木漏れ日のひかりは川に降りそそぐ 5 Essen

 寮でいちばん馬が合うのはフランクとアミンだ。フランクは音楽テラピスト。音楽を通 して精神を病む人々を治療することを学んでいる。ドイツに到着した翌日のこと、私がひどい風邪をひき、孤独と不安におののいていたとき、彼は私の語し相手となり、元気づけてくれた。ドイツ語の下手な私を相手に話すのはとても骨の折れることだったろうが、言葉でつながるよりも、言葉にならない言葉でふれ合える関係がこんな状況のときためされる。

 彼ほほんとうに心の優しい人間だ。ドイツ人としては比較的稀有な、細やかな気づかいに富む。そこいらを飛ぶ小鳥たちが彼の肩に安心してとまったとしても、それは不思議ではあるまい。彼と一緒に見た映画、ミヒャエル・エンデの「モモ」とインクマール・ベルイマンの「沈黙」は良い思い出になるだろう。そしていつか、彼の最愛の映画、タルコフスキーの「ノスタルジア」と「サクリファイス」をともに見ようと約束している。

彼はタルコフスキーと同じく、人類の絶望の向うにある未来を信じようとしている。─僕は、今、地球の環境が…たとえばフロンガスでオゾン層が…破壊されているときに、こうして大学の練習室で、ギターやピアノの練習をしているのがときとして耐えられなくなる。そう言って彼は、ピアノのキーのAの音を殴るように叩くのだった。

Frank

─マラハバ(やぁ)!。ミツルいるかい?

 ヨルダン領のパレスチナから来たアミンがPLO(パレスチナ解放機構)の本を私にもってきた。彼は今、イスラエル領のパレスチナ、ウエスト・バンクに戻った後、イスラエル官憲に拘束された親友の救出のため、尽力している。彼の国籍はヨルダンになるが、彼も戻れば徴兵が待っており、戦火の絶えぬ 中東で、銃口とにもに生きなけれぱならなくなる。

 同じ寮に住むパレスチナ人、ハムザの故郷はイスラエル領内のガザ地区だ。1987年来の「インティファーダ」、イスラエルのパレスチナ人殺戮に対する民衆の抵抗闘争に、ハムザの両親、兄弟とも参加している。三百人以上が既に銃弾を浴びたり虐殺されたりしたというのに、それでも、人間としての尊厳を求め、宗教や人種の差別 なく、自分たちが生れ育った土地で、誰にも土地と生存の権利を奪われることなく生活できる場所、パレスチナ人の共和国の樹立をめざして「パレスチナ人など存在しない」と公言するイスラエル(当時)と闘う。そうした両親、兄弟、親族、友人を残して、ドイツの大学に学ぶ彼ら。ともすれば、安楽なドイツでの生活に流されそうにはなるけれど、常に生と死、そして革命を背に負って、大学に通 う。

  8月8日。日本から私の友人一家がドイツに私をたずねてくれたとき、パレスチナとイギリス人(このとりあわせも妙なものだが)の連中が歓迎の席を設けてくれた。このときアデナンが私の友人に訊いた。

─日本ではパレスチナのことはよく報道されるか?
─あるにはあるが関心は低い。
  彼はこともなげに言った。
─それではもっと抵抗して、たくさん報道されるようにしよう。

Mohamed, Amin and Janet

 このあと記念写真を皆でとる。中央に坐った私の手に、アミンがPLOの機関誌にあるアラファト議長の写 真を持たせた。彼も一緒にという意向だ。私には彼の国連での有名な演説が思い出された。

「革命家とテロリストの違いは、何のために戦っているかという点にあります。正しい目的を持って、自分自身の土地を侵入者、入植者、植民地主義者から解放し、自由にしようとしている者を、決してテロリストと呼ぶことはできません……。
 なぜ私は夢をもったり希望をもったりすべきではないのでしょうか?夢や希望を現実にするのが革命ではないでしょうか……。
 キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も、正義と兄弟愛と進歩のもとに一緒に、民主的な国家のなかで生活できるように、共に協力しようではありませんか。戦火はパレスチナの地に燃え上ります。しかし、そのパレスチナに平和が生まれるのです」。(アラファト議長1974年11月国連での演説より)

 しかし、その彼らとドイツ人いやヨーロッパ人との間には深い深い溝がある。トルコ人もイラン人も、そしてアラブ人たちも、ドイツでの生活で差別 され摩擦を起こし、自らのアイデンティティーの世界を守って閉じ込もる。彼らの口からふたことめに出る言葉は決まっている。「シャイゼ・ドイッチェ!(ドイツ人のくそったれ!)」。口には出さずとも、つまらぬ 娑婆苦のためか、私の気分も似たような所まで落ちかけていた。無味乾燥な街、エッセンに止むなく閉じ込められた夏、不如意な日々が続く中、ドイツ語を強いられる生活の中で、思わず私もつぷやきかけそうになった。「シャイゼ・ドイッチュラント(ドイツのくそったれ!)」

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