えられてはいないのではないかと思う。彼の相互承認論、相互主体性の問題が社会哲学的意義をもつことは当然ではあるが、しかし、フィヒテの相互主体性の議論において、反省的判断力や想像力、あるいは目的論的なアナロジーが駆使される点に注目すると、そこには社会哲学だけには収まらない意義もあるのではないだろうか。

 この文脈を明らかにする試みの一つとして、チャールズ・テイラーやアイザィア・バーリンの概念に倣い、フィヒテの哲学を「表現」の哲学として把握することを私は提起したい。その場合、二つの文脈で考察する。一つは有限な主体が相互にコミュニケーションをとるという意味で「表現」の哲学であり、二つ目は絶対者が自己を表現するという意味で「表現」の哲学なのだ。フィヒテの思想全般にわたってそのように捉えることができるかどうかは今後の課題ではあるが、まずは「交わり」と「身体」という二つのキーワードで論じることで、イエナ期のフィヒテの思想にいささかの照明をあてることにしようと思う。

 1、「交わり」の哲学者としてのフィヒテ

 周知のようにフィヒテの哲学はカントの『判断力批判』の延長上にある。たとえば『1804年知識学第二講義』では、カントが『判断力批判序論』で示唆しながら、彼自身捉えることができなかった「感性界と超感性界の根底に両者を関連させる一つの原理」(SW X,110)を明確に把握することが問題意識であったと彼はいう。だが、美と目的論が媒介的位置を果たしたカントと異なり、フィヒテはまず法の理論を媒介とした。

 カントの『判断力批判』の主題の一つが、社交、交わり、公共性の議論にあることは現在では人口に膾炙しているが、実はフィヒテ自身もその問題構制の圏内にあった。媒介的な位置に法の理論を持ち出したのは、交わり、社会の理論こそが、感性界と超感性界をつなぐものであることを彼がはっきりと意識していたからである。これは自然の認識論でもなく、道徳論でもないから、理論理性や実践理性は中心的な役割を果たさない。ここで一番重要なものは反省的判断力である。

 フィヒテによれば「法の理論は、理論哲学と実践哲学の中間にある」(NM,242)もので、理論哲学と実践哲学を媒介する。経験界での認識と叡知的なものに通底する意志による実践の媒介項はまず理性的存在者の「交わり」の社会哲学において現れるのである。ここで形成された「法の概念」は理性的存在者の現象界での「交わり」の概念であり、叡知的な理性的存在者が現象界にあらわれるときに必然的に生じねばならない総合の概念、交替限定の概念であり、超感性的な道徳法則・自由・自発性の概念と、現象界の必然的な原因性の概念の媒介となる。「法の概念によって初めて自由な存在者の社会が成立する」 (SW IV,65)。

 しかし、カントとの共通点がないわけではない。上に述べたように、カントにあって理論理性と実践理性を媒介したのは判断力であったが、フィヒテにおいても、判断力が媒介的な役割を果たしている点では同じなのである。『自然法の基礎』(以下『自然法』)では、反省的判断力の目的論的判断こそが、自分の外なる理性的存在者の想定を可能ならしめている要諦となっている。

 一例を見てみよう。
 『自然法』では、よく知られているように、自己意識の成立の際、自我である主体が自分の自由な活動性を損なわない形で、しかも同時に非我である客体から規定されるという矛盾がある。これは「主体が自己を限定するようにして限定されること」すなわち、客体からの被限定が同時に自己限定でもあるような活動によって解決された。それが「促し」の概念である。この客体からの「促し」は自我に自由な自己限定を促すものだから、意味をもった「概念」であり、自己規定という一定の「目的」であった。そのとき、自我は客体に対して、この存在が促しという一定の目的を自分に与える以上は、当然その目的・概念・意味を理解する理性的存在者でなくてはならないだろうと「推論」する。つまり、この他者は促しという「目的」によって制約されている。あるいは、自我の側からすると、促しから、反省的判断力によって、この他者を「目的」にかなうものとみなし、そこから理性的存在者であろうと類推する。

 この方法はすでに『学者の使命』において言及されていた。フィヒテは、そこでは、「理性的であるということの第一の、しかし消極的な性格としては、概念に従う作用、目的に従う活動ということである。合目的性という性格をもつものに対しては、理性的原因者がありうる」(SW VI,304)と語っている。しかし、目的に従う活動としては有機体も挙げられるので、これだけでは理性的存在者と判断するには不十分である。「そこで、統一ということは自由による作用であろうから、多様なものが一致して統一になることこそは理性的なものが現象となって現れた場合の間違いのない性格ではなかろうか」(A.a.O.)として、多様なものの統一ということを指標にする。

 同じことは『自然法』でも語られている。「どんな作用でも、それが目の前にある以上は、充分に把握されうるし、作用における多様なものは、観察者自身が知性をもてばもつだけ、その分上手に概念の統一の下にもたらされる。これは、カントが反省的判断力と名づけたものによって、観察者が多様なものの内にもち込んだ統一である」( SW III,37)。この「多様なものの統一」が「目的の概念」(A.a.O.)でもある。フィヒテは、理性的な原因ならば、自分の活動の結果についての概念を構想し、この概念によって方向づけ、行動すると考える。この概念によって、他者は多様な行動を統一し、一定の行動をとる。自我は、他者からの促し、目的にかなった行動を受け、また、目的に従った行動ということで、自分も他者に対して理性的存在者ではないかという判断を下すのである。対象に目的を投げ入れ、対象の行動がその目的にかない、合目的性、いいかえると多様なものの統一、自由意志をもつかのように見えるならば、それは理性的存在者と見なされる。

 このような判断は反省的判断力によるもので、類推であり、仮説的でしかなく不充分である。それゆえ『自然法』では、この後、相互の承認が行為として続き、認識と行為の統一的な把握によって、理性的存在者の存在が確定的なものとされたのである。

 「目的」の投げ入れが同じく他者類推において重要な役割を果たすのが、『道徳論の体系』(以下『道徳論』)での「人工物」からの他者類推である。人工物はそれ自体概念を示すが、その概念はそれを製作した者によって予め概念把握されている。それゆえにこそ、人工物は概念をもつ理性的存在者を示すわけである。ただしフィヒテはこれは直接的に働きかける促しにくらべれば間接的であるので、理性的存在者の推論としては根源的ではないとしている。

 見てきたように、フィヒテにとって、目的は概念であり、概念のやり取りをする相互の人格・理性的存在者は、それ自体互いに交わり・コミュニケーションをとっている。この交わり、コミュニケーションがあるがゆえに、他者認識と自己認識が成立する。つまり、交わりがあるから人間があり、人間があるからその後の交わりがあるという構造をもっている。フィヒテを「交わり」の哲学者と呼ぶには充分であろう。そして、そのときに働く反省的判断力は交わりの成立に不可欠な働きをしている。カントと違った方向をとったとはいえ、フィヒテにあっても反省的判断力は理性的存在者の交わり・コミュニケーションを可能にする重要な概念だったのである。 (2へ)


  引用文献 引用ページ数はI. H. Fichte編集のSammelte Werkeの復刻版による。ローマ数字が巻数を表す。この中に含まれていないものについては、以下に掲げるテキストのページ数を示した。 GB: Ueber den Unterschied des Geistes, u. des Buchstabens in der Philosophie(1794/95):in "Von den Pflichten der Gelehrten, Jenaer Vorlesungen 1794/95", hrsg. R. Lauth, H. Jacob u. P. K. Schneider, Hamburg ,1971 (PhB 274) NM.: Wissenschaftslehre nova methodo, Kollegnachschrift K. Chr. Fr. Krause 1798/99, hrsg. E. Fuchs, Hamburg ,1982 (PhB 336)

inserted by FC2 system