カノコユリは百年の想いを秘めて原発の前に咲く2

上野地区の山から甑島を望む

移住開拓の美しき共同体

 このときを機に、彼らの移住開拓の歴史を甑島にまでわたって調べてみた。そうすると今まで見えなかった彼らの生活史がありありと見えてきたのだ。

 上野・池之段の人たちは、その先祖が1884年(明治17年)の11月に対岸の甑島の鹿島村より移住してきた。甑島は江戸時代にまで遡っても、飢饉が相次ぎ、島を離れる者が多かったとされている。台風の通 り道なので、その被害も大きかった。

 この1884年には政府の国家的事業として本土への移住が計画された。希望者を募り、抽選で選ばれた人々がわずかの支度金と農具の給付を受けて、鹿児島の出水、大隅半島、種子島などへ開拓移住していった。川内へ来た人々はその抽選を待たずに、自力で対岸へ渡りついた人々だった。

 着いたその日から掘り小屋を建てて雨露をしのぎ、原野を切り開き、大岩を火で焼いて砕いては段々畑の石垣として積み上げるという苦闘の日々が続いた。猪などの山獣にせっかく手をかけた畑を荒らされ、やっとの思いで開拓した土地も、地方(じかた)の農民のものだから、小作料を払いながら耕したという。

 この調査をしたとき(1985年)、池之段地区にそれまで見たことのない石碑が地区の公民館横に立っていた。前の年の11月がちょうど移住開拓百周年に当たり、それを機会に台座を新しく立て直し、場所を移したのだという。石碑自体は1927年(昭和2年)に開拓記念碑として既に建てていたもので、集落のはずれにあったそうだ。かつてひんぱんに訪れて、たいていのことは知っていたつもりだったが、彼らの歴史を知らないと見えないものがいっぱいあったのだ。

 三代かかって痩せ地を開拓し、その間に戦争があり、農地解放があった。屍を越えてやっとの思いで生活を安定させたと思ったら、子どもらは高度成長期で都会へ出て、二度と戻らず、村は過疎になってゆく。とどめは、老人と家畜が暮らす山あいの小さな過疎の村に、降ってわいたような原発建設である。日本の過疎地には為政者たちの思いも及ばないこうした人々が数知れずいるのだ。

 もう一つの集落、上野のHさんを訪ねた。Hさんはここの地区の公民館長(いわゆる町内会長)を長く務め、反原発のリーダーでもあり、原発に対抗した手作り風力発電のために土地を快く解放してくれた人だった。Hさんは1894年(明治27年)に、父が移住開拓してきて二代目に当たる。島にあった先祖の墓も、敗戦後、集落の入り口に移し、この地を終生の地と定め、サツマイモを中心に、アワ、麦、米をつくってきた。戦争中は召集が早く、昭和12年に徴兵され、敗戦の年まで中国北部山西省にいたという。帰国してきて、食べるものもなく、ユリ根を食べて飢えをしのいだという。

芋掘りをするHさん

 開拓の話を聞くと、しまってあった手帳を取り出してきて、上野を切り開いた初代の開拓者四名の氏名を大事そうに見せてくれた。魂は忘れられていないと私は思わず感動したものだ。

  夏の日に上野や池之段を歩くと、カノコユリが目にとまる。白い清純な花弁にある赤い斑点が鹿の子の背を連想させるというのでついた名前だそうだ。華麗だが派手ではなく清楚で美しいユリだ。江戸時代シーボルトが、その美しさに驚嘆し、ヨーロッパに持ち帰って、オランダを中心に品種改良が進められ、今日の西洋ユリのもとになったものだという。花屋で見る派手で大きなユリは、厚化粧の感じがして好きではなかったが、カノコユリを見たときは、清楚さと華麗さをもちあわせたその姿に一目で心惹かれた。

 カノコユリは甑島に自生する天然のユリだ。あと福岡県の宗像地方にも少々自生するが、甑島の規模には遠く及ばない。夏の日の丘や大地には、緑の草むらの中に赤白の花弁が群生し、全体が淡いピンクとなってそれは幻想的で美しい。土地の貧しさ、崖の多いこと、海から潮風が吹きつけてくることがかえってよかった。この花は、平地ではなく険しく切り立った崖に咲き、豊かな土壌ではむしろ腐食し、人手をかけると病気になりやすいという。逆境にこそ咲く花なのだ。そして飢饉のときはそのユリ根が人々を助け、また美しい花弁も観賞用として売られ、村の人々を助けた。

 この花も最初からこんなに美しかったわけではない。自生とはいえ、人が住むところに正真正銘の天然のものはない。甑島の無名の人々の手が何百年とかけられて、こんなに清楚に美しくなったのだ。飢饉や災害と裏あわせになりながら、それでも可憐な野の花を愛でてきた島民の心根の美しさがいとおしくてならない。

 上野、池之段も故郷とよく似た貧しい土地柄だ。開拓者たちはこのユリを携えて海を越えてきた。夏にはユリの咲き乱れる山腹で開拓を続け、積んだ石垣の間からもまたユリが咲いた。その花の姿こそはおのれと故郷の島々を結び支える絆だったにちがいない。今に至るまで、段々畑の石垣に、畑の脇に、家々の庭に、このユリが咲いている。まるで村々をこのユリが守るかのように。そして原発を見おろす丘の上にも、ひっそりと、だがきっぱりと、百年以上の想いを秘めてカノコユリが咲いているのだ。

川内原発

 この調査を終えたとき、私にはこの二つの集落が、陰口はおろか切り崩し工作や利益供与にもめげずになぜ最後まで原発に反対できたのかがわかった。彼らの心の象徴はいわばカノコユリだったのだ。この美しき花こそが彼らの無意識の一体感、お金よりも大切な土の生活の真面 目さをあらわしていた。

 だがこのような美しき共同体は強靭な貨幣経済の濁流に呑み込まれ、消えていかざるをえない。一人二人と比較的若い農民を中心に、原発建設の労働者として雇用されていき、村の団結が崩れていく。しかし、だからといって現金を求め、働きに出る人々を誰も非難したりはしない。彼らはただ黙って立っていた。嘆くでもなし、怒るでもなし。哀しくも心痛いばかりの気配りがあった。私たちは、村に分裂や混乱をもたらすことをあえて避け、彼らの達者なことを祈って、静かに別 れを告げて立ち去るだけだった。

(終わり)

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